一つ先を照らす酒音

ののこと

第1話 序章

 キィンキィン、と鐘が打つ。

 風が走り、夜目に怯える冬鳥が寝床を探し駆ける。

 鈍色の雲はやがて黒く塗りつぶされて、闇夜に霧散していく。

 一呼吸。

 走り駆ける音が響き、扉をひくカナざり音。

 鈍重な扉は、しかして滑らかに横滑りしていく。

 内外が一致した傍から痛覚を麻痺させるような寒風が暴悪にふきすさぶ。

 冷やされて乾き固まった外地から一歩。

 比較的大粒な砂を敷き詰めた室内へ鴨居を跨いで入ってくるのは、8分丈の黒いクロップドパンツに梨色の柔らかさを感じさせるスニーカー。

 室内に身体が入ったところで後ろ手に扉をひき閉め、そのまま奥へと進む。

 かろうじて木造であるのがわかる程度の明かりが、壁面上部にあるはめ殺しの格子窓から室内に注がれる。

 点々と小さな明かりでは、それでも大きな箱物が整然と並び立てられているのがわかるくらいで、その中を苦にする様子も無くまっすぐ歩いていく。

 そして箱物が居並ぶ終端にたどり着くと、

 「お父さん」

 凛と透き通った声が室内に響く。

 声の先には古く渋った木製の机と対となる椅子が二脚。

 片方の椅子には先客が腰掛けており、呼ばれた声に呼応して首を小さく縦に振る。

 呼んだ主は空きのあるもう一対の椅子をひいて腰掛けながら、もう一度声を出す。

 「どう?」

 座った位置にちょうど月明かりが差し込み、顔を照らし出す。

 映し出されるのは少女であり、眉を寄せて訝るような仕草で相手を見やる。

 「ん。問題ない」

 低くポツリと呟かれるその声は先客のものであり、また月の加減でこちらにも明かりが降り注ぐ。

 そこには壮年の男性が映り、

 「そっか。じゃあ私代わるね。お姉ちゃんがデザート用意してくれてるよ」

 少女の声を聞くと静かに腰をあげる。

 少女は片手に抱えていた書類を机に広げ、身を乗り出して机端に置かれた蛍光灯型のスタンドライトに手を伸ばす。

 「なんだ、また菓子か」

 「そんなこと言って、いっつも全部食べてるじゃん。今日は黒蜜わらび餅。笑乃さんからのいただきものだよ」

 「おぉ、藤宮さんとこか」

 少し表情を崩しながら腰を反らせて伸びをする。

 「笑乃さん、あいかわらず綺麗だよー」

 少女はにこにこしながら手元の書類を次々と広げていく。

 「ばか言ってんじゃない」

 鼻であしらう格好を見せた男性は、そのままゆっくりと少女の入ってきた扉に向かって歩き始める。

 「今日は神楽さんだったな」

 「そだよー。さっきちょっと早く来てくれるって連絡きたんだ」

 「そうか。あまり時間とらせて遅くならないようにな」

 「わかってるよ」

 歩き出した男性には既に聞こえていないのか返事はなく、少女もまた書類へと目をおとしたまま。

 と、

 「千華」

 先程の会話から二回りほど大きな声が室内に響き、少女は顔をあげて少し遠ざかった男性を見る。

 「おやすみ。根詰めすぎるんじゃないぞ」

 「うん。おやすみなさい、お父さん」

 数瞬、やがて砂を噛ませた鈍い音が響き渡り、扉が開いて月光が差し込む。

 一歩踏み出して扉に手をかけなおし、男性はゆっくりと室内を見渡す。

 大きな箱物と深い闇夜で鬱蒼とした室内も、遠く、ぽぅと小さく灯った明かりに目を細め、やがて指に力をこめる。

 扉は開いた時と同じような鈍音をうならせて月光を狭め、そして完全に遮断する。

