茜より朱く

ユリ子

茜より朱く

 ヒュッと喉の奥が鳴って、僕は生唾を飲み込んだ。ごくり、と鳴るその音に、更に僕は背筋を震わせた。


 放課後の空き教室は、僕たちの“作戦会議”場所に決まっていた。どちらともなく誘い合って、この教室で落ち合う。いつもと同じやり方で、僕は、いつもと違う美園沙也に会った。

「美園。お前、その、それ、なんだよ?」

 上手く言葉を組み立てられなくて、僕の動揺が美園に伝わってしまったかもしれない。彼女はいつもと同じ調子で、「バレちゃった?」みたいなノリで笑った。

「いや、気付いたらこうなってて」

「気付いたらってことはないだろ」

 そう言って、僕は彼女のブレザーに手を伸ばした。それは予想通り、特有の錆臭さとぱりぱりと糊がけしたような感触を寄越してきた。


 美園沙也は、血まみれで僕の前に在った。


 けろっとしているから大けがをしたということもなさそうだし、かといって、誰かをメッタ刺しにしていたら校内中の噂になっているだろう。血液が乾燥していることから、昨晩から今朝に何かを行っていたとしても、ここに来るまでに職質や質問責め、やっぱり校内中の噂になっているはずだ。

「多分ね、昨日の夜くらいにはこうなってたと思うの」

「なんでブラウス着替えてないんだよ」

 それくらい、着替えろよ。

「それがね、不思議なの。何着てもね、アプリのフィルターみたいに全部こうなっちゃいの! パジャマもこうなっちゃったし、ブラウスも何枚か試してみたけど全部だめ。呪いの装備みたい」

 また、そう言って彼女は笑った。

 美園はよく笑う女の子だ。笑うのが癖なのだとも言っていた。本当に楽しいとき、楽しいとき、悲しいとき、彼女は笑った。それが癇に障ると怒られた時も、同じように笑っていた。だから僕は“作戦”を提案したのだ。

「面白い話みたいにしようとすんなよ。まだ甘いじゃん」

 どれだけ問い詰めたって、彼女はこの調子なのだ。僕は諦めて、彼女の冗談めいた訴えを笑った。

「もっと練らなきゃかな」

 腕を組んで考えるふりをしてみせて、彼女は椅子に座りなおした。

「じゃあ、作戦会議、しよっか」

「出来るか」

「は?」

「こんな状態で出来るかよ」

 どれだけ考えたって、目の前の血まみれ女が気になってしまってそれどころじゃないだろう。

「ていうか、美園、それの原因突き止めた方がよくない? せめて、対処法でもいい。日常生活に支障きたしまくりだろうしさ」

「うん」

「いつまでも呪われたままじゃだめだろ?」

「すごい、たまには優しいこと言うんだね」

 かなり失礼なことを言いながら、彼女は嬉しそうに笑った。



 どうやら昨夜にはこうなっていたらしい、ということから、彼女の下校ルートをさらうことにした。僕たちは並んで校舎を出て、運動部で賑やかな校庭脇を通り、校門を出た。それまでの間、誰にも二度見されることなく、声を掛けられることなく、悲鳴を聞くこともなく、だ。何人もすれ違った、クラスメイトにも会った、美園のクラスメイトとも擦れ違ったけれど、誰も何も言わなかった。

 もしかして、彼女は誰にも見えていないんじゃないかという、ホラーな妄想をしてしまう。

「美園、さん?」

 背後から声をかけられて、ビクッと体が跳ねる。けれど、先程の嫌な妄想は否定されて安心もした。

 振り返ると、僕のクラスメイトの篠原亜咲美が、顔色をなくしてこちらを見ていた。

「あ、篠原さん」

 どうやら彼女たちに面識はあるらしい。いつも通りの笑顔で返す血まみれの美園と、完全に血の気をなくした篠原。なかなか面白い図だ。

「どうしたの、それ」

「あ、これ?」

「こいつにやられたの? 悪戯にしてはめっちゃ質悪いんだけど」

 僕は篠原に制服の襟首を掴まれて、揺さぶられていた。彼女とは、クラスメイト以前に同じブラスバンド部員としてそれなりに親しくしていた。親しいけれど、こういった暴力的なはしゃぎ方をするのは止めてほしい、と思う。

