赤い世界

 どこからか取り出した小さな黒いシールを、首筋に貼り付ける。

 たったそれだけで、【シールの魔法使い】の魔力は数倍にも膨れ上がった。

 背を向けていた【空手】がその異常な魔力に気付いて振り返った時には、既に彼女の右腕は根本から食い千切られていた。

 完全に油断していたとは言え、一瞬で肉薄し、すれ違いざまに腕を切り飛ばした敵の姿を見ることすらできなかった。

 一拍遅れて肩の傷口から血液が吹き出す。赤い飛沫が床に届こうとしたその時、逆再生のように血液が重力に逆らい、千切れた腕は一瞬にして何事もなかったかのように復元されていた。


「……あなたは五行の魔法はほとんどつかえなかったはず」


 普段通りの声で尋ねる【シール】だったが、その容貌ようぼういちじるしく変化していた。

 体中のいたる所に幾筋いくすじも血管が浮き出ており、浅黒く変色して硬くなった皮膚には細かいヒビが入っている。両眼は充血し、呼吸は荒い。


「そうっすね。今でも使えないっすよ」


 【空手】はこともなげに答える。一瞬で腕が再生したのは彼女の固有魔法によるものだったが、わざわざそれを敵に教えるようなことはしない。


「それよりあんた、害獣の魔力を体内に入れたっすね。馬鹿な真似を……」

「ふ、ふふふふ」


 小さな笑い声が終わらないうちにその姿は消え、遅れて大きな破裂音と共に、岩がこすれるような音が響いた。

 それは一度では終わらなかった。断続的に音が聞こえる度に【シール】の立つ位置だけが変わっている。【空手】は終始、一歩も動いていない。

 【シール】が挑み、【空手】が受ける。その一瞬の交錯こうさくに数えきれないほどの攻防があるのだが、速度が速すぎるために音がひとまとめとなって鳴り響くのだ。


「……ただの害獣じゃない。くろうして手に入れた『名付き』の魔力なのに……どうして届かないの……?」


 こほ、とき込んだ【シール】の口から、黒いドロドロとした塊がこぼれ出た。

 既にその小さな手足は痙攣けいれんが止まらず、黒く硬化した皮膚組織が絶え間なく剥がれ落ちている。


「害獣の魔力を拒絶反応なしに取り込める訳がないじゃないっすか……ましてや、『名付き』の魔力なんて自殺行為もいい所っす。まだ間に合うっすよ。自分なら害獣の魔力だけを消すことが……」

「うるさい!」


 咆哮ほうこうと共に繰り出された渾身の一撃に、最初の不意打ち以来初めて【空手】の体がよろめいた。

 細かい傷が手や顔に赤い線を作り、しかしそれも一瞬で消える。


 【シール】はもう、床に両膝をついていた。

 得体の知れない黒い粘液が、口だけでなく目や耳、皮膚にできた亀裂からも流れ出てくる。

 ごぼごぼと何かうめき声のようなものを上げながら、尚も立ち上がろうとするが、とうとう右足が膝のあたりから砕け、ぐしゃりと崩れ落ちた。

 手のひらを見るようにして顔に向けられた両手が、ボコボコと泡立つ。その真っ黒に染まった眼が既に光を失っていることは明白だった。

 自らの意志とは無関係に、【シール】の脳内にこれまでの人生の記憶が鮮やかに蘇っていた。


 父が初めてプレゼントしてくれた外国の珍しいシール。青い宝石のついた宝箱。花の香りがする石鹸。

 自分をかばって死んだ兄。擦り傷だらけの手足。立ち上る煙。恐ろしい破壊の音。悲鳴。

 ひとりぼっちで死を待つだけだった自分を助けてくれた魔法使い。繊細な手。優しい笑顔。

 人々から向けられる感謝の声、畏怖いふ眼差まなざし。

 ただ、皆を救いたかった。

 あの人が自分を救ってくれたように、自分も誰かを救いたかった。

 いつも優しく接してくれた【悦楽の魔法使い】が処刑された時も、この世界のためなら仕方がないと割り切れた。

 もっと人々のためにできることはないだろうか。

 膠着こうちゃくしたこの世界を、本当に救うことはできないのだろうか。

 私はただ、皆のために――


 ずるりと、肉が皮膚と一緒に黒い粘液となって溶け落ちる。

 その下から出てきたのは、骨ではなく、固い毛の塊のような組織だった。

 一度は完全に動きを止めた【シール】の体が、バッと跳ね上がった。

 それは既に、人間の体ではなかった。

 崩れた右足の部分からは黒光りする昆虫のような脚が生え、今なお変化を続ける肉体は次々に害獣のそれへと置き換わっていく。

 唯一ほとんど変化していない白い毛髪が、今現在の彼女の異形を際立たせていた。


「もう、手遅れっすね」


 ぽつりと呟かれた声は、悲しみと諦念ていねんに満ちていた。

 その声に呼応するかのように、かつて魔法使いだった異形は声にならない咆哮を上げ、肉体と魔力の限界を軽く超える挙動で、今までとは比べ物にならないほど強烈な一撃を【空手】に撃ち込んだ。


