ブログを書きたくなるときは、未来の私が突き動かされたときだ。

上の小枝の怠け者

ブログを書きたくなるときは、未来の私が突き動かされたときだ。

「私がブログを書きたくなるとき」を取っ掛かりに考えます。


 最初の一石を投じたのは、2016年9月。


 手頃にあった小さな石たちを、水溜まりに投げ続けて、1周年。


 当ブログへ投稿する記事のつぶては、小さな波紋をぽつりぽつりと起こしている。


 私は、何故、この石を投げるのだろうか?


 小さな波紋に問い続けて、未だ解を得ず、今日もまた投げる。


  


 はてなブログが6周年になったそうだ。


 その時に今週のお題が「私がブログを書きたくなるとき」だ。


  


 5周年の時のお題、「5年後の自分へ」でも記事をひょろりと書いた。


 6周年の記念にまたぞろひょろりと書こうか、と覗いたのがきっかけ。


「私がブログを書きたくなるとき」と提示されたお題が、妙に引っ掛かったが書こうと決めた理由。


 期間は遠の昔に終わったが、気にせず書いていく。


  


 この設問は、まず「ブログを書きたくなるとき」である。


 私がブログを書くときに、「書きたくなるとき」はない。


 気分の浮き沈みはあるが、毎日、記事を書くことが常態化している。


  


 例えば、「ブログを書きたくなるとき」を私の感覚で言い換えると、「ラーメンを食べたくなるとき」という質問をされているようなものだ。


 どういうときにラーメンが食べたくなるかと言えば、ラーメンが食べたくなるから、としか言えないではないか?


 スーパーのお惣菜や弁当、数ある外食店、その中で、あえてラーメンを選ぶのは、「食べたいから」以上の答えが見つからない。


  


 この設問には、重要な部分が抜け落ちている。


 即ち、「衝動」が前提にあることだ。


  


 この設問を、「ブログを書きたくなる(衝動が起きる)とき」と捉え直した。


 そう捉えると、はてなブログ運営がこの設問をした、という事実に、一つのブログの側面が見えた。


 それは、ブログには「衝動」で書く部分がある、ということだ。


  


 言いたいこと、伝えたいことがあるから、人は言葉にする。


 そして、「書く時代」とされ、SNSで皆、様々な気持ちや考えを発露している。


「書くこと」に多様性がある中で、あえてブログを選ぶのは、「書きたいから」という「衝動」があるのだろう。


 その衝動は、人によってまちまちだが、衝動故に、長くは持たない。


  


 ブログを続けられない人たちは、「衝動」で書いて、書いて、書き尽くして。


 言いたいこと、伝えたいことがなくなって、自身の中に「衝動」がなくなるのだろう。


 突き動かす事柄がなければ、自然、離れて行くのは、想像に難くない。


 そして、私の中にも、書きたくなるという類いの「衝動」は潰えている。


  


 このブログを最初期は、「衝動」で書いていた、と言って良い。


 実際、日に2、3記事を投稿している。


 私の中で溜まりに溜まった激情を吐き出すのに、ブログは私とすこぶる相性が良かった。


 しかし、3、4ヶ月辺りで、「衝動」は収まり始めていた。


 凡そ、平均して1000文字程度の記事を100記事、10万文字ほどで私の「衝動」は衰えてきたのだ。


 もう少し、足したとしても、文庫本1冊程度だ。


「誰でも1冊は小説を書ける」という弁を聞いたことがあるが、それは人を突き動かす「衝動」が収まるのが本1冊だということなのだろう。


  


「衝動」で書かなくなった決定的な時期は、カテゴリー「意味のない数字」で記事を書き始めた、2017年4月。


 約半年で、私の中から、「書きたくなる」という感情は消えた。


「衝動」の延長線上、「惰性」で書き続けている。


  


 書くこと自体の理由付けは何度もしている。


 気合いを入れて書くことも度々ある。


 それでも、「書きたくなる」といった「衝動」で書いてはいない。


  


 では、「衝動」でなければ、一体、何なのか?


 本当に「惰性」だけなのか?


 いや、「惰性」のその根っこには、「拘る」ことがある。


「継続する」ことに「拘る」ことが本質にあるのだ。


  


 私は1回に食べる量が多い方だ。


 しかし、1日、何も食べないときもある。


 対して、ブログは毎日、1記事、必ず書いている。


 三大欲求の一つ、「食べる」ことよりも「書く」ことの欲求の方が強いのだ。


  


 そこには、「今日も何かしら書こう」という意識が働いている。


 しかし、今まで何度も「今日は何かしら書けるか?」という日はあった。


 その時に「書かない」という選択肢もあっただろう。


 それでも、私は、「継続する」ことに拘った。


  


「継続する」ことに、執着をしているのだ。


 果たして、何に、執着しているのか?


 それは、「普通」であること。


 それは、「まとも」であること。


 それは、「私」の追求。


 それは、積み重ねた先を求めて。


 それは、「拘る」こと。


 それは、私の「怪物」を知るため。


 それは、私を許すため。


 それは、日常の何でもない、詰まらないこと。


 それは、確からしいこと。


 それは、「愛」や「正義」の意味。


 それは、それは、それは…


  


 何れも正しいが、違う気がする。


 何れもぼやけているが、核心に迫っている気がする。


 言葉が氾濫しているのに、手元には何一つ残らない、この不思議。


  


 私は、何故、この石を投げるのだろうか?


 この答えは、現時点にすると、奇々怪々な迷路で往生する羽目になるが、未来のある状況になったときなら、言えるかもしれない。


 即ち、「継続する」ことを私が必要としなくなったとき。


 書くことを辞めた、その後の未来だ。


  


 十分に、私が納得する「継続」だったと言える地点。


 そして、ブログを断絶した、その先。


「ああ、これは書かなければならないな」という事柄が巡り会えるかどうか。


 それは、喜ばしいことか、悲しいことか、苦しいことか、腹立たしいことか、嬉しいことか、楽しいことか、まるで分からない。


 分からないが、あえて、言い切る。


  


 ブログを書きたくなるときは、未来の私が突き動かされたときだ。


  


 十分だと、もう書かなくて良い、と断絶して、尚、書きたくなる衝動が、未来の私にあるだろうか?


 何せ、十分と言える地点を最低でも10年としているので、そこから先となると、枯れ果てているような予感さえする。


 それとも、死ぬまで拘り続けて、継続が途切れないかもしれない。


 拘る生き方をずっとしているので、途切れない方がある意味、現実味がある。


  


 意味があるのかないのか、仮定に仮定を重ねた、設問の答え。


 手元には詰まらない石が一つ。


 自意識の渦を起こす水面に、弧を描くように放り投げた。


 どぷん、と音を立てて、いつもより大きめの波紋を起こした。

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