第十八話 大好きなお姉ちゃん

「……山を降りよう」


 それは苦渋の決断だった。

 俺が天涯孤独で、やりたいようにやって、出さなくていいちょっかいを出して死んでしまえばそれまでの話だ。しかし今は、自分以外、それも大切な人達ばかりを率いた状況で、死亡確率が高いと思われる行動に向かわせる決断ができなかった。


 そんな俺の言葉を聞いた皆のうち、何人かは安堵の表情を見せてくれる……、俺はそう思っていたのだが、まさかの全員が落胆した表情をしていたのだ。


「のうブリッツェンよ――」

「ここはあたしに言わせてください」


 殺伐……とまではいかないが、重たい空気が停滞するかなりの緊迫感が漂うこの場を、やれやれといった感じで師匠が動かしにかかったところで、取り繕うことを止めた素の言葉でエルフィが口を挟んだ。


「ブリッツェン、あんた弱くなったわね」

「俺が弱くなった? そんなはずはない。魔法だって以前より上手く多く使えるし、身体だって鍛えたから、剣だけじゃなくて槍もかなり使えるようになったし」

「そういうことではないの」


 エルフィの言葉に自分でも驚くくらい焦ってしまい、自分が弱いと認めないために、あれこれと『俺は凄いんだ』アピールをしだした。


「魔法や体術のことではないの。――あんたは心が弱くなったのよ」


 心が弱くなった? それは、今の決断のことを言っているのか? だったらそれは違う。皆を危険な目に合わさない為の最善策を口にしただけだ。

 俺一人じゃない、皆の命を尊重した結果を言うことは、心が弱くなったということなのか? それはおかしいだろ?


「冒険者学校で習ったわよね。敵前逃亡をしてでも、生きて帰ってくることが大切だと。そして、撤退の判断を下すのは非常に難しいと」

「だから、今が撤退の時だと俺は判断したんだ」


 ――もう一歩踏み込んでいたら死んでいたかもしれない。

 ――もう十歩進んだら仕留められたかもしれない。

 だがそれは結果論であって、不明な未来を予測するのだから、判断を下すのは難しいと言われているのだ。


「ブリッツェン、慎重と臆病は違うのよ」


 ちょっと待て! 俺の決断は慎重を期したのではなく、臆病風に吹かれたいうのか? それは違う! 断じて認めるわけにはいかない!


「姉ちゃ――」

「でも勘違いしないで。あんた自身は本当に強くなっているわ。それこそ、個としての戦闘力であれば、もしかするとシュタルクシルト王国で一番かもしれない」

「じゃー、ブリっちに勝ったらあちしが一番だー」……ゴツン!

「ジェニー、少し黙ってらっしゃい」

「痛いよディアナー」


 今の俺には、ジェニーにツッコむ余裕など皆無だ。


「でもね、指揮官としては全くダメだわ」

「でも、俺は指揮官じゃないし……」

「あんたは、自分が望む望まないに拘らず、すぐに領主となるのよ。領主とは多くの住人を束ね、その頂点に立つ者。多くの住人の命を預かり、守る立場でもあるの。でもそれは、先頭に立って戦うことを意味しているわけではないの」


 熱く真剣に語るエルフィから、俺は視線をそむけることができない。


「迫り来る外敵から住人を守ること。それができなければいけないの」

「……お、おぅ。だから、俺は無理せず山を降りようと――」

「もしここがあんたの領地だったら?」

「え?」


 エルフィからもたらされた唐突な質問に、俺は間抜けな声を出してしまった。


「領主とは、自分の領地を守るものよ。その守るべき領地を捨てて逃げる選択肢なんてあると思う?」

「でもここは俺の領地じゃない」

「そうね。だからこそ、あんたは”逃げ”を選択したの。今は逃げても大丈夫な状況だから」


 俺は”逃げ”を選択したのではなく、”安全”を選択しただけだ。


「でも、もしここがあなたの領地だったら?」

「それは……」


 どうにかして守るしかない。そのどうにかは状況次第で変わるし……。


「まぁ、そんな仮定の話は意味のないことよね。でもね、あんたは守ることと逃げることを混同している。今までは冒険者として自分一人の考え方で行動してきた。それでもシュヴァーンの皆がいて、あたしやエドワルダと組んで、少しずつ自分以外のことも考えるようになった。でもそれは、危険を承知で行動している冒険者達だけだったから。それが、冒険者でもない公爵家の令嬢であるシェーンハイト様が加わったことで、あんたは”危険を減らす”ではなく”絶対に守る”と考えるようになった。違うかしら?」


