結果として俺の寝床がなくなったんだが
翌日の真田信幸屋敷の様子というのは、全く奇妙なものあった。
前日、大星神社で神事をすませた信幸は、とって返して上田城内に
四倍の勢力で攻めてきた徳川方を翻弄し、見事に敗退させた上田城であるが、実のところ完成しているとは言い難かった。
現状の上田城は、極端に言えば
今、信幸が割り当てられている屋敷にしてもあくまでも「仮のもの」である。城が完成したなら、おそらく三の丸の東端の大手門の近くか、さもなくば本丸
ひとたび戦になればその二カ所――敵が関東勢ならば東門、北陸関西勢ならば北門――こそが寄せ手が集中する場所になるはずだからだ。
どちらの防備にも息が抜けぬ。
そういった訳で、仮住まいの屋敷はいささか……いや、相当に
信幸も、よもや掴み合いの喧嘩になるようなことはあるまいと思うている。思うてはいるがしかし、稲は武術の心得があるし、
駿府から稲を連れ出して上田へ行く、と決めた時から、信幸は覚悟していた。
その覚悟は、肩すかしにされてしまった。
仲がよいのだ。
二人はそれぞれの
夜になって信幸が屋敷に戻った時には、
いつまでもいつまでも話は止まらない。夜が更けると同じ部屋に床を延べて枕を並べてしゃべり続ける。
寝所に敷かれた布団は二組だけである。
二人の女房が延々と話して止まぬ寝室と、障子一つ
「さても、『戦』の成り行きを予想するのは難しい。ことに、人間の動きようというものは、解らぬものよな……」
カラカラ、コロコロとした笑い声を聞きながら、信幸はパタリと
「何をあれほど話すことがあるのだろう」
ため息じみた
翌朝、
信幸の碗によそわれた
「若様は胃の
「まるで私に良い所がないように……」
信幸は肩を落としてつぶやくような小声で言った。碗を持ち上げたものの箸を付ける気が起きてこない。
「玉の中には、
稲がふわりと笑いかけるが、信幸はどんよりと曇った顔をして、
「珍しがられてもな……」
ますます小さな声で言う。大きな背中を丸めて、ちらりと
「侍大将が青白い顔で『持病の
そうぴしゃりと決め付けた
信幸は頬を引きつらせた。
「……あるいは戦場で、腹痛に耐えかねてどこか木陰に駆け込んで、しゃがんだ途端に首討たれるのも、恥ずかしいことであるから……。死ぬにしても、はらわたの中だけは綺麗にしておかぬと、な」
白粥に箸を付けて、もそもそと口に運ぶ。
妙に心細い物言いが、妻達の気に掛からぬはずがない。
「殿様のものの仰りようは、まるで戦場で死ぬるを――美しく死ぬるをお望みになっているようですが……」
稲の声にはあからさまに不安の色が見えた。
「何ぞ?」
何も可にもない。己達が居心地の良くない小部屋に自分を追いやった
「いささか夢見が悪かった」
とだけ言った。
「夢、でございますか?」
「
碗を膳に戻して、信幸は背筋を伸ばした。二人分の「いささか不安げな白い顔」を交互に見やる。
「白い蛇のようなものが首元にまとわりついて言うのだ。
『死ぬるぞ、死ぬるぞ』
だから私は
『この時世に死を恐れる侍がおろうか。私もいずれ戦場で死ぬことは知れている。その覚悟はできている』
そういって蛇を追い払った」
信幸は穏やかに微笑した。稲が不審顔で、
「この時世と仰せですが、九州四国の争いも段落がついたこの時世に、大きな戦が起こりましょうか?」
「さて、太閤殿下が戦を起こすとお決めになれば、どこでも戦が起きるだろう」
稲の面に驚愕と納得が広がった。
小規模な領地を治める
で、あるから、戦闘も大抵は自領かその周辺で行われる。そして勝者は自領の自治を維持し、敗者はそれを削り取られる。
だが日の本の全土をその手中に納めつつある太閤・豊臣秀吉が起こす戦は、彼に逆らう者を
その戦のため、秀吉の命令を受けた者達は、自分の領地とかけ離れた場所へ出かけていって、戦をすることになる。
そうしなければ、自分もやがて敵にされてしまうのだ。
戦が終われば、秀吉
その武士の「地力」の元である旧来の領地との「地縁」を切り離せば、反発する力を削ぐことができる。
「今までとは、戦の形が変わるのだ。望むと望まざるとに関わらず、私はいずれどこかの戦場の露となる。真田でも、上田でも、沼田でもないどこかの別の土地の戦場で、命を散らすことになるであろうよ」
微笑していた信幸の視線が、ふっとさがった。
と。
「何とお気の弱いことを!」
二つの声が、異口同音に鳴り響いた。
驚いて顔を上げた信幸の鼻先に、
「戦場で散るですって!? 冗談はお顔だけになさって下さい。若様の
「う……うむ」
信幸は何か返答しようと口を開けたが、言葉が出る前に、今度は稲が
「万一、殿の命を脅かすような敵があったなら、このわたくしが
「いや、お主を戦場に連れて参る訳には……」
言いかけたが、信幸は黙らざるを得なかった。
二人の妻が互いを押しやりながら一つ方向――つまり信幸の眼前――へと迫る。
思わず身を引いた信幸は、仰向けに倒れそうな上背を、後に突いた手でようよう支えているような恰好となっている。そこへ、
「大丈夫です。御身のお側には、このわたしが付いております」
二つの声が重なって降って来た。
「お……おう」
信幸は幾度も小刻みに頷き、ようやっとそれだけの声で二人に応えた。
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