 カラカラと下駄の転がる音が遠ざかり、室内は一枚絵に切り取られたように静寂を深めていく。

 室内は最深部、明かりの灯った木机では少女が広げた書類に目を落としている。

 書類は二点。

 片方は雑誌風で、上部を淡い橙色に彩った木製のクリップで留められている。

 もう片方は手持ち辞書風な厚みで真中から広げられており、同じく上部には色とりどりの付箋が顔を覗かせている。

 そして利き手らしい右手には滑らかさを謳って有名な三色ペンを持ち、罫線のひかれた和紙然とした柔らかなノートになにやら書き込んでいる。

 と、ピコンと電子音が小さく鳴り響く。

 少女は走らせていたペンを転がし、そのまま手を下ろしてポケットにいれる。

 取り出したのは淡い茶と銀のツートーンになった携帯端末で、素早く画面に触れて切り替わった画面をじっと見つめる。

 すると綻んだ柔らかな表情で側面の電源ボタンを押し、端末を机に静かに置く。

 そして転がしたペンを手に持ってノートへ書き込む仕草をして、

 「・・・・・・」

 ノートを覗きながらもそれを透かすような視点でぼんやりと動きを止める。

 と、静寂の彼方、室内から壁を隔てた外地から等間隔に音が小さく響いてくる。

 少女はその音が大きくなっていくのを聞き届けると、固まっていた手からペンを下ろし、ゆっくりと先程男性が出て行った扉へ目を向ける。

 音は駆ける音だとわかるほどに大きくなり、やがて扉の付近でぱたりと止まる。

 がらがらっ

 重厚に思われた引き戸は勢いよく滑り開き、

 「ふわー、さむさむっ」

 小さく言葉を吐きながら、扉へ伸びた手も悴むと言わんばかりに素早く後ろ手に閉め、室内へ躍り出るように早足で奥へと進む。

 薄雲に翳った月に、それでも格子窓から室内に明かりが届けられ、歩を進める人物を照らし出す。

 見姿は女性のそれであり、締まった眉に勝気な瞳、両角を小さくあげた口元は整っていると表現するに値する。

 真っ直ぐ背を伸ばして歩くその姿に、少女は既に出迎えるように立ち上がっており、女性が箱物の連なった通路から開けたところまでくると、

 「こんばんは、神楽さん」

 奏でるように滑らかに挨拶を転がす。

 「やっ、こんばんは千華ちゃん。今日も寒いねー」

 神楽と呼ばれたその女性は眉をひそめて寒さを印象付け、

 「お、やってるねー。熱心、熱心」

 少女の手元に広がる書類を一瞥して清々しく微笑んで、少女の向かい、男性が座っていた椅子をひいてやや乱雑に座る。

 合わせて少女が座りなおす。

 「やー、家いてもやることなくてさー。さくっとこっち来ちゃった」

 軽妙な口どりに乗りかかる言葉もふわやかで、

 「そうなんですか?わたしはいつも通りでした」

 少女も軽やかな調子で返す。

 「そかそか。源さんは戻ったよね?」

 「はい、いまさっき。あまり遅くなるなって釘さされちゃいました」

 「んー、そだねぇ。いくらおうちが目の前って言ったって、花盛りの女の子だもんねぇ。源さんもそりゃ心配だ」

 こくこくと顔を上下させながらきょろきょろと辺りを見回す。

 察したように少女は立ち上がり、

 「でもそれを言ったら神楽さんだって一緒じゃないですか。花盛りの女の子」

 「あたしは駄目ダメ。もう枯れっ枯れの枯れ放題」

 机に片肘をたてながら片手をぶんぶんと振る女性の仕草に軽く含み笑いしつつ、机の隣に小さく鎮座する木棚から水筒と神輿の様な柄の入ったマグカップを取り、そのマグカップへ水筒を傾ける。

