二月十五日(Side:A)

 立春は過ぎたというのに、まだ寒さは強い。それでも二月の中旬、そろそろ暖かくなってくる頃合いで、もう少しの辛抱だろう。冷える首筋に背筋を伸ばす。背を丸めることは山田太郎らしくない。

 マフラーをするのもいいかもしれないが、どうにも山田太郎、という存在には似合わないように思えてしまうから毎年格好は変わらない。自分自身を偽らなければならない原因は片が付いたのでもう少し緩めてもと思いもしたが、しかし鏡の中の自分をみるとやはりどうにも選択しづらく思えた。

 それでもそうしなければいけない、という過去ではなく、自分の利便性で選んだのだから以前よりも随分と気持ちが違う。バレてはいけないという制約が消えたことは、現状をネガティブではなくポジティブとしている。

 便利、ということで山田太郎を選んだからには仕事でなくてもオールバックとサングラス、喪服に赤いネクタイは外せないのは事実だ。それは単純に私服がないというのが大きい。

 自分の背格好では、服に着られることが少なくない、という程度の自覚はある。特に男物ではこのサイズを探すのはだいぶ難しい。セミオーダーで成り立つスーツは、そういう不便を隠してくれる。

 は、と息を吐く。白い。馴染んだ革靴もスーツも、自分のものだと思う。歩き方が大仰なのも、昔なら考えられないがもう慣れてしまった。男性の衣服、歩き方。骨格を隠すために、おそらく横須賀さんよりもよほど男性的な所作なのではないかと時々思いもする。あの人は性別とかではなく、少しこじんまりした子供じみたところがあるからだ。体格が大柄だからアンバランスなようで、天秤のように丁度良くも見える。

 ふ、と大きな手と花束が浮かんで笑いそうになる口元を引き結ぶ。それなりにしていれば似合うだろうに、ひどく大事そうに抱えるのはなんだか愛嬌があるようだった。彼の所作は、本当に彼らしい。

 ゆるみかけた気持ちを引き締める為に背筋を意識したところで、見慣れた顔が目に入った。伸びた背中は威圧するための山田太郎の物とも役者じみた平塚茜のものとも違う。まるで鉄の棒が背中に入っているように固く、地をしっかりと踏む人だ。

 日暮雨彦、という人間は本人の望む望まないは置いておけば、そういう表現が似合う人間だと思う。いつものスーツではなく、生地の厚い色物のワイシャツにセーター、ダウンジャケットを羽織った姿ですら変わらない。

 こちらに気付いていないその姿に近づく。休日なら関わらない方がいいのかもしれないが、進行方向のついでだ。

「日暮刑事」

 声をかければ、相変わらず芯が入ったままの所作で日暮さんは振り返る。横須賀さんほどではないが、一八〇を越えている為随分大きく見えるその高い位置の頭が、かく、とこちらを見下ろした。

「プライベートだ」

「これは失礼。偶然だな」

 相変わらずの言葉に、くつりと笑う。なんというか、決め事なのだろう。公私をきちんと分けることは好ましいし、頼もしいとも思う。刑事という職業に見合った物言いだ。

 特別なにか会話をしたい訳ではなかったものの、日暮さんが当たり前のように一歩分下がったので壁に寄る。コンビニ前とはいえ邪魔になっては面倒だし、会話を打ち切ろうというような所作でも無かったからだ。

 さすがにプライベートとは言え、刑事である日暮さんの隣にこういう場所で並ぶのも、と思い少し空けたスペースが、多分日暮さんと自分には丁度いい距離なのだと思う。

 まあ身長差的にも真隣が大変、というのもあるが。

「山田もプライベートか」

 仕事があればこういう場所でも気にはならないんだが、と浮かんだ思考に重なるようなタイミングで、平坦に言葉を落とされる。ちらりと見上げれば相変わらずのっぺりとした顔で、彼が何を考えているかはわからない。

