第35話 行くか? 戻るか? ダンジョンの不思議
クリプティを倒したひいなを、美鈴は、じっと睨んでいた。かけていた眼鏡が、顔から半ば滑り落ちそうになっていることにも、気づいていないかのようだ。
口を開きかけては、また閉じる。自分の中にある言葉を口にするのをためらう美鈴の姿は、きっと、ある意味で彼女らしいのだろう。彼女自身、クリプティと戦わなくちゃいけないことは分かっていただろうし、この結果も分かっていたはずだ。だからこそ、ひいなに恨み節をぶつけることができない。
彼女のそんな、冷静沈着な内面の存在が、ひいなにはむしろ悲しく思えた。
「見て、ひいな」
花乃華が、不意に声を上げた。
彼女が見ているのは、クリプティが倒されたあとの場所。クリプティが特にしっかりと根を張っていた、通路の中央だ。
クリプティの残骸であった黒い霧が晴れていくと、そこに、うっすらと、光が差し始める。
薄緑色の光は、最初は霧に覆われておぼろげだったけれど、次第にくっきりとその形状を表し始める。
「これって……」
つぶやくひいなの目の前で、緑色の光は、ダンジョンの天井まで延びていく。
そうして、それは、一本の大きな柱となった。
「ゲート?」
花乃華の言葉通り。それはダンジョンの各所に点在し、ダンジョン内と外界とをつなぐ、ゲートにそっくりの姿を取っていたのだった。光の波が表面を縦横に行き来し、ときおりきらきらと輝きをまき散らす。向こう側は見通せない。
「……確かに、ゲートに見えるけど。ほんとにそうなの?」
「まさか、これがクリプティの”素材”ってことはないよね」
ひいなの疑問に、花乃華がさらなる疑念を重ねる。
言われてみれば、倒されたクリプティはそのまま素材に変化することなく、消滅してしまった。後に残ったのは、この薄緑色の柱だけ。
「ひいな、ちょっと触ってみて。何が起こるか確かめたい」
「え、私がやるの?」
「何、怖いの?」
「花乃華ちゃんが言い出したんだから、自分でやればいいじゃない」
「いや、わたしは怖いし」
とぼけたような真顔で言い切る花乃華。彼女自身、第15階層ではトラップ床に引っかかってテレポートさせられた経験があるから、怖がるのは理解できる。
だからって、ひいなに押しつけていいというものでもない。
「私だって怖いってば……下手に手出ししないで、マクリーにでも報告しておいた方がいいんじゃない?」
「それが安定かな。どっか別階層にとばされたり、最悪二度と出られなくなったりしたら、洒落にならないし」
「……そういえば、ダンジョンの中に誰かがいたまま日付が変わっちゃったら、どうなるんだろ?」
常に変動し続ける真黯城の構造は、日が変わるごとにまったく別物になる。先週、ひいなと花乃華による第15階層ボス攻略の結果、階層は一度崩壊してしまった。しかし、今週はすでに、新しい形の階層に生まれ変わっているはずだ。
同じような性質を持ちながら、まったく別の形状、構造へと変化し続ける。それが真黯城だ。
逆に、探索者の誰かが閉じこめられたまま、ダンジョンの構造が変化してしまったら、探索者は、無事でいられるのだろうか?
