この世界であなたと一緒に

霜野 尹沙

1話,前代未聞

 彼は高い丘に立っていた。吸い込まれるような真っ青な空に真っ白な入道雲が光っている。じりじりと照りつける焼けるような太陽の陽射しの下、青々と茂る草木が目に鮮明に焼き付く。丘のふもとの大きなポプラの木が緑に陰を落としている。まわりには赤褐色の屋根が群がっており、何枚もの瓦屋根が海の水面と共にきらきらと反射していた。手にじっとりと汗がにじむ。

 彼は自分の故郷を見下ろして言った。


「ただいま」




┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈



 人の話し声がする。


「......そう、そうなんだよ。そんなとこに倒れてちゃ気が気じゃなくてね」


 声からして歳をとった女のようだ。衣擦れの音がした。


「へぇー、それでどうやって運んできたんだい?」


 相手の方も同じくらいの女だろう。


 ぱちぱちと火のはぜる音が聞こえる。暖炉だろうか。


「いやぁー、私なんかにゃ男を担ぐなんてどだい無理な話さ。それで旦那を呼んで抱き起こしてもらったらまあなんともう一人いたんだよ」


「そうだったのかい。まったく、恐ろしい話だねえ」


「本当だよ。何があったか知らねぇけど、あんなとこにほっぽり出されてたらいくつもしないうちに死んじまうよ」


「まあ、本当にそうだよ。それにしても、変わった子達だねえ」


「そうなのよ。こんな髪の色、あまり居たもんじゃないよねえ」


「どっかの奴隷かしら」


「見世物にされていたのかもしれないねえ」


「ひどい話だよ」




 バリ━━━━━━━━━━ン ガシャン



 突然つんざくような音が聞こえた。


 彼ははっと目を開いた。


「まあ、やだねえ」と言う女の声が聞こえた。


 彼は皿が割れた音だと気づくのに少し時間がかかったようだ。何度か瞬きをしてから肘をついて上体を起こした。


「あら、起きたのかい?」


 右手には七十くらいのお婆さんが二人座っていた。

 暖炉の前の床に寝かされていた。お婆さんの後ろには扉があって部屋がもうひとつあるようだった。窓を見ると、周りには木々が見えるが裸になった畑と凍りついた草木のせいでとても殺風景に見えた。畑の向こうには海が見える。海だけはきらきらと光って生きているようだった。


「具合はどうだい?」

 彼はお婆さんを見た。この声を聞いてこのお婆さんが先程話していた、自分を拾ってくれた人なのだろうと思った。温かみのある優しい声をしている。もうほとんど白くなった茶髪混じりの髪を後ろでまとめ、赤い刺繍の入った厚手の肩掛けを膝に掛けていた。


「あんた、『日照りの丘』で倒れてたんだよ。いま、チョコレートミルクを持ってくるね」


 皺だらけの顔を見ると彼女がよく笑う人だとわかる。歳をとってもその青い目は絶えずなにか面白いものを探すかのようにきらきらと光っていた。


 立ち上がった彼女に彼はたずねた。


「あの、ここってどこですか?」


 初めて声を発して自分の声が掠れてほとんど出なくなっていることに気づいた。喉に手をやり咳払いをする。


 すると、彼の手をもう一人のお婆さんが掴んだ。


「だめだよ、そんなことしちゃ。こんなに掠れてるんだから喉を治したいんだったら傷付けないようにするんだよ。はちみつミルクの方がいいよ、あんた」


「ああ、そうみたいだね」

 そういうと、今度こそお婆さんは行ってしまった。


 彼は、もう一人のお婆さんを見た。少し棘のあるような声質だった。きつく

後ろで結ばれた髪の毛を見るからに、厳格な人なのだろう。


「あんた、ここはどこかってきいてたね。ああ喋らなくていいよ。私が勝手に説明する」


 手を前で降って彼女は微笑んだ。厳しい人なのだろうが、その眼鏡の奥で光る黒い瞳には優しさがこもっていた。


「ここはね、港町のデベリットって街さ。もう何年もこの街に住んでるがね、日照りの丘だけは絶対に行かない方がいい。あそこで倒れてたお前達は本当に運が良かったんだよ。今日ターニャがあそこに行ったのはね、ああ。さっきのがターニャであたしがジェシカ。それでねえ、ターニャは今日家出したのさ。旦那の作ったチーズがいつも不味いって言ってね。それでターニャの旦那が急いで探しに行こうとしたら向こうから戻って来たってもう笑い話さ」

