追想2

 田舎の夜道は驚くほど暗い。

 まばらな街灯を頼りに歩いていても、少し脇道にれてしまえば、たちまち足元すら覚束おぼつかなくなる。


 でも、その夜は雲ひとつなくて、やけに明るい月が出ていた。

 私は月光に切り取られた自分の影を追いながら、無心で歩き続けていた。

 体を動かせば動かすほど、思考が自分の内側にめり込んでいくようだったけれど、だからといって、じっと立ち止まっていれば悪夢が追いかけてくる。それなら歩き続けていた方がまだマシだった。


 先輩が死んだ。

 それは私の世界の終わりを意味していた。

 あふれ出しそうな感情は、もう喉元までせり上がって来ている。

 それをなんとか誤魔化すために、私は歩き続けていた。


「奇遇ね。きみも夜の散歩?」


 雑木林の陰。

 小さな道祖神の近くに、女の人が立っていた。


「はい。散歩です」


 私が答えると、彼女はぬるりと月光の下に出てきた。

 月明かりに照らされたその顔は、不可解なことに、微笑をたたえているように見えた。


「お通夜の時は、ろくに挨拶もできずにごめんなさいね」

「いえ、こちらこそ」


 雪美さんは、お通夜の日に見かけた時よりも、顔色が良くなっているようだった。

 弟の……先輩の死を、こんなにも早く乗り越えたというのだろうか。

 一瞬、複雑な想いが私の中に渦巻いた。


「せっかくだから、一緒に歩きましょうか」


 虫の声も聞こえない静かな夜だった。

 二人分の足音が、いやに大きく聞こえた。


「太陽と仲良くしてくれて、ありがとうね」


 どんな気持ちでその言葉を口にしたのだろうと思い、ちらりと横顔を盗み見てみると、彼女は思っていたよりもずいぶんと穏やかな表情をしていた。


「仲良くしてもらっていたのは、僕の方です」


 私は本心からそう言った。

 自分など、先輩の広い交友関係の端っこにかろうじて引っかかっている程度の存在でしかないと思っていたからだ。


「あの子、友人はたくさんいたみたいだけど、家に呼ぶような親しい友達はほとんどいなかったの」

「……そうだったんですか」

「きみのことは、特に気に入っていたみたい。私にもよく話してくれた。趣味が合うんだ、って」


 そういえば、先輩は自分の趣味を誰とも共有できなかったと言っていた。

 だからこそ、たまたま同じ趣味を持っていた私が、先輩の目に留まったのだ。


「たまたまですよ」


 そう、偶然私が同じ趣味を持っていた。ただそれだけのことで。

 それは別に私じゃなくても、他の誰かでも良かったのだ。


「でも、きみだった」


 どきりとした。

 考えていることを見透かされたかと思った。


「きみはずいぶん自分を卑下ひげしているようだけど。あの子が選んだのはね、翔くん。あなただった」

「選んだ、って……」

「あの子の死を、心から悲しんでくれている友達はきみだけだよ」

「そんなこと」

「きみは毎晩こうして歩いている。太陽の死をいたんで。……私もそう」


 雪美さんは、こんな人だっただろうか。

 こうして話すのはまだ二度目だけど。初めて言葉を交わした時は、弟を溺愛できあいする姉といった感じで、どこか幼さすら感じられた。

 しかし、この月光に照らされた夜道を歩く彼女は、まるで達観した大人の女性そのものだ。


「あの子は死ぬべきじゃなかった……」


 闇に吸い込まれていく小さな呟きは、しばらくの間、私達から会話を忘れさせた。

 そう、その通りだ。先輩は死ぬべきではなかった。

 活力と希望に満ちたあの人は、もっともっと生きて、自分も周りも幸せにしながら、ずっと遠い未来まで生き続けるべきだった。

 私と雪美さんが辿り着く想いは、結局同じなのだ。

 二人分の足音だけが響く夜の散歩は、影絵の迷宮をぐるぐると歩き回っているような気持ちを抱かせる。

 感情が煮詰まっていくのを感じた。


 不意に、雪美さんはタタッと数歩前に出て、こちらを振り返った。


「ねえ、翔くん」


 会ってからずっと見ていたはずのその表情が、微笑などではなかったということに今更ながら気付き、ぞわりと肌が粟立あわだった。

 それはもう、そういう表情が貼り付いただけの、仮面のようなものだった。


「私、人間を滅ぼそうと思うんだけど、どうかな?」

「いいですね」


 頭で考えるよりも先に言葉が出ていたことに、私は自分で驚いていた。

 しかしその言葉は、じっくりと考えたとしても大して変わらなかったに違いない。


「きみならそう言うと思った」


 ふと、雪美さんの体の周りに、青白い人魂のようなものが浮かんでいるのが見えた。

 それはゆっくりと旋回し、彼女を取り巻いている。


「私ね、魔法使いだったんだ」


 彼女が人魂の一つに触れると、青白い炎は音もなく膨れ上がり、激しく燃え盛る残像だけを網膜に焼き付けて、唐突に消えた。