 わからなくてもいい、と思える程度に正直なのは日暮さんの美徳でもある。

「ああ、今日は休みだ。休みに会うのも珍しいな」

「そうだな」

 とん、とそれで終いのように言葉が落ちる。同意の後、続く言葉はない。続ける気がないのか、さっさと帰ってほしいのか、それともただちょうど途切れただけなのかを読みとることは困難だ。元々山田太郎と日暮雨彦という二人に共通の話題が多くなく、特に刑事である日暮さんが探偵と一緒というのも、と考えるから立ち去るのが正しいのかもしれない。本当に情報のやりとりをするなら別だが、そうでないときに関わるのは異質な二人といえるだろう。

 けれども、日暮さんはいつも職場以外の場所ではプライベートだと言う。あくまで刑事でなく日暮雨彦として。こちらは勝手に仕事として扱っていたが――以前礼として行った居酒屋では、確かに山田太郎もプライベートだった。

 会話を無理に終えることも、距離を取ることも、逆に続ける必要も距離を詰める必要もない。日暮さんの許容はなんとなく、こちらから立ち去るには理由にならず、近づくほどの強制もない緩慢さだ。

 それがこの人の優しさなのだとも思う。話題はないが、沈黙も別に苦ではない。ただいる理由もないし、立ち去るタイミングを見つける焦りもない故に少しだけ奇妙な空白となってしまう。

「調子はどうだ」

「それなりだ」

 とん、と、空白を一つ埋めるように、のっぺりと日暮さんが言葉を落としたので、そのままとんと投げ返す。問いかけというには答えを強制しすぎない色は、日暮さんの話し方がいつも平坦だからだろうか。特徴的で、しかしらしさだ。

 だからか、こちらも警戒する気持ちにならない。一個では途切れる会話に、その糸が切れる前に言葉を続ける。

「まあなんかあったらアンタたちの部署に話が行くだろうくらいだな。最近で言うなら横須賀さんもなんだかんだ逞しくなったように思うし……ああ、横須賀さんと言えば昨日バレンタインでな」

 特別話題にするようなものではないが、会話には丁度いいだろう。イベントごとは天気の話題と同じくらい適当に出せるものだし、日暮さんも横須賀さんを気にかけていた。おそらく、悪い気持ちにはならない話だ。

「なにか渡したのか」

 見上げた先の表情は相変わらずの無表情。世間話以上の意味を持たない平坦な言葉と、こちらをきっちりとみる真っ黒い瞳は感情を見せない。ただ、渡すという言葉には内心で笑ってしまいそうになって慌てて眉をひそめた。

 山田太郎にそれはありえないのに、日暮さんは時々こうして突拍子のないことを言う。多分それは日暮さんが逸見五月を知っているからで、覚えてくれていることは有り難い。有り難いが、しかし山田太郎がするかといったらしない訳で。

「俺が渡す意味はねーだろ。いやまあ、三浦さん達と一緒に菓子食いにはいったし、そういやそのあともあったな」

 言い切った後、しかし以前の山田太郎なら絶対しなかったことを思い出して付け加える。もう気を張る必要はなくなったのだから気にはしていないが、渡す意味がないと言い切る理由が山田太郎なら、その山田太郎というものにも少しの違いが出来たことは事実として返すべきだろう。隠す意味もない程度のものだ。

「……三浦」

「おう」

 声の調子は変わらないが、復唱故に誰かを確認する意図が分かった。軽い調子で返すと、日暮さんの眉間にぎゅうと皺が寄る。

 他の表情はまったく変わらないのに、唯一動く眉間の皺はその顔の中で浮いている。言葉にプラスした日暮さんの意思表示は、日暮さんが伝えようとするから見えるものだ。

 聞こえてきそうないぶかしんでいるだろう言葉をその表情から受け取って、は、と浅く笑う。

「覚えているよな刑事さんじゃ」

 三浦さんは元々事件に関わったことがある。警察も介入したし、現場にその時居なくとも特例隊で扱った案件だ。日暮さんが知らないわけもない。

「まあ、問題があるわけじゃないんだ。事件の後も付き合いがあってな、横須賀さんと親しいんだ。それに俺も巻き込まれることが多いっちゃ多いが、悪い人じゃネェよ」

 そう警戒するな、と言葉を続けると、日暮さんが眉間の皺を消した。プライベートだというのに、やはりなにか危険があるのならばと考えているのだろうその人となりは嫌いではない。言葉はだいぶ粗野にさせてもらっているが、警察、というものを山田太郎だって信頼している。