 ジェシカは楽しそうに笑った。


 すると、ターニャが戻ってきた。両手でコップが四つ乗ったお盆を持っている。


「ちょっとジェシカ、そんな話しないでよ」明らかに機嫌が悪い。「全部聞こえてたんだから」


「あら、そりゃあ悪かったね。それより、お前さん」ジェシカは悪びれた様子もなく謝ると、また彼に視線を戻した。「あんたの連れ、全然目ぇ覚まさないけど。大丈夫かい?」


 彼は「連れ?」と唇だけ動かした。心当たりがないようだった。首を傾げながら左に体を捻ってみる。


 ひゅっと息を呑む音が聞こえた。左で寝ている男が目を覚まし、彼を凝視していたのだ。


「誰だ...?お前」

 彼はかすれた声で男に言った。


「それは...こっちのセリフだ」

 同じく、かすれた声で男が返してきた。


「あらあら、向こうも起きたみたいだね。よかったよかった」ターニャが歓喜の声を上げた。「さあさあ、あんたの友達も目を覚ましたしチョコレートミルクでも飲みな」


「友達?」

 彼はターニャから差し出されたチョコレートミルクを男に手渡しながらまた首を傾げた。


 男も起き上がり、手渡されたコップの中を覗いている。


「ターニャ、はちみつミルクって言ったじゃないの」ジェシカはコップの中を見て呆れたようだった。


 ターニャは肩をすくめた。

「無かったんだよ、はちみつが。それにあたしはチョコレートの方が好きだよ」


「あんたの好みを聞いてるんじゃないよ。あたしは、この子達のことを考えて言ったんだよ」


 険悪な雰囲気になりつつある。彼はチョコレートミルクをひと口飲むと、

「温かくておいしいから別にこっちでいいですよ」と言った。


 男の方は何も言わずごくごく飲み干してしまった。


「そうだろう?あんたもチョコレートが好きかい?」

 ターニャは嬉しそうに笑った。

 ジェシカは呆れたように肩をすくめて言った。


「そう言えば、あんた達どうしてあんなとこで倒れてたの?」


 彼は男の方を見た。男はコップを置いて、何かを考えているようだった。

 彼は口を開いた。


「俺は何もわからない。何かをしていた気がするんです。でもなにも思い出せない」


「自分の名前も?」


「自分の名前。俺の...名前は」

 彼は考えたがなにも出てこなかったようだ。「なんだったっけ。お前はなんて名前なんだ?」と、男にたずねた。


「わからない」


 そう言うと彼はまた黙って俯いてしまった。


「お前、俺と一緒に倒れてたらしいぞ。なんでか分かるか?」


「わからない」男は俯いたまま答えた。


「まあ、名前も覚えてないんだもんな」


 彼は少し笑った。愛想笑いのようなものだったが、彼が初めて見せた笑顔だった。しかし、男は顔も上げずに「ああ」とだけ言った。

 彼はこの返事を聞いて別に気分を損ねた訳でも無かったが、お婆さんは俺たちのことを友達って言ったけどこんなつまんない奴と友達だった訳がない、きっと赤の他人なんだろう、と考えた。


「そうかい、あんた達なんにも覚えてないんだねえ」ターニャのきらきらした青い目が曇っていた。「なにがあったのかわかるといいんだけど」

「やっぱり、奴隷だったというのも一理あるんじゃない?」ジェシカはあごに手を添えた。「主人が、捨てた時になんとかして記憶を消した、なんてことも有り得るんじゃないの?」

「最近、そういう薬も今は多いからねえ」ターニャは心配そうな目つきで彼と男を見つめた。「うーん、見たところ同い歳くらいかしら。顔も似てるし、兄弟とか双子の可能性もあるわね」


 彼は改めて、男を見つめた。こんな奴と同じような顔とは思いたくなかった。一番最初に目に付くのは髪だ。おしゃれな奴なのだろう。派手という訳ではないが所々青いメッシュが入っていてすぐ目に付く。無造作に伸ばされた前髪は編み込みでゆるくまとめてある。肩まである髪の毛は、長さはばらばらだがゆるくウェーブをかけてある。天然パーマなのかもしれない。考え事をしているせいか眉間に皺がより、目は細く鋭い。どこへ行っても女にもてはやされ、男に妬まれたであろうと推測できる顔立ちだ。着ているのは、襟のついたメッシュ素材の青い上着で、中に同じくメッシュ素材の白いTシャツを着ている。上着はチャックが首まで付いていて凝ったデザインだ。背中にはなにか文字が書いてある。はっきり言って男にはあまり似合っていない。