「違うよ。呪いの装備!」

 簡略化されすぎた説明は、更に篠原の混乱を招く。眉間に深く寄せられた皺が、彼女の混乱と苛立ちを如実に表していた。

「気付いたら血まみれだったんだって。しかも、何着ても血まみれになるらしいから、呪いの装備」

 僕の説明で、どうにか眉間の皺を薄くすることはできた。

「え、何それ超怖い」

「怖いよりもね、困るからね、これから原因を探しにいくの」

 そう、本人は全く怖がっていない。篠原や僕の反応を過ぎると、こうなってしまうのかもしれない。……まあ、確かに、篠原に声を掛けられた辺りは困ったなと思ったし。

「わたしも気になるし、ついていってもいい?」

 面倒だな、と思ったけれど、篠原は完全に美園に向かって尋ねている。こういったところに狡さを感じて、僕は視線を落とした。

「もちろんだよ! 篠原さんみたいなしっかりした人が居てくれた方が助かるかも」

 予想通りの回答だったけれど、まるで僕がしっかりしていない人間みたいで悔しかった。

「ねっ」

 僕にも肯定を強請られて、小さく頷いた。

「じゃあ、レッツゴー!」

 美園の妙に朗らかな掛け声で、昨日の彼女の足跡を追い始めた。


 美園の家は、学校から徒歩二十分圏内だという。僕は駅へ向かうルートだけれど、彼女は住宅街へと向かうルートらしい。住宅街周辺は随分とのどかで、“都会の中心にある、心のふるさと”なんてキャッチコピーで紹介されていたりする。地元住民からは“都会の中心にある、ぼくのかんがえたド田舎”と呼ばれているけれど。まあ、そのくらいはのどかな場所だ。そんな場所を血まみれ女子高生が歩いていると考えただけで、少し笑えてくる。僕はもう、その程度には、美園のいう「呪いの装備」に慣れてきたらしい。

「あっ、ここ寄った!」

 学校を出て五分程度歩いたところで、美園は足を止めた。国道沿いにあるんじゃないかというくらい大きな駐車スペースのあるコンビニ。

「いつも通りアイス買ったの」

 どうやら、彼女には買い食い癖があるらしい。アイスへ向かってコンビニへ入らんとする彼女を、慌てて制止する。

「その恰好で入ったら、大騒ぎだろ」

「あ、そっか。……残念」

 しょんぼりと俯く美園に、わたしが行くよ、と篠原が宥める。

「だから、お金」

 篠原は真っ直ぐ掌を差し出した。

「え?」

「お金。美園さんのアイス、奢ってやるくらいの男気はないのかね」

 そんなに小遣いを貰っているわけじゃない。しかし、篠原の一言で目を輝かせて僕を見る美園に、抗うことなんてしない。僕は美園に抗わない。

 小銭がなく、仕方なく千円を差し出した。篠原はそれをしっかり握って、店内へと向かう。

「そうだ、駐車場に何かないか見ててよ」

 そう言いながら、篠原は店内へ吸い込まれていった。

 僕たちは、彼女の言うとおりに駐車場を見て回る。大きな汚れ――たとえば血痕なんかがあれば掃除をしているだろうし、まず何かしらの事故なら通報をしているだろう。つまり、ここで美園が呪われたわけではない。呪いかどうかは分からないが、美園が血まみれになったのがここではないということは確かだ。

 正体不明の痕跡を探すも、相手が呪いならば……魔法陣とか? そういったものも見当たらなかった。スプレーの落書きひとつないこのコンビニは、実に美しく整備されていた。

「何かあった?」

 駐車場をうろつく僕らに、戻ってきた篠原が声を掛ける。美園と揃って首を横に振ると、目の前にアイスの入った袋が差し出された。あと、お釣りと。

「美園さん、どっちがいい?」

「今日はチョコの気分かな! ごちそうさまです!」

 一切の躊躇なく引き抜かれるチョコがけされたアイスを見送って、僕は残りに手を伸ばした。

「あれ、篠原は?」

「わたしはこれです」

 そう言って篠原は、昔懐かしい駄菓子系のアイスに噛り付いた。僕と美園のものよりか、随分と低い価格設定のものだ。

「これがいいの」

 じっと見つめる僕に気付いてか、篠原はまたアイスを齧った。


 複数の女子と並んでアイスを齧りながら歩くなんて、小学生以来の出来事じゃないだろうか。今度は僕が呪われる番なのかもしれない。そんなことを思いながら、道の端や側溝に目を凝らす。相変わらず、何もない。あるのはコンクリートを割って咲く力強い雑草くらいで、本当に何もない。隅から隅まで綺麗な街だった。

