蘇る記憶
真っ白な部屋だった。
体育館のように広大なその部屋には、中央に据えられたベッドの他には何もなく、壁にはめ込まれた小さな丸い窓には漆黒の闇が映っている。
ベッドの上には、今にも部屋の白と同化してしまいそうな少女が横たえられていた。
ふわふわとした白い衣装に、人形のように整った顔。ほとんど白に近い薄桃色の髪がベッドの上を滑らかに流れている。
【空手の魔法使い】の眷属、自称魔法少女のショウコである。
そんな彼女を挟むようにして、二人の魔法使いが向かい合っていた。
一人は、黒縁メガネに長い黒髪を無造作に束ね、白衣を羽織った二十代半ばくらいの女性――【幻想の魔法使い】。
そしてもう一人は、猫耳の生えたフード付きのローブで全身をすっぽりと包み込んだ小学生くらいの少女――【シールの魔法使い】だった。
「いつまで変装してるの……?」
気だるそうな【幻想】の問いかけに、【シール】は幼い仕草でふるふると頭を振った。猫耳フードの隙間から真っ白な髪がこぼれ出て、ふわりと宙を舞う。
彼女の髪は本来黒色だが、彼女自身の魔法によって色素が抜かれているのだ。
「変装じゃない。このローブは、この人が買ってたからわたしも買ったの。髪の毛もおそろい。かわいい」
まるで子供のように舌っ足らずな喋り方だが、その瞳には尋常ではないほどの熱がこもっている。どこか陶酔したような雰囲気さえ感じさせる彼女を、【幻想】は呆れたような目で見ていた。
「まあいいけど……それで、準備はもういいの? あんまり時間ないけど、始めちゃっていいのね?」
「だいじょうぶ。今までたくさん実験と練習した。全てはこの日のため」
「そ。できれば三分以内に終わらせて欲しいんだけど」
「三十秒あればじゅうぶん」
「じゃあ……いい? 私が教えた通りにね」
「うん……」
どこかとろんとした目つきになった【シール】の様子を横目で見ながら、【幻想】はベッドの上に横たわるショウコの胸にそっと指先を這わせた。
パリッ、という音と共に、ショウコの体がビクンと跳ね上がる。
「……はい。間違いなく死んだ」
「ん」
心臓と呼吸が完全に停止していることを確認してから、【シール】はまるで熱でも計るかのように、ショウコの
それは十秒にも満たない
何かを探るように瞳を閉じ、それからスッと手をどけると、その手のひらの中に、小さな四角形の紙片――灰色のシールが握られていた。
彼女はそれを無造作に投げ捨てると、再び同じように手のひらを額の上に乗せる。
今度は十数秒の時間が流れた。
「……終わった。もどして」
「蘇生は別にあなたがやってもいいんじゃないの?」
「ねんのため」
「はいはい」
先ほどと同じように【幻想】がショウコの胸に電流を流す。二度三度と小さく体が跳ねたところで、彼女はゲホゲホと咳き込みながら薄っすらと目を開けた。
焦点の合わない虚ろな瞳で真っ白な天井を眺め、それから鋭い痛みを感じたかのようにぎゅっと顔をしかめる。
「……で、どう? 成功した?」
ショウコの様子を注意深く観察しながら【幻想】が尋ねた。
「記憶の封印じたいはもうほとんど取れかかってた。むりやり上書きしようとして壊れたみたい。残骸を取り除いたから、もうだいじょうぶ」
そう答える【シール】はどこか誇らしげだった。
「そう。ちゃんと、言う通りにできた?」
「うん」
「じゃあ、後はきちんと覚醒するまで待つだけね」
「これでやっと……」
どこかほっとしたような空気が流れかけたその時、びしりと大きな音が響いた。
真っ白な壁に亀裂が走り、地獄の門が開くかのように、それは左右に広がっていく。
渦巻く混沌の中から、道着姿の少女――【空手の魔法使い】がゆっくりと姿を現した。
「……あら、驚いた。こんなに早くヒューとヒカリを倒したの?」
言葉とは裏腹に、さして驚いた風でもなく【幻想】が言った。
「ヒューはヒカリに殺されたっすよ。あんたの差し金じゃないんすか、【幻想】」
「ああ……馬鹿な子だとは思っていたけど、筋金入りだったか。せっかくもう一つ用意しておいた保険が台無し」
もう一つの保険とは、言うまでもなく【撃滅の魔法使い】のことである。
ヒューア・メロードとヒカリ、そして【撃滅】の三人でなら、【空手】を十分に足止めできると【幻想】は踏んでいたのだ。……ヒカリの内面に
「そんなことより、さっさとショウコちゃんを返すっすよ。もう冗談じゃ済まない段階まで来てるってこと、分かってるっすよね」
「『そんなことより』、ね……」
【幻想】は皮肉めいた笑みを浮かべた。
魔法使いが死んだという大事件よりも優先すべきことがあるのか、とでも言いたげだ。
