片角元一
俺の家にいる母親は、本当の母親ではない。
親父は昔からたくさんの愛人を作っていた。しかし長い間、その内の誰とも子供ができなかったらしい。どうやら原因は親父にあるようだったが、それでもしばらく経ってからようやく一人の愛人との間に子供ができた。それが俺だった。
俺は、当時の組織のボスである親父の親父、つまりじいさんに名前を付けてもらった。代々受け継がれている『一』の字と、当時ようやく和解が成立した相手組織の長から取った『元』という字。
だからという訳でもないと思うが、俺は親父よりもじいさんに
じいさんは温和な性格で、やや色素の薄い肌など、どことなく容姿も俺に似ていたように思う。対照的に親父は苛烈な性格だった。身内が舐めた真似をされれば徹底的な暴力で報復するし、目的のためには手段を選ばないようなところがあった。
俺は親父のことがあまり好きではなかった。俺のことを存在しないもののように扱う義母も大嫌いだった。俺は俺のじいさんが一番好きだったし、なんなら時々遊びに来るかつての敵だったはずの元蔵じいさんの方が、親父よりもよっぽど好きだった。
小学校に上る前にじいさんが亡くなった時も、泣きじゃくる俺を慰めてくれたのは元蔵じいさんだけだった。
物心がつく頃、どうやら俺は他のクラスメイトとは違うらしいということに気が付いた。
高級な服や靴、ピカピカの筆記用具、百色の色鉛筆、新しいおもちゃ。
持っている物は立派でも、授業参観に家政婦さんしか来ないのは俺だけだった。
それでも俺の周りにはたくさんのクラスメイトが集まってきた。家が金持ちというのは、それだけで好奇の対象になるらしい。
ある時、クラスメイトの一人が俺に向かって言った。
「お前の家のせいで、うちは貧乏なんだ」
俺はその言葉の意味が分からなかった。家に帰って親父に話すと、親父は「誰に言われたんだ」と聞いてきた。俺がそいつの名前を言うと、「そうか」と呟いたきり、後は俺が何を聞いても答えてくれなかった。
次の日、そいつは顔を腫らして学校に来た。そいつは二度と俺と口を利くことはなかった。
そいつが周りの皆に何を言ったのかは知らないが、その日を境に俺の周りからは少しずつ人が離れていった。それでも変わらず俺に構ってくれる奴は何人かいた。それは友達と呼んでもいい存在だったのかも知れない。
小学校六年生になったある日、俺はその友達の一人と大喧嘩をした。
原因は何だったか……あまり覚えていないが、家のことを悪く言われたとか、そんな所だったと思う。まあ覚えていない程度の些細なことだ。しかし当時の俺は何を思ったのか、いきなりその友達を突き飛ばした。そしてそこから殴り合いの喧嘩が始まった。
今思えば、どう考えても先に手を出した俺の方が悪かったのだが、担任に止められた後も俺は謝ることができなかった。
家に帰ると、俺の姿を見た親父は「誰にやられた」とだけ言った。その時の俺の格好はひどいものだった。服はぐちゃぐちゃ、唇の端に血が滲み、目は泣き腫らして真っ赤だった。俺は、友達の名前を言った。すると親父はまた「そうか」とだけ言って自分の部屋に戻っていった。
次の日、喧嘩をした友達は学校に来なかった。
彼とその家族は昨晩のうちに他の街に引っ越したのだと担任は説明した。もうすぐ卒業を控えたこの時期に突然引っ越しをするというのは明らかに異常だった。
クラスの誰かが、昨日その友達の家に怖そうな大人が何人も詰めかけているのを見たと言っていた。それが本当のことかどうかは分からないが、そこから広がった噂は、俺が中学に上がってからも尾ひれをつけて全校生徒に知れ渡っていった。
実際の所、その噂もあながち間違ってはいなかったのかも知れないが。
ともあれこうして俺の周りに近寄る奴は誰もいなくなった。
