目覚め

 ……何か、夢を見ていたような気がする。

 この感覚は多分、先輩の夢だ。

 胸が締め付けられるような苦しさだけを残して、具体的な記憶は一秒ごとに消えていく。そんな切ない目覚めを、あの日からどれだけ経験したか分からない。

 夢の残滓ざんしが指の隙間からぽろぽろとこぼれ落ちていくのを感じながら、私の意識は浮上していった。


「……あっ、ほら! 目を開けた! 空手様、起きましたよ!」

「ああ、よかったっす。ショウさん、分かるっすか?」


 意識の焦点が次第に定まっていく。

 気が付けば、りりのと空手着の少女が、私を覗き込むようにしていた。

 私はまだ夢を見ているのだろうかと思った。


「りりの……無事だったんだね。よかった」

「……え?」

「まだ意識が混濁しているのかも知れないっすね。……ところでショウさん、ずっと気になってたんすけど、それは……」


 彼女の目線は、私の左手に注がれていた。

 自分でも気付かないうちに固く握りしめられた手からは、何か紐のようなものが見えている。

 ぎこちなく左手を開いてみると、それは灰色の紐だった。

 麻のような、絹のような、不思議な触感の、細いリボン状の紐。なぜこんなものを握っていたのだろう?

 それを思い出そうとした瞬間、私の寝ぼけていた頭は一気に覚醒した。

 そうだ、これは空手様が最後にくれたものだった。世界が終わる、最後の最後に。


「ちょっと、見せてもらっていいっすか?」


 私は黙って、その紐を彼女に手渡した。


「これは……自分が髪を縛っている紐とっすね……まだ魔力が残っている……」

「空手様の? ていうか何でそんなものを……えーと、彼女が?」


 りりのの質問に答える前に、彼女は何かを確かめるように自分の髪に触れた。

 その細くしなやかな短い髪が確かに縛られていることを確認すると、少しだけうつむいてから、顔を上げた。


「ああ……なんとなく分かったっす。多分これは別の自分からのメッセージで……ショウさん、あなたはきっと……とんでもない奇跡を起こして、ここまで来たんすね」


 奇跡。

 その言葉は、私の胸を激しく打ち付けた。



『今、奇跡はきっと起こったっす! 自分が必ず、それを証明してみせるっす! だから……』



 あの時、奇跡は起きていたのだ。

 そして彼女は言葉通り、それを証明してくれた。

 最後の変身を解く瞬間。自分の心の中から何かが抜けていくように思えたのは、気のせいではなかった。私が今こうして落ち着いていられるのは、全て彼女のおかげなのだろう。

 ああ、こんなにも感謝の言葉を伝えたいのに。

 もう二度とあの少女には会えないのだ。


 ……そう、時間が巻き戻った訳ではないということは、なんとなく実感として理解していた。

 ここは恐らく、あの世界とよく似たもう一つの可能性の世界。

 私は固有領域をリンクさせて、この世界の私自身を上書きして……つまり、乗っ取ったのだ。

 この世界に生きる私の魂を。

 まだ何も知らず、これから様々なことを経験していくはずだった私を奪い取った。


 固有領域をリンクさせることができたということは、この世界は、私が経験した世界と同じような運命を辿る可能性が高い。だから、同じ悲劇を繰り返さないために、私はここに来たのだ。

 ……こじつけでも、そんなふうに考えるしかなかった。

 この世界の私が、何を思って異世界の私を受け入れてくれたのかは分からない。しかし、その思いには応えなければならないはずだ。


「あのー……アタシ何がなんだか全然分からないんですけど……そろそろ教えてくれません? っていうかあなた、本当にショウなの?」


 いい加減しびれを切らしたりりのが、ジトっとした目で私達を見つめていた。


「うん、ショウだよ。空手様の眷属になってやっと……そう、やっと女の子になりたいっていう願いが叶ったんだ」

「そっか……それは……うん、おめでとう」

「ありがとう。それと、りりのが私の毒を治してくれたんだよね。そっちも、ありがとう」

「それは別に……ていうか、どうしてアタシの毒がアンタの体の中に、っていうのが一番意味わかんないんだけど」

「あー、それは話すと長くなるかも……」


 そうだ、彼女たちには話さなければならない。

 私がここに来た経緯と、これからどうすればいいのか。

 魔法で私の記憶を直接見せてもいいんだけど……あれには危険な副作用がある。

 見せられた他者の記憶を、まるで自分自身が経験したことのように錯覚してしまう可能性があるのだ。

 他人の考えを、あたかも自分の考えであるかのように思い込んでしまう。それはとても恐ろしいことだ。

 ……もう二度と、そんなことがあってはならない。


 ではまずどこから説明すればいいのだろうかと考えを巡らせていると、突然声が聞こえた。


「それは私も是非聞きたいな」


 一瞬前まで誰もいなかった場所に突如現れたのは、二十代半ばくらいの女性だった。

 無造作に束ねられた長い黒髪。無気力そうな目を囲う黒縁の眼鏡。茶色のセーターとジーンズの上から、くたびれた白衣を羽織っている。


「ありゃ、幻想。飽きたから帰るとか言ってたのに、やっぱ気になって来たんすか」

「目覚めるまで待っている時間が退屈だっただけ。私にも無関係じゃないしね」

「それはまあ……ショウさん、彼女……幻想の魔法使いのことをショウさんが知っているかどうか分からないっすけど、さっきショウさんの傷を治してくれたんすよ」


 私と白衣の女性は、お互いにじっと目を合わせたまま押し黙っていた。

 その妙な雰囲気を感じ取ったのか、空手様はそれ以上何も言わず、ぎこちない空気だけが流れていった。


「……傷を治してくれてありがとうございます」


 私はとりあえずそう言った。

 このまま黙っていてもらちが明かないし、何より意味も分からず一人でオロオロしているりりのがかわいそうだ。


「どういたしまして。ショウくん」


 眼鏡の奥で鈍い光をたたえる彼女の目は、まるでヤスリで研磨された鉄のようだった。

 何も映さず、計り知れないほどの質量を持って、ただそこにある。

 私の名前を呼ぶ落ち着いた声色を聞いて、頭の奥底がうずいた。


「傷を治してもらったお礼になるかどうかは分かりませんが……私がどうしてあんな状態だったのか、全てお話します。雪美さん」


 幻想の魔法使い……雪美さんは、表情をまったく変えずに、声だけで笑った。

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