第123話 かくして狂人は斃れる

 得体の知れなかった悪寒が、明確な恐怖へと姿を変える。恐怖は心を塗り潰し、カシマを生存戦略へと駆り立てた。


「は、ははっ。意味が分からないな、その言い草じゃまるでこれからボクの記憶がオマエに奪われるみたいじゃないか。そんな事――」

「ん? そう言ったつもりだが」


 あっさりと、ムサシはカシマの背中を死の崖際へと押す。ここに来て遂に、カシマから完全に余裕が無くなった。


「……っ、人間の記憶だけを故意に消すなんてそんな事出来る訳が無い! 大魔導士アークウィザードクラスの闇魔法を扱える者なら兎も角、魔法どころか魔力すら持ち合わせていないオマエに……!」

「あん? 随分と俺の事知ってるじゃねぇか、ガレオにでも聞いたか?」


 最早形振り構ず切羽詰まった様子で喚くカシマを見て、ムサシはちらりと後ろを振り返る。ガレオは首を横に振った。


「分かるさ! 初めて出会った時、オマエからは魔力の気配が欠片程も感じられなかった……ボクも初めて見るケースだが、脳がオマエを属素喪失症エレメンタルロストを患っている者よりも劣る“魔力無し”と結論付けたんだ、疑う余地は無い!」

「劣るって……なんつーか、ホント基本的に他の人間を見下してんだなぁ」


 辟易としながらも、ムサシの纏う空気は変わらない。自分とは対照的な余裕と絶対的自身を滲ませた表情が、カシマに更なる恐怖を与える。


「まぁお前の言い分は分からんでも無い。普通ならこんな事やろうとすら思わねぇだろうしな……が」


 言葉を切り、ムサシは一歩前に出る。カシマの体が、固定されている椅子ごと大きく揺れた。


「俺は見栄を張るのが嫌いなんだ」


 更に一歩、ムサシはカシマに近付く。その口振りからするに、ムサシが何らかの手段を持ち合わせているのは明白だった。


「人間、思いっきり頭をぶん殴られると記憶が飛ぶって事あるだろ? あれは時間が経てば大体は元に戻るが、俺が今からお前にやんのはそれの永続版だ」

「……は?」


 ぽかんと、カシマは口を開けた。つまりムサシはこれからカシマの記憶を消す為に思い切り殴りつけると言って居るのだ。

 ムサシの超人的膂力を、カシマはその身で体験している。あの力で殴られてしまえば、どう考えても無傷では済まない。


「は、はは。やはりオマエは馬鹿だ」

「おん?」

「脳は人体の中でも特に複雑で繊細な器官だ。そこに衝撃を与えて故意に記憶だけを消す? そんな真似が、力任せに出来る訳が無いだろッ! オマエが口にした“体には傷一つ付けない”と言う宣言とも矛盾している!!」


 そう、その矛盾こそカシマが生き延びる唯一の道。僅かに開いた隙間を“論”でこじ開ければ、ムサシの考えを改めさせる事が出来るかもしれない。


 ――否。それは余りにも楽観的な考え。ムサシと言う人間を図り損ねた者の、典型的な思い込み。


「あーダイジョブダイジョブ。俺、地岳巨竜アドヴェルーサと戦って大分器用になったから」


 あっけらかんと言って、ムサシは腕を持ち上げる。ひんやりと冷気を帯びる鉄格子を両手でしっかりと握り締めると……そのまま一息で腕を左右に引き伸ばした。


「よっと」


 耳を割く金属の悲鳴と共に、強靭な鉄格子はあっさりと両側へと開かれた。まるで枯れ枝をへし折るかの様な力業だが、この場で驚愕に目を見開いたのはカシマのみである。


「おまっ、馬鹿野郎! 鍵くらい使え!!」

「えっ、鍵あったの!?」

「無い訳無いだろうが!」


 顔面を右手で覆ったガレオが天を仰いで、左手でチャリンと揺れる牢の鍵を懐から取り出す。当てつけの様に見せつけられたそれを見て、ムサシは乾いた笑みを浮かべた。


「い、いやぁその……ごめんね?」

「……修理代はお前のクエスト達成報酬から天引きだ」

「ウッス……」


 緊迫した状況の中で生まれた生温い空気。しかし、次の瞬間には牢の中から響いた“ガタン!”と言う音で呆気無く霧散した。


「はっ、くっ……!」


 視線を向ければ、そこには椅子ごと石造りの床に倒れ込み、必死で体を動かすカシマの姿があった。ずりずりと這いずって少しでもムサシから逃れ様とするサマは、最早哀れ以外の何物でも無い。