 どうだろう? シェーンハイト様を極力危険に晒さないようにしようとは思っていたけど、絶対に守るとは思って……いたかも。


「違わないと思う」

「そう。でもね、それは上に立つ者として間違いではないわ。この王国は、国王がいて貴族がいて平民がいてって感じで身分がある。下の者は上の者に絶対服従しなければならないのだから、あんたがシェーンハイト様を守ろうとするのは当然ね」

「そうだね」

「でも、そんな身分のお方を伴って伏魔殿に入ったからと言って、守るために何も調べずに帰る。それは正しいの?」


 問題が起こるよりはいいと思うけど……。


「あたしは、シェーンハイト様を連れてきた時点で、上の立場であることは変わらないけれど、仲間であるとも思っていたわ」

「シェーンハイト様を?」

「そうよ。――だから、例えシェーンハイト様に危険が及んでも、ブリッツェンがなんとかしてくれると思っていたの」

「買い被り過ぎだよ」

「そうだったのかもね」


 俺は多少魔法の能力に優れている自覚はあるけど、絶対の力を持っているなんておごった気持ちは持っていないつもりだ。


「それでも、ブリッツェンならどうにかしてくれると信じていたからこそ、危険を承知で進むと思っていたわ」

「個人的にはそうしたいさ。でも、俺一人ではない、皆の命がかかっているんだ」

「ここにいる皆は頼りない? あんたが守ってあげなければ、やられてしまうような人達ばかり?」

「そんなことは、ない、けど……」


 師匠が長年かけて培った経験は俺には無いものだ。ディアナやモルトケだって、俺より魔力が劣っていても、魔法使いとしての能力は俺より高い。ジェニー達も自力で戦い抜く力を持っている。姉ちゃんやエドワルダだって強くなって、常に俺が守ってあげる必要はない。

 そうだよ、ちょっとした軍隊よりよっぽど強いじゃないか。


「ブリッツェン、あたしはさっき言ったわよね。領主は上に立つ者だと。上に立つ者が皆の命を大事にするのは必要だけれど、戦う姿勢を見せ、相手を屠り、勇猛な姿を見せることも大事だと思うの」


 戦争が少なくなったとはいえ、いざとなったら領主は武勇を見せつける必要がある。安定した領地運営をするのも大事だが、勇猛果敢な姿を見せ、安心感を与えることも必要だ。なにせ、ここは平和な国日本ではないのだから。


「あたしは話しが上手ではないから、上手く纏めることができずにバラバラなことを言ってしまったかもしれないわ。でも、伝えたい事は只一つ」


 ここまで眉を釣り上げ、些か不機嫌そうな顔をしていたエルフィが、フッと一息つくと、笑顔とは少し違う温和な表情になった。


「小さく纏まらないで」

「小さく……纏まらない……」


 俺の独り言とも思える小さな声を拾ったエルフィは、再びきつい表情に戻る。


「そうよ。これから沢山の命があんたの双肩にかかったとしても、安全な方向ばかりを探して逃げるようなことはして欲しくないの」

「姉ちゃん……」

「常に前を向き、困難に立ち向かう、そんなあんたをあたしは見ていたいし、そうであって欲しいと思っている。それが一番あんたらしくもあり、最良の結果を残すと信じているから。これはあたしの我が儘なのかもしれないのだけれど……」