美園の家まで、もう十分もない。

 景色は徐々に緑が増えてきて、畑なんかもちらほらある。建物全体が低くて、空が随分と広くなってきた。アスファルトの具合もかなり褪せて、路面標示は擦り切れている。

 ただ、そんな“ぼくのかんがえたド田舎”の中に、ひとつだけ目を引くものがあった。畑が並ぶ先に、こんもりと絵に描いた山のような杉林がある。

「あれ、何?」

「あれはね、八幡さま。他にも祀られてるらしくって、小さめの社殿と、祠みたいな社殿が並んでるところなの」

 さすが地元民、美園さまだ。

「そういえばね、あそこもいつも寄る!」

 アイスの棒を咥えて駆け出す美園は最高に男前だった。背負ったリュックの中身がガッチャガッチャうるさいけれど、そこは目を瞑ろう。

 僕たちも美園を追って走る。肺活量は部活で鍛えられているのだが、どうにも足があまり速くはない。それは篠原も同じようで、美園に大きく差をつけられていた。


 杉林が近づくと、日が傾いているせいもあってか、仄暗い気配でいっぱいなことに気付く。その中をずんずん進む美園は、相変わらず笑顔だった。

「美園、体力すごいな」

「わたし、中学生の頃は陸上やってたの」

 どうして辞めたかは聞かないことにした。杉林の中の笑顔が、それ以上聞くなと言っているようだったからだ。

「み、美園さん、すごい、ね」

 流石にバテた篠原が、息も絶え絶えといった様子でついてきている。

「うん、やっぱり。ここ、昨日も来たんだよ」

 美園が、八幡さまの社を背にして振り返った。両手には小さな社が三つ、杉林に埋もれながら並んでいる。言っていた通りだ。それにしても薄暗い。女子高生が夕方に好んで来るところではないように思う。何か願掛けでもしていなければ、僕だってなるべく寄り付きたくはない。

「ね。篠原さん」

 美園が笑った。小首を傾げて、同意を求めるように。

「な、に?」

 篠原も同じように小首を傾げている。やっぱり、笑顔で。

 ふたりの間に流れる不穏な空気を察せない僕ではなかった。何があったかは分からないけれど、いや、薄々察せてはいるのだけれど、信じたくない。

「わたしはここで、呪いの装備を手に入れた!」

 社の隣、小さな石造りの社の前で、美園は右腕を挙げた。まるで、レトロゲームのドット絵みたいに。でも、低い音は流れない。さわさわと風に揺れる葉音だけだ。

「ねえ」

 篠原の視線が、真っ直ぐ美園を捉えていた。それは、ぞっとするほど冷たい。

「もう一回教えてよ。ふたりは付き合ってるの?」

 予感が確信に変わっていく。あと、そういう事情だと、僕はどうしたらいいのだろう。

「付き合ってないよ」

 相変わらずの調子で答える美園に、篠原が苛立っているのがよく分かった。

「どうして学んでないの? 笑わないでよ。馬鹿にしてんの?」

「馬鹿にしてないよ。微笑ましいなとは思うけど……けど、ごめんね。わたし、いつまで経ってもこれだけは学べないみたいなの」

 そう言って、美園は笑っていた。

 小さな社の裏手に回り込んで、少しずつ杉林の中へ進んでいく。僕たちも少しずつ、杉林に踏み込んでいく。

 僕はもう、はっきりと確信していた。美園の止まったところに、彼女が横たわっている。

「また同じことをするの?」

「それは篠原さん次第じゃないかな」

「それこそ、呪いの装備じゃない」

 篠原が笑った。教室や部活中に見せるのと、同じ笑顔だった。

「呪いはどうしたら解けるの?」

「さあ、わたしも分かんないよ。だって、これだもの」

 そう言って、美園は足を止めて振り返った。血まみれの美園と、その足元に転がる、申し訳程度に土で覆われた塊。美園は被さった土を蹴り払って、うつ伏せのそれを蹴り上げて転がした。

 思っていた通りだった。そこに、メッタ刺しにされた美園が転がっていた。腹や胸を中心に、ナイフでとにかく滅茶苦茶に刺してある、どこの臓器を狙うわけでもなく、手あたり次第刺し散らかした、可哀想なほど醜い死体だった。腹部からは腸が少しはみ出しているし。うつ伏せにされたことで、無駄な血液は全て土に吸われてしまったのだろう。開いた傷口の奥、カスタードクリームみたいな色の脂肪には、小さな虫が食いついていた。