「……残念、っす」


 【空手】の口から鮮血が溢れた。

 ほとんどガードせずに受けた攻撃によって左半身の大部分を失い、飛び出た筋や内臓がかろうじてぶら下がっている。即死していないのが不思議な状態だ。ましてや喋ることなど。

 しかしまたしても、時計の針が巻き戻るかのように彼女の体は高速で復元され、数秒後には身につけていた道着まで元通りになっていた。


 白い部屋の中には、道着を着た少女が一人、たたずんでいるだけだった。彼女の他にはもう誰もいない。

 彼女を半死半生まで追い詰めた異形は、文字通り跡形もなく消滅していた。

 概念のレベルにまで到達した見えざる手は、人智を超えた害獣の肉体も、恐らくは彼女の苦悩に満ちた魂さえも、最初からなかったかのように消し去ったのだろう。


 ほんの数秒だけ、かつて仲間だった少女に祈りを捧げ、それからすぐに【空手】は幻想の空間に穴を開け始めた。

 悲しみに浸っている余裕はない。

 これから先、もう二度とそんな時間は訪れないかも知れない。



 ◆



 【シール】との戦いが予想以上に長引いたせいか、戸越の街は既に夜が明け始めていた。

 朝焼けで空が真っ赤に染まり、街に強い陰影を落としている。

 ――いや、違う。これは朝焼けではない。

 ほんの少し空気を吸い込んだ瞬間、【空手】は固有魔法の見えざる手で自分の体を隙間なく覆った。

 赤い霧が出ている。空の赤はこの霧の色だ。


 街は不自然に静まり返っていた。

 人々の生活音はおろか、鳥や虫の鳴き声すら聞こえない。

 少し移動すると、新聞配達の途中だったと思しき住人が地面に倒れているのを発見した。

 転んだ際にできた擦り傷はあるものの、命に別状はない。住人は穏やかな寝息を立てていた。


 一体何が起きているのか。

 上空から様子を見ようと少し体を浮かせた時、彼女を呼ぶ声が聞こえた。


「魔法使い様! 無事でしたか!」


 人影は二つあった。

 一人は白いスーツ、もう一人はボロボロのシャツを着ていたが、その顔には見覚えがあった。元蔵の部下、宝威たからい六狼ろくろうだった。


「二人とも……霧は大丈夫なんすか?」

「ああ……いや、やっぱりこの霧が原因なんですかねェ……眷属以外の人間が目を覚まさねえんですよ。その眷属たちも段々と倒れて行っちまいまして……」


 白スーツの男、宝威が言った。

 なんでもないような口調だが、その顔には疲労が色濃く出ている。


「確かなことは分からないっすけど、多分この霧を吸った者は意識を失うみたいっすね。ほんのり魔力を感じるっす」


 幻想の空間から戸越の街に戻った時、【空手】は直感的にこの霧は危険だと判断して、固有魔法でシャットアウトしたのだった。

 少し吸った程度ではなんともないが、長時間この霧にさらされれば、例え魔法使いであっても意識を奪われてしまうかも知れない。


「なにやら大変な事態になってるってことは分かりますが、その上で、俺たちの願いを聞いちゃくれませんか」


 満身創痍の六狼が唸るように言った。

 彼らは片角一充かたずみかずみつのマンションで目を覚ました後、最後にやり残したことのためにずっと街を彷徨さまよい歩いていたのだ。


「幻想とかいう魔法使いの元に、俺らを案内してくれませんか。親父の仇を討たなきゃならねえ」

「仇って……元蔵が、死んだんすか……?」

「ええ。昨日の夜、車に乗ってるところを……なんだ、ご存知なかったんですか」


 本人にそのつもりはなかったが、六狼の言葉は自然と責めるような口調になってしまっていた。

 六狼はすぐに自分でそれに気付き、小さく「すみません」と頭を下げた。


「いや、【幻想】を止められなかったのは自分の責任っす。そういうことなら、彼女の幻想世界に通じる穴を開けるっす。今はいないと思うっすけど、待っていればいずれ帰ってくると思うっすよ」


 その前に自分が【幻想】を拘束するかも知れないが、とは言わなかった。

 眷属の力では魔法使いを倒すことなどできない。しかし、このまま赤い霧の中にいるよりも、幻想の世界に退避していた方が安全だろうと【空手】は考えたのだった。


 二人の眷属を幻想の世界へと送り、再び霧の原因を探ることにした【空手】だったが、それはあっけないほど簡単に姿を現した。

 上空三百メートルほどの高さまで浮かび上がった彼女が見たものは、壁の外にそびえる恐ろしく巨大な樹だった。

 赤黒く脈動する樹には無数の花が咲き乱れ、そのつぼみが一つ開く度に、おびただしい量の赤い花粉が霧となって放出される。


「ああ」


 少女は力なく呟いた。

 世界が、終わろうとしていた。

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