励起

 そこは駅の待合室のような部屋だった。

 窓からだいだい色の光が差し込み、時折カンカンと踏切の音が遠くから聞こえてくる。

 ベンチの上に置かれている色あせた雑誌をぺらりとめくりながら、【空手の魔法使い】はため息をついた。

 壁に備え付けられた時計の針は一向に進まない。これは比喩ではなく、実際に動いていないのだ。

 窓の外を見ると、オレンジ色の空に飛行機雲が引かれていた。

 非現実的な、夢のような世界。

 ここは【幻想の魔法使い】が作り出した空間の一つである。

 追悼式の日に起きた害獣襲撃事件の調査結果が出た――そう聞いた【空手】は、一も二もなく【幻想】からの呼び出しに応じた。そしてこの世界に招かれてすぐ、資料を持ってくると言い残して【幻想】が出ていってから、既に体感で一時間近くが経過している。

 今までもこういうことはあった。【空手】が面白半分で幻想の世界に侵入すると、【幻想】は決まって彼女を放置したままどこかへ行ってしまうのだ。

 だが、今回は事情が違う。

 何か妙な引っ掛かりを覚えて【空手】が腰を浮かしかけた時、がらりと引き戸が開いて【幻想】が顔を出した。


「遅い! 遅いっすよもー!」

「ごめん。ヒカリから呼び出し。すぐ戻るから」


 憤慨ふんがいする【空手】の様子など気にも留めず、【幻想】は再びどこかへ消えてしまった。

 ヒカリというのは、千駄ヶ谷農場の管理者、【光の魔法使い】のことだ。

 ヒカリに限ったことではなく、【幻想】はしばしばこうして魔法使いたちから呼び出しを受ける。

 それは地下鉄に入らないような大きなものを別の街に運ぶためだったり、緊急で移動する用事がある時だったりする。

 【幻想】が作り出す幻の世界は、その出入り口をある程度自由に設定することができるため、あたかも『どこにでもつながるドア』のように使うことができるのだ。

 ただし、彼女は自分の魔法を安売りすることはない。

 余程どうしようもない事態か、あるいは相応の見返りがなければ手を貸さない主義であるため、ほとんどの要請は断っていた。……【空手】だけは例外だったが。

 なので、ヒカリの呼び出しを受けたということは相応の事態なのだろうと考え、【空手】は改めてベンチに腰を下ろすのだった。



 ◆



 夕食の最中に宝威さんから電話を受け、私は急いでおじいさんの屋敷に向かった。

 日もすっかり落ちて暗くなっているというのに、屋敷の外にはずらりと車が並び、敷地内も人でごった返していた。

 どこかから油が焼けたような嫌なにおいが漂ってくる。

 母屋の中へ入り、廊下を進んでいくと、ふすまを締め切られた部屋の前にたくさんの人が集まっているのが見えた。


「兄貴、ショウぼっちゃんがいらっしゃいました」


 私に気付いた男の人が部屋の中に声を掛けると、小さく襖を開けて宝威さんが出てきた。


「ぼっちゃん、よく来て下さった……」

「いえ。それで、おじいさんは」


 普段は飄々ひょうひょうとしている宝威さんだったが、この時ばかりはオールバックにしている前髪がほつれて垂れ下がっており、かなり憔悴しょうすいしている様子だった。


「部屋の中です。電話でもお話しましたが、やはり……駄目でした。悦子さんにも診てもらったんですが……もう魔法使い様でも無理だと」

「……そう、ですか」


『駄目だった』『無理だ』

 そんな曖昧な言葉を、『死』という直接的な表現に結びつけるのに、何故かひどく手間取ってしまった。

 頭の芯が妙に冷たいような、それでいて熱いような……歯医者で麻酔薬を注射された時のような腫れぼったい感覚があった。

 そう、麻酔だ。きっと私は自分で自分の頭の中に麻酔をかけたのだろう。

 その証拠に、悲しみも喪失感も湧いてこない。自分を斜め後ろから見つめているような、やけに客観的な思考が、鬱陶うっとうしく頭の中を飛び回っているだけだ。


「六狼さんと隅田さんも中にいるんですよね? そちらの怪我は大丈夫なんですか?」


 私が襖に手をかけようとすると、宝威さんがそれをさえぎった。


「兄貴は無事です。ただ……隅田と親父殿の姿は……見ねえ方がいい」


 私が電話で聞いたのは、おじいさんの乗った車が事故に遭ったらしいということだけだった。

 しかし宝威さんの言葉と態度は、それがどの程度の事故だったのかを雄弁に物語っているようだった。


「……いえ、大丈夫です。このまま顔も見ずにお別れなんてできません」

「ぼっちゃん……分かりました。ただ、気分が悪くなったらすぐに言って下さい」


 軽いはずの襖が、やけに重く感じられた。

 薄暗い視界の中、縦にスッと細く白い線が走り、じわじわとそれが広がっていく。