だが、普段のゆるい態度とは打って変わり、今の【空手】は邪魔するもの全てを実力で排除しかねない気迫に満ちていた。
今の彼女なら、仮にヒカリが妙な気を起こさなくても足止めの時間はさほど変わらなかったかも知れない、と【幻想】は思った。
「あなたのもとに帰るかどうか決めるのは、あなたじゃない。この人自身」
話しかけられて初めて、【空手】は【シール】の姿にピントを合わせた。
「あんた……【シール】っすか? その髪……それに雰囲気が……」
「やっぱりわたしのこと、気付いてなかった。それも当然。そうなるようにじぶんを調整したから」
勝ち誇ったような声で【シール】は言った。
普段は表情に乏しい顔も、今だけは得意満面に見える。
「今まで、わたしはほとんど戸越の街にいた。あなたは街の管理者なのに、そんなことにも気付かなかった。つまり、あなたよりわたしのほうが
「ああ……そうっすか。やっぱりあんたが黒幕だったんすね」
害獣が街に侵入した事件も、害獣の集団による襲撃も、追悼式に起きた事件も、全てはこの少女、【シール】が起こしたことだった。
緊急会議で彼女が黒幕だと見抜けなかったのも、彼女の魔法によるものだ。
彼女の固有魔法は今や、他の魔法使いたちが知るものとは全く異なる魔法へと進化していた。
「わたしはただ、この国をすくいたいだけ」
「それとショウコちゃんに何の関係があるんすか」
「わたしは自分の魔法で、自分の記憶にしかけられていた封印をとりのぞいた。そして、忘れていた全てを思い出した。【
興奮して話す【シール】の姿を、【空手】は無表情で見つめていた。
「……わたしの話を聞いてもおどろかないんだね」
「記憶の封印……どうしてそんなことをしたのか、その理由について、あんたは何も考えなかったんすか?」
「魔法使い様は、わたしたちに試練をおあたえになったんだよ。わたしたちはわたしたちだけの力で百年も持ちこたえた。だから百年のねむりを経て、魔法使い様はよみがえった。今度こそほんとうに世界を救ってくれるために。わたしはその手助けをしようとがんばっただけ。やっと世界を救えるのに、いまさら何を悩むひつようがあるの?」
「……」
その時【空手】が【シール】に向けていた眼差しには、
この小さな少女はかつて己の固有魔法を恥じ、しかしそれを否定せずに向き合い、高みへと昇華させるために並々ならぬ努力を重ねてきたのだろう。
そして恐らくその魔法は概念のレベルに到達し、己の記憶を阻害している封印を取り除くに至った。
そこで知り得たのは、自分たちが厄災の日の記憶を持たないのは、他でもない【開闢の魔法使い】が記憶を封じたからだという事実。
なぜそんなことを? どうしてあの人は自分たちを置いて姿を消したのか?
記憶を取り戻した彼女は、さらなる謎に取り憑かれてしまった。
仲間の誰にも相談せず、たった一人で、ずっとずっと思考の迷宮を
その過程で、彼女は自分でも気付かないうちに、心を歪ませていったのだろう。
自分に都合の良い答えを導き出し、疑うこともなく、それを達成するためなら犠牲や手段を選ばない。
誰か、たった一人でも彼女に寄り添う人がいたなら、こんなことにはならなかったかも知れない。
「待って。彼女が目を覚ましたみたい」
【幻想】の言葉につられて二人が目を向けると、今まさにショウコがベッドから起き上がろうとする所だった。
「魔法使い様! わかりますか……? どうか、今こそこの国を……世界を救ってください……!」
ベッドに駆け寄った【シール】が、ショウコの手を握りしめて哀願する。
しかし、ショウコは彼女の顔を一瞥すると、苦々しい表情で目を伏せ、そっとその小さな手を振りほどいた。
「魔法使い様……?」
「ごめんなさい……私は、あなたが言うような人じゃない。私は……」
ショウコは静かにベッドから降りると、三人に背を向けて歩き、黒い窓の前で立ち止まった。
「……ああ、思い出したくなんてなかった。私は……百年前、この世界に害獣を解き放った。この世界を滅ぼそうとして……失敗した」
「そんなはず……!」
「それは違うっす!」
【シール】と【空手】が叫んだのはほぼ同時だった。
しかし、ショウコの耳には二人の声など届いていないかのようだった。
「あなたたちの呼び方に従えば、きっと私は【厄災の魔法使い】とでも呼ばれるんだろうね」
自嘲気味に呟かれたその言葉に誰よりも衝撃を受けたのは、意外なことに【空手の魔法使い】だったらしい。
小さく口を開けたまま何かを言おうとするが、一言も発せられない。目は大きく見開かれ、信じられないといった表情をしている。
そんな彼女の様子など意に介さず、【シール】は尚も懸命に言い募った。