「あの子が死んだことを知らされた日、私はこの力に気付いたの」

「魔法……ですか」

「そう、魔法。何だってできるんだよ。私は私の空想を現実にすることができる」


 馬鹿馬鹿しい、とは思わなかった。

 現に自分の目の前には青い炎が飛び回り、枯れ草の少し焦げたような匂いがふわりと漂ってくるのだ。

 そもそもこの夜はおかしかった。私と雪美さんがこんな時間に出会ったのだって、果たして偶然だったかどうか。


「この魔法の力があれば、太陽を生き返らせることだって……多分、できる」

「っ……!」


 一瞬、ありもしない希望が胸の中に湧きかけたが、すぐさま私の心は冷静さを取り戻した。

 もし本当に生き返らせることができるならば、雪美さんはとっくにそれを実行しているはずだ。


「でもね……多分この魔法で生き返らせた太陽は、私の想像する太陽でしかないの。私の知らない部分が欠けた、薄っぺらな人形。……そんなものを生み出すことだけは、ダメなんだ。きっとそれをやってしまったら、終わりなんだ。死よりもおぞましい何か……百ぺん死んでもそそぐことのできない何かを……背負ってしまう。だからもう、私にできることは……ひとつしかないの」


 そういうことか、と思った。

 結局、人が人に対してできることなんて、限られている。

 今、雪美さんと私が抱く思いは、限りなく近いものなのかも知れないと思った。


「……今日、太陽をいた犯人が死んだわ」


 衝撃的なはずのその言葉も、心のどこかで、なんとなく予想がついていたのかも知れない。


「この力に気付いた日に真っ先に捕まえて、今日まで休みなく、考えつく限りの苦痛を与えてきたんだけど……ちょっと目を離した隙に死んじゃった」


 まるで虫の生き死にについて語っているかのような軽い口調。

 それは本来とても恐ろしい話であるはずなのに、私は全く嫌悪感を覚えなかった。

 こんな状況で、そんな力を手にしたら、きっと私も同じことをしていたに違いない。


「最初はね、あの男が苦しんで死ねば気が済むんだろうなって思ってた。でもね、全然そんなことなかったんだよ。何も変わらないの。人を殺しても、人は変わらない。私も、あの男も、結局は同じだったんだ」


 その無表情の声色から、私はなんとなく雪美さんの心の中を理解できたような気がした。

 雪美さんは、ずっと泣いていたんだ。

 魔法の力でどれだけ外面を取り繕っても隠し切れないほど、どうしようもなく傷ついて、深く絶望していた。


「人間なんて嫌い。大嫌い。みんな、私も……消えてなくなってしまえばいい」


 ぞくりと、冷たい何かが体の中を通り抜けていった。

 直後に風が吹いた。不吉な風だと思った。

 何か、取り返しのつかない何かが起きたという、漠然とした予感だけがあった。


「……でもね、翔くん。きみだけは、生きていてもいいよ。太陽が認めた人だから。特別に私の魔法の力を分けてあげる。もちろん対価は貰うけどね」


 いつの間にか手が届くほどの距離にいた雪美さんの指が、私のひたいに当たった。

 同時に、胸の中から何かが大量に抜け出ていき、代わりに灼熱の塊が流れ込んできた。

 雪美さんの指が離れるまで、恐らく五秒も経っていない。にもかかわらず、私はまるで何分間も息を止めていたかのように激しくあえいだ。

 次第に呼吸が落ち着いてくると、私は自分の心の中の変化に気付き、ひどく動揺した。


「今私が貰った対価は、きみの中に渦巻いていた、人を憎む気持ち。魔法の力は想いの力だからね。きみの想いは私とひとつになって、人間を滅ぼすの。その後は……私があげた魔法の力で、好きなだけ生きるといい。飽きたら、好きに死ぬといいよ」


 私は、自分の五感がはっきりと覚醒するのを感じた。

 どこか遠くで悲鳴が聞こえたような気がした。

 もはや人を憎む気持ちは心の中のどこにも存在せず、まるで悪い夢から覚めたような気分なのに、皮肉なことに、この世界は逆に悪夢の中に突き落とされたらしい。

 止める暇もなく一斉にドミノが倒れていくかのように、命の灯火が次々と吹き消されていくのが分かった。


「隕石を落とす、大きな地震を起こす、凶悪なウィルスを蔓延まんえんさせる……人を滅ぼす手段なんていくらでもあるけど、今更そんな悠長な話ってないと思わない?」

「……何をしたんですか」

「獣を作ったんだよ。人間の影一つにつき、一体の獣を。彼らは自分を生んだ人間を必ず殺す。地下にいても、海にいても、空の上や宇宙にいても関係ない。今この瞬間、一斉に、世界中の人間は獣に喰い殺されたの」

「僕と、あなたはまだ生きています」

「言ったでしょう、あなたは殺さない。あんな獣程度じゃ、あなたを傷つけることなんてできない。でも私は……すぐに消えるわ。もうこの世界に用はないもの。私の心にくすぶる想いが消えない限り、何度でも、何度でも繰り返しましょう」