「服装も同じだし、奴隷だったというのが1番しっくりくるねえ」ジェシカが言った。


 彼は布団をめくってズボンを確認した。男の着ていた上着と同じデザインの青い短パンだ。しかし、彼自身は青い上着は着てはいなかった。なぜか、白い半袖のTシャツだけだ。どうして、同じ服を着ているのだろうか。本当に奴隷だったとしても、服が綺麗過ぎる気がする。ただの偏見なのかもしれないが、奴隷というと薄汚いボロボロの服を何日も洗濯せずに着ているイメージがある。しかしこの服は多少汚れていても白い部分はきれいな白で、鼻を近づけると柔軟剤のいいにおいがする。毎日洗われている証拠だ。


「いいや。奴隷ではないかもしれないよ」ターニャが少し嬉しそうに言った。


「なにかわかったのかい?」ジェシカはまとまりかけていた話が急に振り出しに戻ったので、少しむっとしたようだ。


「この子達、服の背中に何かを書いてあるだろう?もしかしたら...」


「あんた、もしかして訓練学校の子だと思ってるんじゃないだろうね」ジェシカがさえぎった。その表情にはなぜか焦りの色がみえる。


「その可能性が高いんじゃないかって思ったんだよ。あの子達、学校によって同じ服着たり背中に名前書いたりしてるじゃない」ターニャが弁解するように言った。


 彼はこの話を聞いて、奴隷より訓練学校の生徒だった可能性の方が高い気がした。


「じゃあ、その背中に書いてある文字の学校を調べればいいわけね」


 ジェシカはあまり本気にしていないが試す価値はあると思ったらしく、彼に近づいてきた。

「ちょっと後ろを向いて」

 彼は素直に後ろを向いた。

 背中からジェシカの声が聞こえる。


「...ん?こんな文字知らないわ。ターニャ、あんたこれ読める?」


「どれどれ...。読めないねえ。何語かすらも分からないじゃない。こんな文字存在するの?」


「本人だったら読めるかも」ジェシカはそう言うと、俺の肩を叩いた。「あんた、連れの背中の文字読んでごらん?」


 彼は男に「後ろ向いてくれ」と言った。男は顔を上げると、何も言わず後ろを向いた。


「霞の学園 高等部 二ノ宮...うわ、難しい字だ。と、戴暉?」

 彼は男の背中に書かれた文字を全て読んだ。


「あんたには読めるのね。やっぱり存在する字だったってことだ。57ヶ国語学んだ私たちが知らなかったってことはあんた達がいたとこはへんぴなとこだったんだろうね」


「...知らないですけど」彼はむっとして答えた。自分の知らない言葉だからと酷い言いぐさだ。この人達は世界に言語はいくつあると思っているのだろうか。まさか57で足りると思っていたのだろうか。よく知らないが多分百個くらいあるだろう。


「まあ、ターニャったら失礼ね。悪かったね、ターニャは言った後に自分の言葉の意味に気づくから、本当に困るんだよ。まあ、これで情報を得たわけだし調べてみようじゃないか」


 ジェシカはターニャの言葉をしっかり弁解して机の前に座った。

「ちゃんと調べるにはこれだよね」と言い、透明な板に触れた。すると、指が水に触れた時のようなさざ波が立ち、金色の光が文字を象った。


〈 貴方に私がお教えしましょう〉


「プレパナ、霞の学園って知ってるかい?」


〈 ...カスミノガクエン・検索結果は0件です〉


「え?霞の学園だよ?」


〈 カスミノガクエンに関する情報は取得出来ませんでした〉


「霞の学園ってもしかして、存在しないのかい?」


〈 どの国にも霞の学園と言う正式名称の学校はありませんでした〉


「はぁ...。わかったよ、ありがとう」


「霞の学園はないってことかい?」ターニャが首を傾げた。。


「どうやら、そうみたいだね」


 ジェシカは首を振った。こうなったら考えられることは文字を読んだ彼が嘘をついているということだけだ。理由はわからないが、読めないが読めるふりをして適当なことを言ったのだろう。


 ターニャも同じように考えたらしい。頷くと彼を睨みつけて言った。


「あんた、あたし達に嘘ついたね?」


「は?」彼はびっくりしたようで、何のことかわからないという顔をしている。


「とぼけんじゃないよ。読めるとか言って嘘教えたんでしょ?」ジェシカも彼

を睨みつけた。「プレパナはこの世界のすべてを知ってるのさ。そのプレパナが知らないって言うんだ。霞の学園はこの世界にない学校なんだよ。あんたが嘘をついているとしか考えられないじゃないか」