 さっき食べたアイスがせり上がって来るのを感じたけれど、ある程度予想していたからか、吐くことはなかった。

「ねえ、やっぱり死んでるよね?」

 呼吸と間違えるくらいか細い声で、篠原は言った。

「死んでるみたい。だから、わたしは幽霊なのかな?」

 幽霊にしては、しっかりしているなと思った。触った感触も覚えているし、アイスだって食べてたし、死体を蹴り上げることだって出来た。

「この死体のシャツと同じところ、呪われてるもんね」

 また、美園は笑う。

 僕はどうしようもなく悲しくなって、笑顔から目をそらした。

「幽霊でも、こうして体があるなら、同じことじゃん」

 吐き捨てるように言って、篠原はスクールバッグを放り投げた。バッグの口は開いていて、教科書やペンが飛び散る。それにも構わず、彼女は美園に歩み寄っていった。


 僕は篠原が何をしようと、どうなろうと構わなかった。美園が幽霊になってしまった今、僕たちの“作戦”がどうなるかにしか興味がなかったのだ。篠原が死体蹴りをしようが――文字通りを本人がやってしまったけれど。

 僕はずっと、誰かに殺されてみたかった。思春期特有の死にたい、みたいなものとは違う。もっと純粋な憧れのようなものだ。子供のころはよく死体ごっこをして怒られていたし、恨みを買おうとしたら単純にクラスからハブられた。あと、推理小説は被害者目線で読むから、冒頭と結末の辺りだけで済んでしまう。僕は僕の人生を誰かの手で強制的に終えたいのだ。自殺願望に近いものはあるけれど、自分で終わらせたくはない。あれは醜いと思う。僕は終わらせられることに憧れているのだ。

 そんなある日、廊下で教師にこっぴどく叱られている女の子を見つけた。美園だった。何を言われても笑顔、どんなに声を張り上げられても笑顔。それに煽られて怒りをヒートアップさせていく教師。まさに地獄絵図だった。だって、終わりがないのだから。どんな理由で怒られていたか分からないけれど、彼女は僕の中で殺される可能性の高い女の子ナンバーワンだった。運命の出会いだと思ったのだ。だから、声を掛けた。

 それから“作戦会議”は始まった。最初は、彼女の術をレクチャーしてもらう予定だったが、天性のものだと気付いて諦めた。ならば、せめて。

 僕が殺してくれと頼むと、美園はあっさりと承諾した。僕が面食らっていると、相変わらず笑ってこう言ったのだ。

「だって、こんなに殺されたがっている人から、殺される可能性ナンバーワンのお墨付きをもらってるんだよ? だったら、殺したってすぐ殺されるもん。それなら平気」

 僕たちはそれから、どうやって僕を殺すかについて話し合っていた。そんな矢先の出来事だったのだ、今日のことは。

 僕にとって美園は、女神さまのような存在だったのに。


「さっきも言ったでしょ? わたしは学べるの。笑顔で居続けない方法以外は」

 折り畳みナイフを突き刺そうとする篠原の手を押さえて、美園は言った。

美園はそのまま蹴りを太ももに打ち込むと、痛みに怯んだ篠原の手からナイフを奪う。そして、篠原の腹に突き返した。

「美園さん?」

 何が起きたかまだ理解できていないらしい。大きく目を見開いて美園を見つめる篠原は、その間に何度も何度も、きっと美園がやられたよりもずっと多くナイフを突き立てられていた。痛い、という隙も与えられずメッタ刺しだ。ギイギイと軋むような悲鳴だけが漏れているだけだった。

ぐずぐずとその場で崩れていく篠原を、僕はずっと見つめていた。


 飽きたように刺すのを止めた美園が、ようやくこちらを向いた。手には血まみれのナイフ。そして、これまで以上の血まみれ。新鮮な返り血で真っ赤に染まった彼女は、僕がずっと憧れてきた姿だ。この姿だ。この姿を僕は、篠原と同じように目を大きく見開いて、だらしなく口を開けて、崇めるように死んでいきたかったのだ。篠原が羨ましい、羨ましすぎる。そして、憎い。

「わたし、幽霊みたいだからね」

 美園が一歩、また一歩と近づいてくる。

「心残りがあるとしたら、これくらいなの」

 少し手を伸ばせば届く距離で、足を止めた。

「だから、作戦も要らないよ。叶えてあげられるよ、夢」

 ナイフを振り上げた。

「どうせなら、僕が初めてがよかったな。美園」

 太陽は、もう地平線に触れるくらいだろうか。じっと目を凝らさないと、美園の顔を見逃してしまう。

「処女厨みたい」

 美園が笑って、熱さに似た痛みが走った。何度も、何度も何度も何度も。そして僕は、痛みに目を見開き、口から声にならない悲鳴を上げる。

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茜より朱く ユリ子 @bon2noir

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