 そう言うと、雪美さんは本当に何の前触れもなく、一瞬で消えた。

 静か過ぎる夜にたった一人取り残された私は、この誰もいなくなった世界で気が済むまで生きて、そして最後は自ら命を絶つ……そんな運命を辿るはずだった。


 私に発現したのが、『知覚した魔法を再現する』という魔法でさえなければ。


 雪美さんが消えた時の魔法を再現して私が辿り着いたのは、一九六二年の日本だった。

 十月二十七日、土曜日。

 破滅へと傾きつつある世界の流れに乗じるようにして、雪美さんが例の獣を放った所だった。

 そうした歴史の力を借りなければ、魔法を使うことさえできないほど、雪美さんは消耗していたらしい。


 私がこの世界に来るまでに、彼女は一体どれほどの世界を滅ぼしてきたのだろう。

 その責任の半分は私にある。

 私の想いを力に変えて、彼女はここまで来てしまったのだから。

 今度こそ止めなければならない、と思った。

 これ以上、人間を滅ぼさせる訳にはいかない。私は手当たり次第に、助けられそうな人を助けて回った。

 不幸中の幸いとでも言うべきか、雪美さんの魔法は最初の時のように一瞬で全ての人間を殺してしまうほどではなく、時間的な余裕があったのが救いだった。

 人々を助けて回る間に雪美さんの姿を探したが、結局見つけることはできなかった。


 やがて私は、自分の力の限界を感じ始めた。

 この世界に移動した時点で魔力の大半を失ってしまっていたのだ。そんな魔法を何度も使ってきた雪美さんは、本来なら一体どれほどの力を持っていたのかと考えると、背筋が寒くなるようだった。

 調子が万全でなくとも黒い獣との戦いには支障はなかったが、それが朝も夜もなく無限に続くとなれば、話は別だ。

 時間の経過と共に目減りしていく魔力は、いずれ尽きてなくなるだろう。私が倒れた時、人々を守ってくれるものは何もない。

 それを防ぐために、私は魔法の才能がある人々に、自分の力を譲渡じょうとすることにした。あの夜、雪美さんが私にしてくれたことの再現だ。

 その試みは思いの外、大きな成果を上げた。

 新しく生まれた魔法使いたち。彼ら、彼女らに導かれれば、私がいなくなっても、人々は生きていけるだろう。

 私は安堵し――同時にひどく油断してしまったらしい。

 私の意識はそこで、強制的に闇の中へと突き落とされていった。

 雪美さんは、私がこの世界に来たときからずっと私を監視していたのだ。

 そして力を失いかけた私を、遥か空の彼方に封印した。

 次に目覚めたのは、それからおよそ百年後のことだった。



 ◆



「封印ついでに念入りに記憶を消してくれたおかげで、前の世界ではまんまとあなたに操られ、結局私は世界を滅ぼしてしまいました。あなたはどこまでも慎重で、それでいて大胆で、誰よりもしたたかだった」

「……なるほどね」

「でも、今の私は全てを知っています。私がこの世界に来た時点で、あなたの計画は破綻はたんしているということです。だから……もうやめにしませんか」

「この先に起こる全てを経験してきたなんて、反則ね。きみさえ来なければ、何もかも上手く行っていたんでしょう? 全く、ひどい話。よりにもよって、この世界に来るなんて」


 その言葉とは裏腹に、雪美さんは異様なほど落ち着いていた。

 まるで本当は何もかもどうでもいいと思っているのに、自分の役割を演じ続けなければならないのだとでも言うように。

 ふと、私の記憶の中の彼女と、今目の前に立っている彼女とでは、どこか、何かが決定的に違っているのではないかと思った。


「きみは今すぐ私をどうこうする気はないみたいだから、私も今は戦わないでおく。少し時間を貰うよ。まだ、何か打てる手があるかも知れない」


 そう言うなり、雪美さんの体は、空にぽっかりと口を開けた大穴に吸い込まれていった。


「……ちょっと自分、話つけて来るっす」


 空手の魔法使い様は閉じかけた大穴を無理やり広げ、雪美さんの後を追うようにして飛び込んでいった。

 前の世界でも見たことがないほど鬼気迫る様子だったけど……まあ、彼女なら取り返しのつかないようなことはしないだろう。

 二人の魔法使いが去り、私とりりのだけが残った廃ビルの屋上に、穏やかな風が通り抜けていった。


「ショウ。悪いけど、後でもっかい説明して。いっぺんにいろんな情報が入ってきて……ちょっと、整理つかないから」


 こめかみを押さえながら眉間に皺を寄せるりりのを見て、私の心の中に一気に現実感が戻ってきたのか、なんだか急に泣きそうな気分になった。

 私は確かに一度、世界を滅ぼしたのだ。

 りりのも、元一も、私が殺した。

 その事実が突如として、重すぎる実感を伴って胸に去来したらしい。


 ……もう二度と。誰一人として、死なせはしない。

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