「そっちは牢の奥、逃げ道は無ぇよ……よっこいしょ」

「うぁっ!?」


 無情にも、カシマは牢の中に踏み込んで来たムサシに片手で椅子諸共引き上げられてしまう。そのまま牢から引き摺り出され、改めてカシマはムサシと向き合った。


「ほっ!」

「いっ!?」


 ムサシは、カシマが固定されたままの椅子のフレームを上から軽く叩く。ビキリと言う音と共に、椅子の脚が床にめり込んだ。


「これで良し、もう暴れても倒れない」

「あ、あ……」


 うんうんと満足そうに頷くムサシを見て、カシマの表情が絶望一色になった。

 言うなれば、カシマにとってこの状況は処刑台に送られたに等しいのだ。斧を手にする処刑人を前にして、どうして希望を見出す事が出来ようか。


「時間は掛けない、直ぐに終わらせる。あんま長居もしたく無いしな」


 ふぅと息を吐き、ムサシは両手を良く解す。コキコキと節が鳴る音が聞こえなくなった時、持ち上がったのは奇妙な形をした拳だった。

 特徴的なのは親指の締め方だ。先端を人差し指の第二関節で挟み込み、直角に曲がった第一関節が突起の様に飛び出た歪な拳。明らかに殴打とは別の意図を感じさせる握り方だった。


「うっし、じゃあやっちまうか。言っとくが祈る時間はやらんぞ」

「ま、待って――」


 己のプライドも何もかも投げ捨てた、カシマの人生で初の命乞い。それが聞き入れられる事は……無かった。



「待たない。あばよ狂人」



 ひゅっと空を切る音が二つ、小さく聞こえた。カシマの瞳から涙が流れ落ちると同時に響く“カッ!”と言う軽い音が、全ての終わりを告げる。

 ガレオは、辛うじてムサシの神速の軌道を捉えていた。正面では無くカシマの両側頭部へと向けて打ち抜かれた拳は、飛び出た関節部でこめかみを正確に打ち抜き、ピタリと止まっている。