 先から湯気が小さく漏れ出て、次いで迸る液体。

 七割ほど注いで女性へと差し出す。

 「今日は中部から取り寄せた緑茶にしてみました」

 「わぁい、ありがと」

 嬉々として受け取った女性はすぐには口をつけず、暖をとるように両手でカップを包み込む。

 少女は棚から取り出した小さな花々が散りばめられた柄のカップに、同じように注いでゆく。

 それを見やりながらゆるゆるとカップを口元へ進めていき、淡い湯気を軽く飛ばして小さく啜る。

 「ふぃー。やっぱりあったまるねぇ」

 重ねて口をつけ、そのままはたと動きを止める。

 小花柄のカップを自身の座っていた辺りに置き、静かに座って再びカップを持つ。

 口元まで近づけ、香を楽しむように息を吸い、一回、二回と口をつける。

 と、女性がカップを口元に寄せたまま動きを止めていることに気づき、

 「神楽さん?どうかしましたか?」

 すると女性はカップを静かに置き、視線を少女に合わせる。

 「千華ちゃん・・・」

 「はい?」

 「このお茶、すっごく美味しい」

 瞳が輝き、ぱあっと背後に花がちりばめられ、

 「わっ、それはよかったです」

 小さく微笑みながら女性が先程行ったように香を楽しみ、口をつける。

 女性は二度三度と口元で香らせては口にすることを繰り返し、やがて表情は真剣なそれとなっていく。

 少女はその表情の変化を見ると、手にしていたマグカップの中身をじっと見つめ、ゆっくりとした動作で、口に含んでいく。

 幾許かの沈黙。

 同じ動作を繰り返した少女と女性は顔を見合わせる。

 すぐに口を開いたのは女性で、

 「苦味より甘味が先立って、ある程度淡泊さも合わさっている感じ。これは呑む前に欲しいかも」

 「そうですね、確かに甘味があります。それにカドのないまろやかな口当たりがその先の本命を準備させてくれる気がします」

 「うんうん。それじゃ逆に食後感としてはどうかな?」

 「うーん・・・呑んだ種類にもよりますけど、濃いめの後だと淡泊すぎて難しいかな、と。ただ苦味のあるお酒の後なら、すっきりと出来る甘みが良いと思います」

 「それあたしも思った。なんていうか舌にじくっと沁みるような苦味をもったお酒だと、角張った舌を滑らかにしてくれそうよね」

 言葉を交わしながらも二人は思い思いに口づけて離すことを繰り返す。

 「お水がいいのかしら、この円やかさ」

 少女は首を傾げて、

 「お水はおうちで普通に汲んだものですけど・・・それを温めて急須でいれただけですよ」

 「それよ、千華ちゃん!」

 「?それ、ですか?」

 「そう、その普通に汲んだってとこがミソよ。ここは何を造っているところかしら、千華ちゃん?」

 「ええと、ここはおさ・・・あ。お水」

 小さく気づいた顔をした少女に、女性は得意げに水筒を指差し、

 「そう。ここは山河に磨かれ肥沃な土壌に濾された素敵な伏流水がじゃんじゃか湧き出るパラダイス!そりゃあもうお米だってお豆腐だって、お蕎麦だって美味しくできちゃうって訳」

 「そっか。当たり前だと思ってましたけど、ここのお水はとても恵まれているんですね」

 「うん、そうだね。その恩恵であたし達はご飯が食べられてるってことだもの、そりゃ感謝しないとねー」

 「はい。本当に」

 満足そうに頷く女性に、しとやかに目を瞑り物思う少女。

 夜のしじまに鳴り立つものは無く。

 二つのカップからは静かに暖気が煙る。

 それも数瞬の間だったのか、少女は目をあけ女性を見やり、

 「神楽さん」

 「ん?なぁに?」

 「もう始まっちゃってる感じもありますけど、ちゃんと始めましょうか」

 疑問を一つ頭に飛ばした女性は、すぐに気付き、

 「あ、そっか。急に始まっちゃったね」

 えへへと笑い、間をおいてコホンと咳払い。

 「よろしい。それでは始めましょうか」

 言葉を切って、少女を見つめる。

 少女は微笑み、女性は満面の笑みを湛えて先んじて口を小さく開き、共に音を奏でる。


 『酒音ひびく酒蔵へ』


 重なった声は伸びやかに駆け巡り、静かに沈黙する酒蔵を華やかな空気に包む。

 外は闇。

 風は小さく、張り詰めた空気は指先を焦がす。

 空は遠く、星々は舞うように煌き合う。

 一瞬。

 流れた星に合わせて遠吠えが聞こえる。

 夜はまだ始まりだと言うように。

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