 頼ってはいけない、と思っていた。それでも警察が出来る範囲をさがして、日暮さんが特例隊を作って――そうやっていく姿を遠目に見て、悪い感情は持たない。少し日暮さんは仕事に賢明すぎないか、あまりに事件と関わるから案じる気持ちがないわけでもないが――それは警察という仕事を選んだ日暮さんには失礼だろうから、言いはしない。

 ただこういう時でもやはり案じ、こちらを諭そうとする姿は少し眩しい。

「バレンタインに菓子を食べにいったのか」

 それ以上追求しないと言う意志なのかのっぺりと続いた世間話に、ああ、と頷く。こちらもそれを疑問に思わない意思表示のつもりで、笑みを浮かべて話を引き継いだ。

「諸事情で男三人バレンタインイベント中の場所にだったからまあ多少目立ったな。いやまあ話すのはこっちの話題じゃないんだが」

 実際は男三人ではないのだが、山田太郎の見た目としては男だ。そういうスタンスで生きていくつもりだし、ここで言い方を変えてもおかしいだろう。日暮さんだってそこをつつくほど野暮じゃない。ふ、とにぎやかな三浦さんと横須賀さんの姿を浮かべて話題がずれかけるのを止めるため続けた言葉に、日暮さんは口を挟まず待っている。

「リンに恋人がいない時は、毎年バレンタインに付き合っていてな。横須賀さんも今年は誘ったんだ」

 あの時の横須賀さんは中々楽しいものがあった。人にプレゼント、なんてそうそうしなかったのだろう。使われるくせに自分を使ってほしいと言うことには馴染まなかった人。それでも諦めるような人間でないことも、山田太郎には使って貰うことを当たり前に考えるところも知っている。彼自身、少しずつだが確実に、横須賀一という行動を表現することに躊躇わなくなっている。

 横須賀さんが喜ぶのも、竜郎さんが喜ぶのも見ているのは心地よい物だった。物事が一段落した故に、リン、という姿が純粋な竜郎さんの選択を見せていて、そういう今だからこそ余計自分にとっても嬉しかったのだろう。花束に三浦さんと目を配らせたことも悪くない記憶だから、口角が緩みそうになるのを言葉に代える。

「リンへのお返しじゃなくても日頃の感謝で、なんて言って花束贈りたい言いだして三浦さんと頭抱えかけたんだが――」

 見上げると相変わらずの無表情。しかし、それにしては少し遠い。日暮さんはまっすぐと話を聞いていることを伝える人だ。話をするときの指の動き、聞いているときの指の動き。どれも表情に出ないからこそ日暮さんが考えただろう、コミュニケーションの一つ。それが無い。

「日暮さん?」

「なんだ」

 名前を呼べば、平坦な声が帰る。日暮さんの内心を表情で探ることは難しく、この人が伝える意志を見せなければ情報から推察するしかない。仕事関係でないと探るつもりを持たないからか、余計に何を考えているかはわからない。

 退屈だっただろうか。素直にいろいろ伝えてくれる、と思っているから、そういう人間に自分は少し気を抜きすぎる自覚はある。以前に比べてふぬけてもいる。

「くだらない話をしたな」

「いや、微笑ましい。彼はイベント事に馴染みが無いんだな」

 反省を込めて言えば、日暮さんはまっすぐと言葉を返した。こちらをみる目から感情を読みとれず、しかし伝える言葉は明白だ。

 不必要な嘘を日暮さんは好まない。信じない道理もなく、少なくともバレンタインについてはそうみたいだったな、と軽く返す。日暮さんの様子から内心を探れないのだから、言葉は大切なものだ。この人が伝えてくれるのなら、それを疑うのは逆に失礼だろう。