その疑問への答えを、ひいなも花乃華も持っていない。
ダンジョンには、まだ分からないことばかりだ。
理解を超える現象に遭遇したら、変に冒険せずに回避。それが生き残る秘訣だ。
「……このままにしていくつもり?」
つぶやいたのは、美鈴だった。彼女は、すがるような目つきで、緑色の柱を見つめている。
花乃華が「もう」とため息のような声を発して、美鈴を横目で見据えた。
「これはクリプティじゃない。もう似ても似つかない何かでしょう?」
「だけど、手がかりだよ」
「手がかりも何も、クリプティはさっき倒されたじゃないの。こんなのは、ただの残骸。それかダンジョンにまつわる正体不明の何か。手出ししない方がいい」
「あれはクリプティじゃなかった」
「まだ言ってるの? 美鈴も覚えてるでしょう? 孤立の種の最終形態、光も封じる黒の花。あれは間違いなく、私たちの戦ったクリプティだった」
「そう。”私たちの戦った”」
意味ありげに、美鈴が繰り返す。花乃華が、はっと何かに気づいた様子で、美鈴に歩み寄る。何かを問いかけようとして口を開きかけながら、また閉じる。言葉にしづらい、信じられない何かだ、とでも言うように。
「どういうこと?」
ひとり話題から置いていかれたひいなが、代わりに問いを発した。花乃華が振り返って、応じた。
「……クリプティとパナケアの最後の戦いで、ラベンダーはクリプティの孤独と、そこから生じた偏執的な悪の心を清らかにしたの。ラベンダー自身の魔力、形を持たない魔力を、クリプティに吸収させることで」
ダンジョン攻略の途中、魔力を吸収する花のクリーチャーに対し、美鈴は魔力をひたすらそそぎ込んで窒息させた。つまり、彼女の、自在に形状を操作できる魔力は、敵に取り込ませるのに適したものなのだ。
その力によって、美鈴は、敵の四天王をも倒した……浄化したわけだ。自らの魔力を、敵に注ぐ、あるいは捧げることで。
「ラベンダーの魔力を吸収し、浄化されたクリプティは、闇に染まった心を解きほぐされながら散っていった」
「……でも、さっきのあれは」
ひいなも気づく。咲き誇る黒い花の姿が、脳裏に浮かび上がる。
花乃華は、神妙な表情でうなずいた。
「そう。あれは”浄化される前のクリプティ”なの」
「……それって、どういう」
「分からないよ。何があって、あの状態に戻されてしまったのか。それとも、あれはクリプティに似た別の何かなのか……」
「確かめたい。僕はそのためなら」
歩き出しかけた美鈴を、花乃華が手を引いて止めた。
「ダメだってば!」
美鈴は、痛みをこらえるような険しい表情で、花乃華を振り返る。
「止めないで花乃華!」
「止めるよ! 私が言うのもなんだけど……ここで深追いして危険を冒すのは、私たちの役割じゃないよ。私たちは魔法少女パナケア。目的はメノンタールの殲滅と、リランの住んでた魔法の国の救済! でしょ?」
「……今、ここで君がそれを言うんだ、花乃華」
「もしも、あれがクリプティの成れの果てで、倒さなくっちゃならないんだとしたら……それはパナケアの使命になる。4人で戦って、けりを付けるんだよ。ここで、わたしと美鈴のふたりでやる必要はない」
花乃華の理屈を、美鈴はしばし検討していたようだった。目を伏せ、考え込む彼女を、花乃華はじっと見据えていた。もしもこれ以上わがままを言うのなら、力ずくでも阻止する、とでも言いたげな悲壮な決意が、彼女の瞳を青く燃やしているように見えた。
薄緑色の柱は、ただ静かに屹立していた。その姿は、何も問いかけもせず、答えを与えることもない。あたかも、魔法少女たちの決断を待っているかのようにも見えた。
やがて、美鈴は吐息をついた。
その息は、彼女の心の中で渦巻いていた情念が、色づいて流れ出しているみたいだった。
「……分かったよ。花乃華がそういう感じの時は、絶対曲がらないものね」
「美鈴だって、頑固だもの。説得するなら、死ぬ気でする」
「花乃華に死なれちゃたまらないね」
苦笑して、眼鏡にそっと手を触れた美鈴。その表情は、最初に出会ったときのアルカイックなほほえみを取り戻していた。軽く肩をすくめる仕草は優雅で、全身から余裕が感じられる。
「仕方ない、帰ろうか」
「うん。ひいなもそれでいいよね?」
「私は別に、元々こだわるとこじゃないもの。それより……」
ひいなは薄緑色の柱に背を向け、やってきた道のりを振り返る。ひいなの魔法でなぎ払われたはずの蔓草が、ふたたび繁茂し始めている。
「帰るの、めんどくさそう。道、覚えてる?」
美鈴をちらりと見やって、ひいなは目を伏せて言う。美鈴は、苦笑混じりの表情でうなずいた。
かくして、道に迷いながら、ひいなたちは第16階層最初のゲートへと帰還した。
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