 恐る恐る襖を開いていくと、こちらに背を向けて座る六狼さんの背中が見えた。

 いつもの黒いスーツではなく、白いズボンに灰色のワイシャツを着ている。恐らく宝威さんの服を借りたのだろう。


「ショウさん……」


 六狼さんが振り向く。

 髪はすすだらけでひどく乱れ、顔も黒く汚れていた。いつものサングラスをかけておらず、右目があるべき場所は空洞になっていた。


「申し訳ねえっ……! 俺がついていながらこんなことに……!」


 六狼さんが深々と頭を下げると、その向こうに並ぶ二組の布団が目に入った。

 私は最初、どちらがおじいさんで、どちらが隅田さんなのか、見分けがつかなかった。

 体の上にかけられた着物を見て初めて、奥の方にあるがおじいさんなのだと分かった。

 それほどまでに、その二つの遺体は酷く損傷していた。


 焦げ臭いにおいが部屋中を満たしている。

 どちらの遺体も表面が真っ黒に炭化しており、四肢の末端が存在しない。まるで長い時間をかけてじっくりと炎に焼かれたかのようだ。

 なまじ、生前の面影を留めていなかったおかげだろうか。私は思っていたほど動揺しなかったし、不気味だとも思わなかった。

 ただ、そんな風に冷静に遺体を観察している自分自身が、何だか気持ち悪かった。


「六狼さん、頭を上げて下さい。まずは詳しい話を」

「はい……」


 おじいさんと六狼さん、そして運転手の隅田さんは、今晩、片角かたずみのボスに招かれて話し合いをしていたのだという。

 しかしそれは穏便なものにはならず、おじいさんは宴を途中で切り上げて帰宅することとなった。

 話し合いが険悪な雰囲気で終わったこともあって、六狼さんと隅田さんは、乗車前にかなり念を入れて車をチェックしたらしい。その上で問題ないことを確認してから、三人は車に乗り込んで出発した。

 車が走り出してからしばらくは何も起こらなかった。

 しかし、不動前の交差点を通り過ぎた辺りで、六狼さんは青白い光を見たのだという。

 その直後に、爆発。

 爆発の威力はすさまじく、一日に五回までなら致命傷を避けられる六狼さんの命を三度まで削ったというのだから、まず間違いなく魔力のこもった攻撃だったのだろう。


「どうにかこうにか燃え盛る車から這い出てみると、人気ひとけのねえ通りだってのに、注意深くこっちを観察している視線に気が付いたんです。俺はそういう気配に敏感なもんで……あれは、片角の所の眷属でした。間違いねえ」


 固く握られた六狼さんの拳が、ぶるりと震えた。


「でも俺はそいつをぶち殺す前に、親父と隅田を助け出さなきゃならなかった。這い出てきたばかりの車を叩き壊して……二人の体を引っ張り出すまでの僅かな時間だけで、俺の命はもう一つ削り取られちまった……妙な炎だった……触れるだけで魂まで焼けるような……そうやって手間取っているうちに、敵はどこかに姿をくらましちまいました」


 眉間みけんしわを寄せ、心の底から悔しそうな表情で六狼さんはうつむいた。


「六狼さんの体は大丈夫なんですか? その……目は……」

「これは元から義眼だったんで……熱で溶けちまいましたが、支障ありません」

「ああ、そうだったんですね……」


 それならよかった……とはとても言えなかった。

 まれな能力を持つ六狼さんだからこそ生き残れたものの、並の眷属なら間違いなく死んでいた。敵はそれほどの使い手なのだ。


 この世界に来て初めて乗せてもらったあの車の内装を、私は今でも克明に思い出すことができる。

 意外と高い天井、向かい合った座席、静かなエンジン音……。

 六狼さんの話を聞きながら、私はその場面を想像していた。

 運転手の隅田さんが熟練の手つきで滑らかにギアを変える。おじいさんが悪戯っぽく笑う。六狼さんが困ったような顔でたしなめる。

 そして突然、窓の外に青い光が見える。

 一瞬で焼き尽くされる服、皮膚、筋肉、沸騰する血液。

 ……きっと苦しみはなかっただろう。何が起きたのかさえ分からなかったに違いない。


 これで三度目だ。

 父と、先輩と、おじいさん。

 何故私から大切な人たちを奪っていくのか?

 私はあと何度、理不尽に奪われなければならないのだろうか?

 世界を超えても、結局、何も変わらないのか?


 心の底からふつふつと感情が湧いてくる。これを何と呼べばいいのだろう。

 沸き立つ。煮えたぎる。静かに燃える。

 それはもしかしたら、今までの人生で抑え続けてきた怒りだったのかも知れない。

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