声変わりが始まる頃、親父による教育が始まった。
さらにステップが進むと、教育はより危険な方向へと向かっていった。
根回しとコネクションの重要性、偽装会社の立ち上げ方、違法な薬物の作り方と
声変わりが終わってしばらく経った頃には、最後のステップへと進んでいた。
効果的な拷問のやり方、誘拐の方法、脅しと暴力の使い方、素手とナイフでの戦い方、銃の使い方――銃を所持することは警察と魔法使いの両方から強く禁じられているはずなのだが――、人の殺し方、死体の処理方法、など。
そして最悪なことに、これらの教育には全て実演と実習が付いていた。
俺は親父が仕事をする時には必ず一緒に連れて行かれた。拷問の手伝いをさせられたことも一度や二度ではない。無残な死体を見て何度も吐いた。そんな俺を見ると決まって親父はこう言った。
「今のうちから暴力に慣れておけ。いざという時に
一番衝撃的だったのは、初めて人を殺す場面を見せられた時だった。
倉庫のような薄暗い部屋の中で、親父の部下たちに囲まれたその男は、猿ぐつわを噛まされて両手両足を縛られた状態で椅子に座っていた。
「この男は組織の金を盗んで逃げようとした。
ドスの利いた声で発せられた親父のその言葉は、俺を含めたその場にいる全員に向けられているかのようだった。
親父が「やれ」と命令すると、部下たちは手際よく男の首にロープをかけた。天井の滑車を経由して大きな巻取り器へと繋がっているそのロープは、使い古されたように薄汚れていたが、恐ろしく頑丈そうに見えた。
手回し式の無骨な巻取り器がミチミチと音を立てながら回転を始めると、男の首が次第に絞まっていった。男は、腫れ上がった顔を血と涙で濡らしながら、声にならない声で哀れっぽく命乞いをしていた。
男以外の誰も、何も言わなかった。ただただ薄暗い部屋に男の叫び声とも泣き声ともつかない声だけが響き、淡々と回る巻取り器の音と
やがて男の体が持ち上がり、椅子がガタンと音を立てて倒れた。男はほとんど爪先立ちの状態になり、その頃には耳障りな叫び声も止んでいた。男の顔は赤を通り越して黒ずんだような紫色になり、ついさっきまで
静寂の中に、男の口から発せられるぐちゅぐちゅという水っぽい嫌な音だけが聞こえていた。
気が付くと男の足は完全に床から離れていた。
力が抜けて肩が下がったのか、男の首は気持ち悪いほど長く伸びていた。
不細工な人形のように飛び出した虚ろな目が、ずっとこちらを見ているような気がした。
「これが一番確実で効率的だ。多少時間はかかるが、血の処理をしなくていいから運びやすい」
人を一人殺しておいて、親父が言ったのはたったそれだけだった。
その日からしばらくの間、夜になると決まってあの顔が脳裏に浮かんでしまい、満足に眠ることができなかった。
俺は漠然と、この世界には逃げ場がない、と考えるようになっていた。
親父の近くには常に元眷属の凄腕が数人控えていた。どれほど上手く逃げたとしても、壁に囲まれたこの世界では彼らから逃げ切ることは不可能だ。その具体的な証拠をこの目で何度も見てきた。
そもそも組織の構成員の多くは、優秀な成績を収めて魔法使いの元を『卒業』したり、個人的な事情で魔法使いの庇護を離れたりした元眷属たちだった。
眷属を辞めたとしても、彼らが得た魔法の力がなくなる訳ではない。そのため彼らのような者たちは、その後の詳細な身辺状況を市ヶ谷へと定期的に報告する義務が課せられていた。
親父はそのシステムを逆手に取り、ダミーの警備会社などを作ってそこに構成員を入社させ、表向きはまっとうな仕事をしているように見せかけていた。というか、見せかけだけでなく、本当にまっとうな業務も行うことでそれなりの業績を上げてもいたので、これを摘発することはほとんど不可能と言えた。
ある時俺は、思うところあって親父にこう聞いてみた。