「しかし花束は大仰だな」

 のっぺりとした言葉が続いた。感情は見えないが、おそらく感覚としてこちらとずれているわけでもなさそうなので頷き返す。

「リンは誤解しないだろうけど、なんかあった時に本人に気がないのにややこしくてもな、とは思ったからどうするかって話になったが、まあ道理に適ってる理由で止めるのも問題だろうしってことで横須賀さんと一緒に俺と三浦さんもって形にはした。リンのほうから説明はしてくれたし、喜んでいたから問題はねーけど中々バレンタインに花はな」

「まあ、誤解しないとわかっている範囲で試せたのはよかっただろう」

「ああ」

 やはり日暮さんもわかっているような言葉に、あっさりと同意する。諸外国でバレンタインに花を贈る風習があることは、日暮さんも把握している程度に広まりだしているのだろう。横須賀さんが鈍いというよりは知っていてもあまり結びついていそうにないあたりが微妙だったが、竜郎さんの説明で問題なかったし、それはそれでホワイトデーにも花を送ることになっている。

 優しいやりとりを悪く思う理由はない。

「日暮さんはバレンタイン、忙しかったか」

 途切れた会話に話題を差し込む。別に続けなくてもいいのだが、せっかくのイベントごとだ。ここまで話題にして聞かない理由もなく尋ねると、日暮さんはまっすぐこちらを見下ろしていた。

「……仕事だったからな」

 ぽつんと落ちた言葉はのっぺりだが、少し話からずれていて笑ってしまった。仕事は仕事、そうだろうがそうじゃない。

「そっちじゃなくて、アンタもそれなりに貰う方だろう?」

 見目で人を選ぶのも、と思うが、目を引く高身長。剣道も達者だったし、真面目でお人好し。感情が見えないという点はあっても、考えを隠さず伝え、こちらを案じる。部下の面倒見もいいし、顔立ちだってそんなに悪くない。しかも警察官だ。職業故のその体への心配はあっても、誠実さと人格を保証されるような仕事で、それを裏切らない人となり。

 それなりにそういう付き合いは多いだろう、ということを暗に込めた言葉で、しかし日暮さんは首を横に振った。

「貰わないな。義理付き合いはあまりエスカレートしてもまずいものだろう」

「ふうん」

 否定は単純なものだ。まあ、突っ込んで聞くのもそれこそ相手のプライベートになるし、世間話でしかないので頷いて終わる。横須賀さんのように恋愛事に臆病という様子は見えないが、特別興味がないのかもしれない。

 仕事人間、というのもまあこれまでを思うと納得できる。

「山田はなにかしたのか」

 とん、と日暮さんが自身の足を指先で叩いて尋ねる。聞くときの合図みたいなものだが、渡したか、と先ほど聞いたのにわざわざ聞き直すほどでもないだろう。彼なりの世間話なのだろうが、こちらがする、という発言は奇妙だ。

「しねぇよ。そもそも俺がしてもおかしいだろ。リンへの花も渡したって言うよりはついでのカンパみたいなもんだしな」

 馬鹿馬鹿しい、と言うように笑い捨てる。男性が送ることは諸外国の花をはじめさほどありえないことではなくなったが、山田太郎にとってはやはりおかしい。

 竜郎さんに渡す花に金を出した。それ以上は、ありえない。

「少し待っていてくれ」

 とん、と落ちた無機質な日暮さんの言葉が唐突すぎるように感じて、不可思議な心地で見上げる。待つ、というのはいいが理由がわからない。

 返事もまたずコンビニに入っていった日暮さんの背中を視線だけで追う。なんとなく、時折あるこちらにガムを渡す時を思った。思ったが、別に今は煙草を吸っていない。香りもないはずである。その背から視線を外して思考を巡らせるが、意図は分からない。

