第40話 幻と記憶に迷い込んで

「ひいな!」


 茸の胞子を吸い込んだ最初の瞬間は、ひいなはぜんぜん正気だった。うろたえる花乃華に「大丈夫~」と笑いかける。花乃華は、ひいなの肩を揺さぶりながら、額をぶつけそうなくらいの距離まで詰め寄る。


「ほんとに大丈夫!? ひいな、なんか目がおかしい!」


 言い募る花乃華の方こそ、なんだか変だった。怒っているような、困っているような、異様な表情で、ひいなの眼前で左右にスライドしている。ふざけているように見えて、ひいなは笑った。のどの奥から出てきた笑い声は、妙にひきつって、甲走った、けたたましい声だった。

 そのうち、変なのはやっぱり自分なのかも、と思い始める。


 ぐねぐねとゆがんだ花乃華の顔が、次第に渦を巻き始める。ラテアートをスプーンで崩してかき混ぜるときみたいに、整った顔が壊れていく。目鼻が分解して、同じ色に解け合う。


 ぐちゃぐちゃの茶色になった視界で、ふたたび色が分裂する。赤と、黄色と、緑と、ピンク。ばらばらになった色の固まりが、天気図の中の雲のように自由に動き回る。

 頭が縦に揺れている気がする。

 耳元で、大きな金盥が鳴らされている。

 足が冷たい。

 天井と床の区別が付かない。

 おなかのなかの重たいものがせり上がってくる。


 ゴッ、と、口から鈍い音がした。


 うずくまったような気がするけれど、自分の体がどういう形をしているのか思い出せない。


 目の前で、小人が踊っていた。

 ひいなたちが出会ったのは、茸じゃなくて、小さな人間たちだったのだ、と、ひいなは直感した。


<◇◎♯£∀∀$↓↑♪>


 横一列に並んだ彼らは、マッチ棒ほどの手足を大きく振りながら、行進を始める。彼らの頭上で、緑色をした蝶の群が踊る。8の字を描いて、方角を指し示す。(それは蜂じゃなかったっけ?)

 こっちに行こう、と、誘っていた。


 ひいなはふらふらと、歩き出した。たぶん。もう足がすっかり消え失せてしまって、歩いているのかどうかわからない。前に進んでいるように感じるのも、ひょっとしたら、空を飛んでいるのかもしれなかった。