「もしも俺が魔法使いから眷属にならないかと勧誘されたら、どうすればいい?」
親父は面倒くさそうに、「それが組織の利益に繋がるかどうか、自分で判断して決めろ」と答え、それから思い出したようにこう付け加えた。
「一つだけ忠告するなら、この街の魔法使い……空手の魔法使いの眷属にだけはなるな。他はどうでもいいが、ヤツだけは駄目だ」
俺は当然のように、何故かと聞いた。
「ヤツは『卒業』以外の理由で眷属が自分の元を去る時、その魔法の力を消してしまうらしい。他の魔法使いたちはそんなことはしない。ヤツだけだ。よりによってこの街の管理者だけが、だ」
それを聞いて俺は、むしろそれが当然の措置なのではないかと思った。
他の魔法使いは何故それをしないのか。……あるいは、できないのか。
しかし、組織を大きくするという目的を持つ親父にとって、魔法使いの庇護下にある眷属をそのまま抱え込むのは
現役の眷属には魔法使いからの監視が強く働いており、一つでも違法行為が魔法使いにバレれば、それをきっかけに組織が壊滅的な打撃を
魔法使いといえば。
俺は、百貨店の屋上で話しかけてきた少女のことを思い出していた。
彼女は俺に何を言おうとしていたのだろうか。話を聞く前にショウたちが現れたことで、結局何も分からなかった。
ショウと尾礼りりの……。
あの時、あの二人の姿を見た瞬間、俺は自分でも意外なほど動揺し、そしてそんな自分自身に一番驚いていた。
彼らは俺の数少ない友人だ。俺は二人に何もしてやれないのに、何故か向こうから話しかけて来てくれる。不思議だが、決して不快ではない。
俺は友達付き合いというものが良く分からない。同い年のクラスメイトたちが部活や勉強の話をしている時も、俺の頭の中には親父から叩き込まれた金と暴力のことが渦巻いている。彼らとは全く違う世界に生きるしかない俺に、どうして普通の友達を作ることができるだろうか?
しかしショウと尾礼りりのは、そんな俺の事情はお構いなしに踏み込んできた。
彼らは俺のことを何も知らないのだ。これまでに俺がやってきたことを知ったら、二人は一体どんな顔をするか……あまり想像したくはない。
それに、俺と行動を共にしている限り、近い将来二人を危険な目に遭わせてしまう可能性はとても高い。
本来なら俺は彼らを拒絶するべきなんだろう。しかし未だにそれは出来ずにいる。
多分、これは未練だ。当たり前にあるはずだった普通の人生への未練。そんなワガママのせいで彼らを傷付けるようなことがあってはならない。頭ではそう分かってはいるのに、もう少しだけ、あと少しだけと問題を先送りにしている。
今日、ショウと尾礼りりのは、二人だけで百貨店に来ていた。いくら鈍い俺でも、それがどういうことなのかは理解できているつもりだ。
彼らが恋人同士になったのなら、それは俺にとっても喜ばしいことのはずだ。友人が幸せになることは、良いことなのだから。
……なのに何故、俺の心はこんなにも乱れてしまっているのだろう。
疎外感。焦燥感。置いていかれるという気持ちが俺の中で強く
俺はどうなりたいのだろうか。彼らとずっと一緒にいることなど不可能なのに。
理解できないことは他にもたくさんある。
俺は色恋沙汰が分からない。今まで恋をしたこともないし、二人きりの男女がどんな会話をするものなのかも知らない。
だから今のこの状況が、どういう意味を持っているのか理解することができない。
今、俺の隣には尾礼りりのがいる。ショウはいない。つまり二人きりだ。
俺が帰ると言った時、ショウは彼女を半ば無理やり俺に押し付けたように見えた。
ショウと彼女が付き合っているとして、それなら自分の恋人を別の男と二人きりにするというのはどういうことだろうか? そうすることにどんな意味がある?