 彼は戸惑って俯いた。お婆さん達は部屋を出ていってしまった。


 彼はため息をつくと、後ろを向いたままあぐらをかいている男の背中を見た。背中にはおしゃれな凝った字で〈KASUMIno〉と書いてある。なぜ嘘をついていると思われているのだろう。すると、文字が揺れだした。男が笑い出したようだった。


 彼は男が心配になった。さっきからあまり喋っていない。頭がおかしくなっているのかもしれない。


「ねえ、大丈夫?」


 話しかけると男は振り向いた。


「あははっ、お前も大丈夫?」


 すごく楽しそうな顔だ。こんな顔で心配されたくない。


「なんで俺の心配するんだよ」


「いや、ひひっ、大丈夫かなって思ったから」


「なんでそんなに笑ってんの?」


 男は急に真面目な顔になった。

「楽しくないのかよ。お前がやったようなもんじゃん?」


「え?どういうこと?」彼は男の急な言葉に戸惑った。


「は?違うの?」男も彼の言葉に戸惑っているようだった。


「俺がお婆さん怒らせたってこと?」


「そうだろ?」


「違うよ。本当のこと言ったのに俺のこと嘘つきとか言って向こうが勝手に怒ったんだよ。聞いてたんじゃないの?」


「わざとかと思ったんだよ」彼は頭をがしがしと掻きむしると体の向きを彼の方に向けた。「お前、記憶が無いとか意味わかんねえ嘘ついてあのばばあ騙してんのかと思ったんだよ」


「え?」一瞬彼は戸惑った。「記憶あるの?」


 男は怪訝そうに彼を見た。

「あるだろ。...ないのか、お前は」一瞬の間を置いて男も理解したようだった。


「ねえ、俺たち友達だったの?」彼は一番気になっていたことをきいた。


 彼は眉間に皺を寄せた。

「あー、友達じゃなかったよ。お前は俺のこと大嫌いだった。でも、色々あって一緒に行動させられてて気が付いたらここにいた」


「へえー、嫌いだったのか」彼は男を最初見た時の第一印象があまり良くなかったのでたしかに嫌いだったのかもしれないと思った。でも、今こうして話していると先程感じた嫌悪感はなくなり、悪いやつじゃなさそうだなと思い始めていた。あまり嫌う想像ができない。


「まあ、今は全然嫌いじゃないから」 そう言って笑った。


 男はさも可笑しそうに笑った。「わかったよ。あ、俺の名前はとうき。おまえの名前はほおり」


「とうきで、俺がほおりね。わかった」

 彼は、とうきと自分を指さして確認した。



「じゃあ、早速なんだけど、こっから逃げるぞ」とうきは笑顔のまま言った。




 1時間後-


 彼らのいた部屋には、太陽のように光り輝く髪の毛の女と対照的に月の無い夜の暗闇のように真っ黒な髪の女がいた。


 太陽の髪の女が言う。

「行ってしまいましたわね」


 暗闇の髪の女は心配そうに首を傾げた。

「女神の餞別を受け取らないで行くなんて前代未聞ですわ。追いかけましょうか?」


「いいえ」太陽の髪の女が言う。青い瞳がきらきらと光る。「あの子達、必要なものはちゃんと持って行ったみたいですわ」


 暗闇の髪の女は部屋の机を見てまあ、と驚きの声をあげた。そこあったはずのプレパナは消え、もうひとつの予備用も消えている。部屋の周りを見渡すと、所々無くなっているものがある。


「これは酷すぎますね」


 そう言う彼女の黒い瞳は星の下で煌めく海のようにきらきらと楽しげだった。


「本当に酷すぎます。わたくし、ひどく楽しみで楽しみで仕方ありませんわ」

太陽の髪の女は部屋を歩き回った。部屋は、荒らしたというより必要なものだけ取っていったようだった。


「そうですわね。こんな楽しげな勇者は前代未聞ですわね」


 暗闇の髪の女の足元には紙が落ちていて、『 じゃあなババア』と書いてあった。


「ねえ、ジェシカ。わたしくし、あの子達大好きになってしまったかもしれないわ」太陽の髪の女は机の上に乗っていた『 お世話になりました』という紙を彼女に見せた。


 暗闇の髪の女も頷いた。


「わたくしもよ。ターニャ」


 そう言って床に落ちていた髪を手にとった。


 二人は微笑むと手から炎を上げて同時に燃やした。


「ああ。邪魔したくて邪魔したくて仕方がないわ。今すぐにでも会いに行きたい」


「そうですわね。運命が許すのならばあの子達と共にしたかったですわ」


 二人の女神は、彼らの出ていった窓から寂しそうに海を眺めた。

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