 偉そうなことを言って、結局は自分の我が儘なのかよ。……とは思わない。

 あの表情の変化は、姉ちゃんが心を鬼にして苦言を呈する中で、一言分だけ本音を見せてくれたんだ。


 俺は日本人時代に聞いた話を思い出した。

 人間は、同じ事柄でも考え方で全く違う感情を抱く。


 例えばボクシングのチャピオン。

 死に物狂いで頑張り手に入れたベルトを手放さないよう、より一層の努力をし、更に強くなる者。

 一方、手に入れたことで安堵して気が緩む者、または、奪われたくないとガチガチになり、攻めることが出来ずに守りに徹して結局奪われてしまう者。

 チャンピオンになったことで、更にやる気の出る者。逆に重圧に押しつぶされる者。手に入れた物は同じもののはずなのに、全く違う結果になる。


 例えば結婚。

 やっと手に入れた愛妻を幸せにしようと、時間を作っては愛を育み、新たな家族を手に入れ、幸せをより大きくする者。

 一方、少しでも良い暮らしをさせてあげようと寝る間を惜しみ、休日も返上して働き、たまの休みは身体を休ませることしか出来ずに家族と疎遠になる。

 どちらも愛する家族を思っての行動であっても、全く違う結末を迎える。


 このどちらも一例であるが、心持ち一つで全く違う結果や結末になることを教えてくれている。


 今の俺はどうだろう?


 皆は知らないが、俺は公爵家の人間になる。だから、妹となるシェーンハイトを死ぬ気で精一杯守る……とまではいかないが、”守らなくてはいけない”という強迫観念にかられていた気がする。いや、妹どうこうは関係なく、臣下として命令を全うしているだけかもしれない。

 そして、守るべき仲間も増えた。

 だがそれは、俺がそう思っていただけで、俺の勝手なエゴで、一緒に戦ってくれる仲間が増えていたのだ。


 俺は何様なんだ?


 トントン拍子でも無ければ、望んでもいないのに明るい未来が勝手に開けてしまった。それに対して、知らず知らずのうちに俺はそれを受け入れ、その上で胡座をかいていたのではないのか?

 そんなつもりはなくても、皆を下に見て、俺が守ってあげなければいけない、そう思っていたのではないのか?

 その挙句、皆を守るには戦わずに退くのが一番だと結論付け、撤退を示唆した。


 これが正解なのか?


 違うだろ!


 俺は第二の人生を楽しく生きたいと願った。

 魔法を隠して少し窮屈な時代もあった。アルトゥール様に自由の一部を奪われた。

 それでも、何だかんだ楽しく生きているじゃないか。

 そうだよ、だったら、これからも限られた範囲ではあるけれど、自由にできることは自由にやれば良いんだよ。

 姉ちゃん達に魔法を教えた。師匠をアルトゥール様に紹介した。魔法使い村の住人に開墾を手伝わせた。

 なんだ、俺ってば綺麗事を言ってる割に、あちこちの人を巻き込んで迷惑をかけているじゃないか。

 そうだ、今更綺麗事を言っても仕方ないんだよ。やりたいようにやれば良いのさ。

 でも、これだけは譲れないし忘れない。それは――


 ”俺に関わった、俺に迷惑をかけられた人々を幸せにしてやる!”


 ……ちょっと言い過ぎか? まぁ、最低限不幸にはさせないようにしよう。


 そうと決まれば、山を降りてる場合じゃないよな。それに、山を降りたら、魔物をシェーンハイト様達の場所に連れて行ってしまうかもしれない。それを危惧していたはずなのに、すっかりここにいる人達の安全ばかりを考えてしまっていたし。


 せっかく未知の生物と出会えるんだ、戦うかどうかは見てから決めるとして、最低でもてツラくらい拝まないとな。

 なにせ、俺には頼りになる仲間たちがいるんだ。俺一人では出来ないことも、皆で協力すれば大抵のことは何とかなるだろう。


 この考えは、俺が投げ槍になったのではない。本来、俺自身が持っていた考え方に回帰しただけなのだ。


「ブリッツェン」

「……ああ、ごめん」

「随分と長いこと考え込んでいたけれど、なんだか顔付きが変わったわね」

「姉離れの出来ない弟が、また頼りになる”大好きなお姉ちゃん”に導いて貰ったからね。本来の自分を取り戻せたよ。ありがとう、姉ちゃん」

「ま、全く、そろそろ姉離れをしてくれないと、あたしはいつまで経ってもお嫁に行けないわ」

「姉ちゃんは神に操を捧げたんじゃなかったの」

「じょ、冗談で言ってみただけよ」


 柔らかそうな頬を軽く膨れさせたエルフィの瞳は、聖女と呼ばれるに相応しい慈愛に満ちた優しさを湛えていたのであった。

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