 まあ、日暮さんの考えがわからないのは今に始まったことじゃない。特に害も無し、腕を組んで待つ。

「山田」

 声がかけられるまで時間はさほどかからなかった。自動ドアから出てきた日暮さんに、おう、と短く返す。

 日暮さんはそう歩数もない距離なのに大股で近づいた。まあ長身だから余計そう感じるのかもしれないが、なんだかいつもよりもせわしなく思う。隣に並ぶまでと思って視線を外したのに、すぐこちらを見下ろすからまた向き直るまでさほど間がなかった。

 なんなんだ、と問おうとした言葉を遮るように、日暮さんが袋を差し出す。

「……あ?」

 間抜けな音になりそうな声を凄む声になんとか変える。それでも迫力は足りなかったが、この人がそれに突っ込むこともないだろう。

 とりあえず意味が分からないのは事実なので、袋に視線を向ける。ガムにしては大きい、というか四角い。正方形の意味で。

「プレゼントだ」

「は?」

 少しいつもより早く感じたが、声自体はいつも通りのっぺりとしたものだ。焦る理由もないだろうし、こちらの気のせいかもしれない。しかし、理解ができない。

 不審を伝える為眉間に皺を寄せると、袋がこちらにさらに押しつけられた。

「貰ってくれ」

「なんでだ、なんかあるのか」

 尋ねながら袋を受け取る。理解はできないが、受け取ったからといって不利益を与えるような男ではない。

 中を見れば、洒落た包装紙で飾られた箱があった。

「特に理由はないが、世話になっているしな。気持ちだ、値引き物だしな」

「バレンタインを?」

「売れ残りの安いコンビニチョコだ。日付は過ぎているんだし、ただのお裾分けだと思ってくれ」

 いぶかしむような声で尋ね返せば、日暮さんが言葉を重ねた。この人は敵意のなさを伝えるためか、自身の感情を補うためか説明をする。するのだが、どうにもその内心までを語らないので足りない。

 それでも悪意はないし、お裾分け、という言葉を内側でなぞる。

「開けてもいいか?」

「……ああ」

 日暮さんが頷いたので、包装紙を指で撫でる。こんな場所で開封するのも、と思うが、しかし貰っておしまいというには微妙だろう。

 見た目で言うなら男同士、日付が過ぎたとは言えコンビニ前でバレンタイン用のチョコレート。山田太郎としてどうなのかと思うが、まあ悪意も敵意も他意もない。お裾分けだと日暮さんが言うのならそれ以上でもないだろうし、これまでのように親しい人間が竜郎さん以外は存在しないというスタンスを貫く必要もない。

 日暮さん的にはどうなのだろうか、という考えはなくもないが――まあ、誤解をされたのならそれを正すためにこちらが協力すればいいだけだ。

 包装を剥がした箱には銀箔で装飾があり、綺麗だ。小さな箱をそっと開ける。

「随分と洒落てるな」

「今時のコンビニは凄いな」

 つい、感嘆が声に出てしまった。対する日暮さんは平坦で、それでも凄いという感情は彼の物だろう。

 たった三粒の、コンビニでも数を少なくすることで高級志向が窺えるチョコレート。包み紙は緑色で、それすら装飾となっている。

 菓子細工、という言葉が相応しい、美しいセピア色をした薔薇の粒。薔薇の砂糖菓子があるんだっけ、と昔の記憶がふと浮かんだ。

「……好きだろう、そういうの」

 平坦に落とされた言葉に、口にしない感情を代わりに落とされたような心地を覚える。確かに、逸見五月は、好きだ。可愛らしいと考える気持ちも、今だってある。

 可愛いだなんて、山田太郎は言わないが。

 どうしようか、という言葉はどうしようもない、という事実でもあった。浮かんだそれは山田太郎に似合わなくても確かに存在していて、なにより、好きだろう、と日暮さんが言った。

 たった半年もいなかった二十年以上前のクラスメイトが園芸委員だったことを、覚えているのだろうか。そんなに話をしたわけでもないのに、本当にお人好しと言うべきか。つらつらと浮かぶ思考はなんとか根っこを逸らそうとして、逸らしきれない。