「わたしは……! わたしは覚えてる! あなたに助けてもらった時のこと、あなたに魔法の力をもらったこと! あなたが変身する前の顔と声、しゃべりかた、ずっと見てきた! 間違えるはずがない……!」
「確かに私はあなたたちを助けて、魔法の力を分け与えたかも知れない」
「そうです……そうでしょう!? あなたは【開闢の】……」
「でも、ねえ、害獣が現れて世界が危ない……なんて時に、タイミング良く正義の魔法使いが現れるなんて、都合が良すぎると思わない?」
「でも……でもあなたは現れた……」
「世界中に害獣を召喚した時、きっとそこで人間に対する憎悪が消えちゃったんだ。魔法の力は願いの力だから。私は願いを使い果たしてしまった。そして正気に戻った私は、今度はさっきまでとは正反対のことを始めた。人類を助けることを。……そんな風に考えると
「でも……そんなはず……」
「……ずっと思い出さなければよかった。一時的に消えたように思えても、人間に対する憎悪なんて後からいくらでも蘇る。私はそれを永久に封印したかった。ずっとずっと眠り続ければ、いつかは消えてなくなるんじゃないかと思った。……そんなこと、あるはずもなかったのに」
悲しげに呟くと、ショウコは白い壁に溶け込むようにして姿を消した。
それを追うようにして【幻想】も自分の扉を開き、白い部屋から出て行ってしまった。
「自分も……行かないと」
ようやくショックから立ち直った【空手】がそう呟くと、意外にもこれに返事があった。
「行ってどうするの」
【空手】と共に取り残された幼い魔法使いが静かに尋ねる。
「いらない記憶を消すんすよ」
それは、ぞっとするほど冷えた声だった。
「やっぱり、あなたにもそのくらいはできるんだ」
【空手】は答えない。
彼女の見えざる手によって、目の前の空間がジリジリと音を立てて裂けつつある。
「あの人が【開闢の魔法使い】様だっていう記憶も消すの?」
「……そうっすね」
「そう。それじゃあ、あなたを行かせるわけにはいかない」
小さな両手を広げて道を塞ぐようなジェスチャーをする少女の姿は、何も知らない者が見れば、健気で微笑ましいと思えたに違いない。
だが、【空手】は彼女に無感情な一瞥をくれただけだった。
今や【空手】の心の中に、【シール】に対する遺恨はなかった。彼女が今まで起こしてきた大小様々な事件も、今となってはどれも取るに足らないものと化したからだ。
もはや眼中にない。そう態度で示された【シール】は烈火のごとく怒るかと思いきや、逆に冷たく凍りつくような光をその瞳に宿した。
「わたしを無視して行けるとおもう?」
「あんたに自分が止められると思うっすか?」
直後、真っ白な部屋は一瞬にして、
広大な部屋を埋め尽くすようにして現れたのは、東京近郊ではまず見られないような強力な害獣の数々。
【シール】の魔法によって紙片に封印されていた大量の害獣が、一斉に解き放たれたのだ。
不思議なことに害獣たちは、自らを封じていた幼い少女には目もくれず、示し合わせたかのように【空手】に向けて飛びかかった。
害獣が人と人以外の生物を区別するために必要な要素を、【シール】はずいぶん前に特定しており、その時既にその要素を自分の中から抜き取っていたのだ。
後から後から際限なく害獣が折り重なり、【空手】が立っていた場所は黒い丘のようになっていた。
並の眷属が見ればまるで悪夢のように絶望的な状況。魔法使いの中でも、戦闘能力が低い者からすればこの数は致命的と言える。
だが、その状況も長くは続かなかった。
ボン、という音と共に黒い丘の上部に大穴が空き、そこを皮切りとして連鎖的に雪崩が起きたかのように、害獣がその四肢を派手に飛び散らせながら吹き飛んでいく。
部屋にひしめいていた害獣全てが黒い泥と化すまでに、さほど時間はかからなかった。
「面白い手品っすね。でも、この程度じゃ戦いにすらならないっすよ」
【空手】はつまらなそうに背を向けると、再び空間の裂け目を広げる作業に戻った。
今起きた出来事だけで【シール】の魔法がどんなものなのか、そのおおよその仕組みを把握し、そしてその魔法が戦闘に不向きであることを看破したのだ。
だが、【シール】はそれで引き下がるわけにはいかなかった。
悲願が達成されるまであと一歩なのだ。
記憶の封印は確かに解いた。きっと今のショウコは記憶が混乱しているだけで……時間が経てば、あるいは自分がもう一度魔法を使えば、全ては上手く行くかも知れない。
今ここで【空手】を行かせてしまえば、全ては水泡に帰す。
静かに燃えたぎる覚悟と共に、幼い魔法使いが
「
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