 小人たちと、蝶の群とは、いつの間にか一体化していた。小人の頭の左右で蝶の羽がはばたき、臍から細長い口が伸びて、蜜を探すようにパタパタ揺れる。

 小人の通り過ぎた道に、ぽつぽつとカリフラワーが咲く。


 小人たちを見下ろしながら、よちよちと空中を進む。

 エモーショナルスターロッドで空を飛ぶ練習をしていたときに近い。


 今のひいなは子どもなのかもしれなかった。13歳の。


 子どもの足取りで、ひいなは、小人の後に付いていく。合成着色料のように真っ青な森を通って、壊れた画像みたいなピンク色の道を辿って、抽象画に似た水平線のほうへ。

 図工の教科書で見たヘンテコな絵は、この世界を見た画家が描いた写実だ。


 遊ぼうよ、遊ぼうよ。


 小学校の頃はいろんな子に遊びに誘われた。近所の家の子、同級生、年上の子も、年下の子も、隔てなく。

 田舎で育ったひいなは、草むらを駆け回ったこともあるし、川で泳いだこともあるし、人の家の屋根に登ってはしゃいだこともあった。腕白な子どもだった。


 ごめん、用事があるから。


 中学生になると、ひいなのつきあいが悪くなった。

 魔法少女になったからだ。


 歩いているのか、飛んでいるのか、滑っているのか、流れているのか、溶けているのか。


 大人も同級生も、いぶかしげな目でひいなを見るようになった。よく遊んでいた子も、ちょっとずつ距離を置くようになった。

 ときどき訳の分からないことを口走ったり、理由の分からないことで学校をさぼったりするひいなは、不良か、でなければ発達に問題のある子のように扱われた。


 前みたいに、誘ってはもらえなくなった。

 さびしかったな。


 浮かれ騒ぎが聞こえてくる。どこか遠くでお祭りでもしているような。

 誰を歓迎するのだろう。それとも、見送りなのだろうか。


 彼女を誘ってくれたのは、妖精パノンと、魔法少女仲間のるる。

 それと諸悪の根源、ゲヘナくらいか。


 パノンもるるもいなくなったし、ゲヘナはもう喋れない。


 誰も彼女を誘ってくれなくなったのが先だったか、ひいなの方からみんなを拒絶したのが先だったか、もうよくわからない。


 空は黄色い。


 ダンジョンにしつこく誘ってくる後輩も、同じように拒んだ。

 受け入れようと思ったのは、単なる気まぐれでもあったし、一度だけ願いを聞いてやればせいせいするだろう、という思惑だった。


 なのに、そこで、花乃華と出会って。


 どうしてこんなこと思い出して。


「ひいな、ひいな!」


 急に、視界が晴れた。

 目の前には花乃華の顔。その向こう側には、ダンジョンの壁を覆い尽くす樹皮と蔓草。肩越しに、美鈴の心配そうな表情も見える。


「花乃華ちゃん?」


 目の焦点が合う。花乃華は泣きそうに顔をゆがめて、唇をひくひく震わせながら、ひいなの目をじっとのぞきこんでいる。彼女の顔が自分より上にあるのが分かって、ようやく、ひいなは自分がそこに座り込んでいるのに気づいた。


 どうやら、さっきまでのは、幻覚だったらしい。


「……私、」

「ひいな、しっかりして!」


 ばちーん、と、思い切りぶったたかれた。

 目の前で、緑色の魔力が舞い散る。魔法を乗せた本気の平手打ちだった。


「痛ーいっ! 何すんの、パノンにも叩かれたことないのに!」

「誰、パノンって。まだ正気じゃないの? もう一発!」

「待って待って! パノンってのは私の妖精! 口やかましくて喧嘩っ早くて役立たずだけど……」

「……ひいな?」


 花乃華が、魔法の宿った右手をぴたりと頭上で止める。その姿が、一瞬、ぐにゃりとぼやける。また幻覚か、と思った。

 困惑しきった、花乃華の声が聞こえる。


「ごめん、泣くほど痛かった?」


 つっ、と、ほっぺたを冷たいものが滑り落ちていく。涙というのは、物語や歌詞で唄われるほどには、熱くはない。涙を流すときには、たいてい、自分の身体の方が熱くなっているから。

 ひいなは、涙を拭った。


「……珍しく、昔のこととか思い出しちゃったから」

「じゃあ、もう大丈夫?」

「うん、すっかり目が覚めた」


 そう言うひいなの顔を、花乃華はしばらくの間じっと観察する。医者が傷口を診察するみたいな、冷静な目。あるいは、そんな冷静さを保とうとするような、我慢強い目。

 右手をひいなの前に出して、花乃華は問う。


「これ何本?」

「8本。魔力で分裂させるの意味ある?」


 ひいなの答えに、ほっと息を吐いて花乃華は手をおろした。


「よかった。ひいな、本気でやばかったんだよ。譫言みたいに意味わかんないこと言うし、歩いて空飛ぶし、いきなり木の隙間に入り込んじゃうし」


 どうやら空を飛んだのはほんとうだったらしい。


「隙間?」

「そう、隙間。どう見ても壁なのに、するするって吸い込まれていくから、わたしも美鈴もびっくりしてついてきたわけ。そしたら、ここ」


「……そういえば、ここ、どこ?」


 あたりを見回す。

 まるで最新の高層ホテルのフロントのように、ぽっかりと空間が広がっていた。針葉樹に囲まれ、頭上を縦横に枝が覆い尽くし、どこからともなく差し込む淡い色の日射しのような光が下生えを照らしている。

 ダンジョンの真ん中のはずなのに、どこか遠い国の森の奥のような景色だった。


 それこそ、魔法使いか、泉の精霊にでも出会いそうな。


「美鈴ちゃん、ここ、来たことある?」

「まさか。初めてですよ」


 真ん中に突っ立ってあたりを見回していた美鈴は、ひいなの問いに上の空で答えた。彼女も知らないということは、第16階層でもかなりの深部に違いない。

 ひいなの無茶なやり方が、功を奏したわけだ。


「……何笑ってるの、ひいな。まだ茸の毒が回ってる?」

「ううん。お役に立てたかな、って」

「立ったよ。だからって、こんな無茶はあんまりしないで」


 花乃華に頭を上からなでられ、ひいなは、自然とふたたび笑う。つかのま、子どもに戻った気分だった。

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