第2話 鬼の山
多恵と分かれて、厳馬は自宅に向かった。いつまでも療養気分でいるわけにはいかない。
早く足を治し、自分も畑仕事の一つでもしないことには、いくらなんでも気まずかった。
それが、今までの罪滅ぼしなのか、自分を誤摩化しているだけなのかは分からないが?
するとその帰宅途中、名もない細い街道を行く、一人の老婆の姿が目に入った。
かなりの歳のようで、足取りも重そうだが、それでも必死に急ぎ足で進んでいる。
何をそんなに急いでいるのか分からないが、その先には、大きな山がそびえていた。
この時刻からでは、その山を越えて隣の村や町に行くには、若い者でも日が暮れよう。
それに最近、その山には物騒な噂もあった。
それは、戦で死んだ武士達の魂が鬼となり、旅人を襲うというものである。
おそらくその正体は、どこかから逃げてきた落武者か何かなのであろうが、元々この地方には鬼伝説が多くあり、それに尾鰭背鰭がついて、そんな噂がたったに違いない。
それはともかく、このままであの老婆が、その鬼の犠牲になってしまうかもしれない。
厳馬は慌てて老婆を呼び止めた。
「お待ちなさい。今の時刻から山に入っては夜になる。悪いことは言わないから、明日までこの村でお待ちなさい。何なら、私の家に泊めてあげてもよいが?」
しかし老婆は、声をかけられても山の方が気になるのか、妙に落ち着かない様子で、
「いえ、ありがとうございます。ですが、私は一刻も早くあの山に行かねばならないのです。どうか止めないで下さい」
「どんな理由があるのか知らないが、あの山には何かと物騒な噂があるのです」
引き止める厳馬に、老婆は少し躊躇いがちに重い口を開いた。
「実は娘と娘婿が、何も知らずに、あの山に入ってしまったかもしれないのです」
「何と? しかしまた、何故?」
聞くと老婆は、この村より東へ五里ほど行った所にある村の者で、名をマツといった。
「今から八年ほど前に、私の娘のフミが都の呉服問屋山城屋の御子息、太一様と恋仲になり、嫁に行ったのでございます。ですが、このような御時世、都も荒廃し、治安も悪く物騒になってきたとのことで、店の旦那様のお言葉もあり、二人を私の村へ一時避難ささせてもらえることになったのでございます。ですが、娘達より後にこちらにかった店の使いの者の方が、先に私の所に来たではありませんか? まさかと思い、色々と聞いてまわると、二人が何も知らずにあの山の方に向かうのを見たという、旅の商人の方の話しを聞きまして、もう心配で心配でいてもたってもいられなくなり、こうして向かっているところなのでございます。ですから、どうか止めないでくださいまし」
話し終えるが早いか、老婆はすでに不安からか泣き顔となっている。
そしてその目は、ずっと山の方を見つめたままだった。
その真剣な眼差しを見ては、もう止めることなど出来ないと厳馬は思った。
親が子を思う気持ちを、他人がどうこう言って、どうにかなるものではないだろう。
だが、かと言ってこのまま老婆一人、あの山に向かわせるわけにもいかない。
心配したとて、足を負傷した自分がついて行くわけにもいかない。
厳馬はしばし考え、
「ならば、これを持って行くといい。もしものときに役にたつかもしれない」
と、懐から一本の小刀を出して手渡した。
束に家紋を記し、鞘には鮮やかな装飾を施した立派な小刀。
それは厳馬の実家、柳本家に代々伝わる宝刀で、厳馬が戦に向かう前に、先代から授かった大事な刀だった。
「い、いえ、このような立派な刀、私などが預かるわけには…………………」
「いや、このまま黙って見送ればこちらとしても寝覚めが悪い。かといって、私は見ての通りの体、とてもではないが一緒に行ってやるわけにもいかない。ならば、せめてこれだけでも持って行ってもらえれば、こちらとしても助かるのだ」
「で、ですが…………………」
「なに、無事に娘さん夫婦を見つけた後で、私に返していただければいい。何も気にする必要はない」
「わ、分かりました。では、御遠慮なく」
老婆は何度も何度も厳馬に頭を下げながら、急ぎ足で鬼が出るという山に向かった。
その後ろ姿を見送り、厳馬はふと思った。
「峠の鬼か……………いや、まさかな?」
心の奥に何か引っ掛かるモノを感じたが、それを認めたくなかった彼は、無意識にそれを忘れようと、首を振って自分を誤魔化した。
村で厳馬が言った通り、峠の中腹あたりに着くころには、すっかり日は西の空に大きく傾いていた。
鬼が出ると言われるあたりに着くころには、日は暮れてしまっているだろう。
だが、マツは歩みを止めなかった。
娘の身が心配で心配でならなかった。
しかし、もしも本当に鬼がいたらどうなるのだろうか?
いくら小刀を貸してもらっていても、武芸の心得のない、ただの百姓でしかない自分に、何ができようか?
いや、そんなことも言っていられない。
今は一刻も早く、二人の無事を知りたかった。
マツは老骨に鞭をうち、山道を進んだ。
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