隣を歩く尾礼りりのの顔をちらりと盗み見る。彼女は俺と一緒にいるといつもオドオドしているが、それは恐らく俺の悪い噂を中学の時に聞いているからだろう。
それでも今日は、彼女はぎこちないながらもあれこれと積極的に話しかけてくれていた。それに対して素っ気ない返事しかできない自分が不甲斐ない。
「片角くん、グリーンカレーって食べたことある? アタシ今日初めて食べたんだけどね……」
彼女は俺のことを片角くんと呼ぶ。
片角。代々受け継がれてきた忌まわしい名前だ。その名前を自覚するたびに、俺は自分の血が黒く濁っていることを思い知らされるような気持ちになる。
彼女に悪気がないことは分かっている。それならこうすれば、きっと話は早い。
「尾礼、あの……」
「えっ?」
「いや……そうか、お前もそうだったな……」
「なになに? 片角くんから話しかけてくれるの珍しいよね。ちょっと嬉しいかも」
「えーと……りりの」
「…………ふえっ」
「いや、ショウから聞いたんだけどさ、なんか自分の名字が好きじゃないとか……だから名前で呼んだだけで……いや、実は俺も同じなんだ。俺も自分の名字が嫌いだから、できればショウみたいに名前で呼んで欲しい……と思って」
……なんという
尾礼……いや、りりのは、何故か顔を赤くしてうわーとかふわーとかよく分からないことを呟いていた。ちゃんとこちらの意図が伝わっていればいいのだが……。
そう思っていると、彼女は意を決したような表情でこちらを向いた。
「げ、元一……くん」
「おう……」
「あ、アタシの名前、もっかい呼んで……ほしいな……なんつって……」
どうやら意図は伝わっていたらしい。もう一度名前を呼ぶというのは何だか妙な感じだが、これも確認の儀式みたいなものなのだろう。
そう考えて彼女のことを再び名前で呼ぼうとしたのだが、これが何故か不思議なことに、なかなか言葉が出てこない。さっきは普通に呼べたのに、一体どうしたことだろう?
口がパクパクと動くだけで言葉が出てこないというのは全く初めての経験で、頭のどこかに重大な不具合が起きてしまったのではないかと心配になった。そして何故かさっきから気温が上がっているような気がする。夏なのにスーツ姿で歩いているのだから当然だが、それにしてもやけに暑い。
「……り、りりの」
汗をダラダラ流しながら、どうにか言うことができた。言うことはできたが、俺の頭は何一つ理解できていない。一体これは何なんだ。暑くて頭がうまく回らない。
「うへへ……ありがと、元一くん」
そう言って幸せそうに笑うりりのの顔を見た瞬間、俺の中でこんがらがっていた全ての疑問が解消された。
これは……そうか、これはまずい。非常にまずい。これは今、俺が最も抱いてはいけない感情だ。
だが、もう気付いてしまった。取り消そうとしても、もう何もかもが遅い。
俺は中学の時、クラスメイトたちが惚れただの失恋しただのという話題で盛り上がっているのを、冷めた目で見ているクチだった。当時の俺は――今でもそうだが――そんなことよりも、素手で相手を痛めつける方法や、銃の扱い方について考えるだけで手一杯だったからだ。
しかし今、こうしてその手の話題の当事者になってみて初めて、なるほどこれは確かに大問題だということが分かった。
自分の感情を理解したまではいいが、今や馬鹿みたいに茹で上がってしまった俺の頭は、ちっとも思い通りに回ってはくれない。
俺はこれからどうすればいいのか、どうするべきなのか、何も思いつかなかった。
しかし、たった一つだけ、断言できることがあった。
俺の初めての恋は、絶対に叶うことはない。
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