 ぐるりと、カシマの両眼が反転する。そのままがくりと項垂れ、ぴくりとも動かなくなった。それを見たガレオが口を開く。


「おい、死んだのか?」

「いんや、生きてるよ。血も一滴だって流れてないだろ?」

「まぁ、確かに」

「それに、直に気が付く……気が付いて貰わなきゃ困る。これは終わりであると同時に、始まりでもあるからな」

「随分と詩的な言い回しだな、お前らしくも無い」

「うるせぇ、ほっとけ」


 会話は、そこで途切れた。ムサシとガレオは両腕を組んでじっとカシマの意識が戻るのを待つ。二分ほど経った所で――その時は来た。


「うっ、ぐ……」


 腹の底から絞り出した様な呻き声を上げて、ふらふらとカシマの顔が上がる。焦点は合っていない物の、両目はきちんと前に向けられていた。

 その視線がゆっくりと二人へと交互に向けられたのを見て、ムサシはニヤリと笑った。


「おはよう。気分はどうだ?」

「……最悪だね。頭がガンガンする」


 答えを返したカシマの顔には、僅かばかりの余裕が戻っていた。それは、思考を巡らせる限りムサシが言った様に記憶が消えている様子は無かったからだ。


「ふん……やはり、オマエの言った事は取るに足らない脅し文句だった様だね。ボクの記憶は消えてなんかいない、直前のやり取りも全て覚えている」


 くつくつと勝ち誇った笑みを浮かべるカシマ。対してムサシは――それ以上に、嗤って見せた。



「そうかそうか、じゃあ聞こう――お前、自分の名前言えるか?・・・・・・・・・・



 ……カシマは、ムサシに向けて嘲笑を向けた。この男は言うに事欠いて何を言っているのかと。無意識下で記憶に刻まれている様な事を忘れている筈が無いだろうと。


 だからカシマは答えた――答えようと、した。


「ハッ、何を言うかと思えば随分と下らない事を聞くねオマエは。ボクの名前は……」


 ――びたりと、カシマの表情が固まった。それもその筈である。絶対に忘れない、忘れ様の無い筈の自分の名前が……出て来なかったからだ。


「……どうやら、上手くいったみたいだな」

「オ、オマエ……ボクに何をした」

「何って、言った通りだよ。お前が一番大事にしている記憶を、奪わせてもらった」


 組んでいた腕を解いて、ムサシはずいとカシマの顔を覗き込む。どこまでも吸い込まれそうな漆黒の瞳を前に、カシマはびくりと肩を跳ねさせた。


「これからお前は、記憶を古い物から順に・・・・・・・忘れていく。自分の名前が思い出せないのは、それが原初の記憶に一番近い場所にある情報だからだ。そして、もう新しい事は覚えられない」

「ど、どうやってそんな事を……」

「理屈か? そんなモン俺にも分からん。ただこれを思い立った時、俺自身・・・が出来ると教えてくれた」

「は、ぁ?」

「意味分かんねぇか? 納得出来ねぇか? 良いよ別に理解しなくても、どの道お前の人格は死んでいくんだから」


 ふっと一つ笑みを零してから、ムサシはカシマから離れる。仕事は終わったと言わんばかりに首を数度鳴らしてから、ガレオへと視線を向けた。


「悪いなガレオ、多分法廷に突き出される頃にはこいつはまともな受け答えが出来なくなってる。何か処罰があるって時は……俺だけで頼む」


 そう言って、ムサシは頭を下げる。

 最初から、ムサシは自身が無傷で済むとは思っていない。方法が何であるにせよ、己の出血は避けられない物であると考えていた。

 それでも、ムサシは動いた。これから先の未来で振り撒かれるはずだったカシマの因果を完全に断ち切り、犯した罪に相応しい罰を他ならぬ自分の手で与える為に――覚悟を決めていたのだ。


 ガレオは、暫し無言でムサシを見詰めた後――口を開いた。


「……後始末はオレの方で何とかする。お前はさっさと帰って、この場所での事は忘れろ」

「それは」

「過去の物的証拠は、全て揃っている。こいつ自身の自白が無くとも、他の研究員や関係者の証言も合わせて十分罪に問える。それに……もしお前がやらなかったら、オレがコイツの首を刎ねていた」

「……悪ぃ」

「気にするな。その代わり……これからも、変わるなよ・・・・・。お前みたいに真正面から悪を悪として断じれる人間は少ない。だから、変わるな」


 そこまで言って、ガレオはしっしっと手を振る。それに促されてムサシは一度頷いてから部屋を後にしようとした、その時。


「……ぇせ」


 ドアノブに手を掛けたムサシを引き留める、掠れた声。振り返ると、そこには笑顔を浮かべたまま涙と鼻水を垂れ流し、ぐりんと首を後ろに傾けたカシマの姿があった。


「返せよ……“ボク”を、返してくれ。ボクは、死にたくない……消えたく、ない」


 震える声での懇願。ムサシの返答は、シンプルだった。



「――――やかましい。黙って死ね」



 低く地を這う様な声でそう吐き捨てて、ムサシは乱暴にドアノブを回して外に出た。背後から人間の物とは思えない絶望一色の慟哭が聞こえたが、それは廊下に漏れる前にドアによって遮られる。


 こうして、狂人カシマと言う人格は緩やかに死へと漕ぎ出した。懺悔と謝罪は一つも無く、その本質は最後の最後まで徹頭徹尾……悪であった。

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