 そうだ。私は、好きだ。

「ああ」

 優しさに感情が漏れるのを、それで良しとした。人通りはさほどなく、見ているのは日暮さんくらいだ。他人に見られてもこの程度別に、どうとでもないだろう。本質を隠すのに、サングラスとオールバックはずいぶん便利でもあった。

 だから今は、これでいい。同じ言葉を重ねられないけれども、この愛らしいチョコレートと日暮さんの優しさに浸ることくらい、きっと許される。この人は、それ以上踏み込まない。

「嫌いじゃない」

 すべてを言葉にしきれなくても、甘いかけらをせめても伝えるために言葉を選ぶ。箱を日暮さんに向けて差し出すと、やはり表情の読めない顔がこちらを見返す。

 人に与えるくせに、それで終わりにするのだけはなんとかしてほしいものだ。甘えるのも礼儀だとは、思うけれど。

「一個ぐらい日暮さんも食っときゃいいだろ。安いっつってもこの個数で売られるようなもんだ。奢られるにしてもアンタが食わないのは落ち着かねぇ」

「ああ」

 頷いた日暮さんが、一粒チョコを摘む。ぱかり、と口を開けて放り込まれたチョコレートは、「甘い」という呟きと一緒にかみ砕かれた。

「そりゃ甘いだろうよ」

 なんとなく愉快な心地で返す。当然のことをそれでも言葉にする日暮さんらしさは悪くないが、少しだけ幼く見えてしまった。

 中学の時からとんで、再会は自分が山田太郎となり、日暮さんが刑事になってから。成長過程を知らないせいだろうか。なんとなく、昔の姿が重なったように感じてしまう。

 そんなものはないのに、なんとも奇妙で不可思議で、少し眩しい。

「返すモンねぇぞ」

「俺も貰ったから必要ないだろ」

 奇妙に浸る心地から多少は浮上しようと言い切れば、もごもごと咀嚼した日暮さんにあっさりと返される。なんともお人好しな言葉だ。渡したのは日暮さんなのだから、貰ったとは違うだろうに。

「日暮さんが寄越したんだから貰った、っつーのも……いや、そうだな」

 否定をそのまま口にしようとして、言葉を止める。渡して、それを貰った。肯定しづらいが、それでも日暮さんが言うのならそうとした方がいい気もするのだ。くれた物を貰った人間のものではない、というのも失礼だろう。

 だとすると、この状態は。

(ああ)

 馬鹿馬鹿しい思考だが、悪くないと思えた。わざとらしく片頬だけつり上げにやりと笑う。

 まったくもって彼の望みではないだろうが、それはもうこのタイミングでそういうものを渡した日暮さんが悪い。

「貰った時点で俺のモンだし、そこから日暮さんにやった、って考えるならおあいこだな。日付も色気も準備もねえがハッピーバレンタインってやつだ」

 興味ねえだろうけどな、と日暮さんの意図を誤解していないことを明示するために続ける。日暮さんの表情は変わらない。まあ、変わるわけがない。それでも迷惑がるような人ではないだろう、冗談を自分でも言う人だ。この人は、素直に受ける。

 なんとなく子供じみた、くだらないことを言っている自覚はある。けれども、だってそう、仕方ないだろう。せっかくのこの甘い物を、それだけで投げるには勿体ない。

「ああ」

 やはりというべきか、日暮さんはあっさりと頷いた。お人好しすぎて横須賀さんとは別の意味で心配になるが、この人は芯がだいぶしっかりしている印象だから大丈夫だろう。下手に流されて相手も自分も困ると言うことはない、という安心感がある。

 食べるのも勿体ないくらい愛らしい薔薇のチョコを摘んで、口に入れる。舌で転がすと優しい甘さだ。

 悪くない。もう一度心内で呟いて、日暮さんを見上げる。のっぺりとした能面の男は相変わらずまっすぐと立っていて、やはり少しだけ、眩しかった。


(公開 2018/02/15)

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