序章 審議中

 てんかいと人間界の間にわだかまりができていく百年過ぎただろう。てんじんごうまんだったのか、人間がよくふかだったのか。今ではもう分からない。いや、あのころからだれも分かっていなかった。始まりが何だったのかすら、誰も知らない。

 ただ、天人が人間を下等な生物と見下したあの時から、人間が天人をらえてものにしたあの時から、すでに始まっていたのだろう。


 天と地では幾度もせんたんが開かれた。幾度も、幾度も、何百年も。

 しかし、けん折れるまでき進むのはいつも人間で、天人はそこに理由をいださなかった。羽虫が群がってざわりだから散らす。その程度の気持ちでしかなかった。だから、先制攻こうげきけることはまれで、戦端を開くは人間であり、天人はそれをようしやなくせんめつした。

 人間は天人をにくんだが、天人はそうではない。憎むほどの相手として人間を見てはいなかった。害虫としてうとみはしても、ぞういだく必要すらない。それほどに、人間と天人の力の差は大きかった。

 そして、その傲慢さを人間は許せず、天人はその傲慢さゆえに人間におのれと同じ心があると思わなかった。それは人間も同じだったのかもしれない。人間も天人を同じ命としては見なかった。異質なものと、自分達と異なる何かとしてしか見なかった。

 たがいが互いを命とにんしき出来ず、いがみ合いと呼ぶにはあまりに力量差がありすぎた。


 かつて神とは、天人の祖である天神ただ一人だった。

 しかし、いつしか人間は独自に神を持った。人間は願った。雨でもほうじようでも、人の生死ですらなく、天界のめつぼうだけをひたすらに。

 願いのしようちようとして生まれたせんとう神を、人間はしんこうした。数ではあつとう的にまさる人間においての神はじよじよに力を増していき、にんげんしんはやがて天界をおびやかす存在となっていった。

 いつしか天人は、その長い生の中で人間とのいくさいた。ただの害虫駆じよとして羽虫をはらう作業をもくもくとこなすだけとなり、その作業にも飽き始めた。

 いくとせも幾年も飽きもせず、同じようにめてくる人間相手に欠伸あくびをしながら、徐々に力を増していく人間神など気にも留めず、天界は今日も平和だった。


 かくいう私もその一人だ。戦場に参加していたのは、もう優に百年以上前の話だ。天人は寿じゆみようが長い。天神に近しい者達は千も二千も生きている。私はまだ三百歳ほどのじやくはいではあるけれど、それでも人間に比べればうんと長い。

 見目は、一度通り過ぎた段階であれば好きな時期を選べるので、一番身体からだが動きやすい若者の身体を使っている。幼すぎると小さく不便で、老いすぎると動作がかんまんになってじれったいからだ。そう考えるのは私だけではなく、成体か成体との境目の身体を使っている者が多い。


 のんびり天上の街を歩く。今日もいい風がいている。

 朝焼け色のかみを風に流して、私はほくほくとふところに入れた箱を服の上からさわった。

 ああ、長かった。ようやく手に入れた。ずっと、もう十年も、節約して節制して、めに貯めてこうにゆうしたかいちゆう時計。

「ルタ、喜んでくれるかなぁ」

 ちょっと表情にとぼしい赤いひとみを思いかべて、私はふふっと笑いをこぼした。

 ルタは私のだ。

 戦場をはなれて、後はもうのんびり生きようと思っていた頃、道を歩いていたらいきなり弟子入りしたいと言ってきた幼体がいた。

 黒髪に赤い瞳が印象的な大層美しい少年はルタと名乗り、が非でも私に弟子入りしたいと言いつのった。最初は断っていたけれど一向に帰ろうとせず、雨にれた幼体をほうり出すこともできないまま招き入れてしまった。そしていつの間にか住みついてしまった彼に根負けして、ついにはわれるままに弟子にしてしまった。

 何故なぜひどく常識知らずで、羽のい方すら知らなかった彼にほだされたというのもある。

 どうやら幼体の姿を取っているわけではなく、しようしんしようめい幼年期だったらしい子どもを一人で放り出すのも気が引けるし、生活習慣を覚えるまでは、または彼が飽きるまではと弟子にしてみた。どうせ後はのんびり余生を過ごすだけのつもりだったから、それまでのひまつぶしになればいいと思っていたのだ。

 しかし、ルタはとてもゆうしゆうだった。

 とてもどころではなく、おそろしいほどに優秀だったのだ。彼は、あっという間に私の手には負えない力を発揮してしまった。この間三年ほどだ。


 何故か本能的に知っているはずの羽の仕舞い方から飛び方などという、世間知らずの雲入りおじようさまでも知っていることをさっぱり知らないのに、それ以外はおどろくほど優秀な子どもに、私はあわてた。

 その頃にはすっかり情が移ってしまった弟子の将来を考えると、これではいけない。もっとちゃんとした場所で、ちゃんとした人に弟子入りさせるべきだ。私でめんどうを見られるはとっくに覚え、天立図書館で上級術の本を借りてきて一人で練習する彼の小さな背中を見て、私はそう決めた。

 その日から、彼のしよう探しと私の節約の日々が始まった。


 ルタ程の実力を持った者を教え導ける存在となると、上位天人だけだ。上位天人は長い時を生きている者ばかりで、少し性格に難がある事が多い。そして、とても自由なのだ。その中で、かくてき心優やさしくおだやかで、横暴ではなく、手が早くない者を探した。もちろん、彼の力をちゃんとせいぎよできて、導いてくれる者。なおつ彼を家族のようにいつくしんでくれる者。

 探した。それはもう探した。ほかの人にたくそうと決め、ルタにそう伝えたのが出会ってから三年後。探し始めて十年。この探しっぷりを分かってほしい。

 条件をやわらげなければおのずとしぼられるせんたくの中で、返事が来るまでこれまた気が長い天人ばかりで、五年前に送った手紙の返事がようやく十日前に届いた。その日にルタと話をして、彼の元へ弟子入りすることが決まった。

 だから、ルタとは今日でお別れだ。

 さびしいけれど、これがルタのためだと思うから、笑ってお別れできる。あんな優秀な弟子を持てただけで幸せだ。可愛かわいいあの子の為なら、私は何だって出来る。おおでもでいをかぶるなんて訳もないし、つないでいた手だって笑って離せる。

 それでもやっぱり寂しいなとしようしてもう一度箱をでた。

 これは、表情に乏しいルタが、初めて目をかがやかせて見つめていた懐中時計だ。真夏の雲より真白いふたを開けると、時計の中には空が広がっている。時計の針と共に色を変えていく空と雲に、ルタはめずらしく子どもみたいにれていた。買ってほしいとは言わなかったけれど、私が用事を済ませるまでずっと見ていたし、帰りぎわにも視線を向けていたのを知っている。その場で買ってあげたかったけれど、ちょっとした家を買えるくらいのお値段だった。確かにそれだけの美しさがある。

 私は、ルタへのせんべつにこれを買おうと決めた。店主に事情を話し取り置いてもらって十年。天人の気が長くて助かった。

 おかげで貯金はすっからかんだけど、まあなんとかなるだろう。私のちよちくを知っているルタが受け取らないかもしれないことだけが心配だけど、これが師匠としてあの子にしてあげられる最後のこと……いな、もしかしたらゆいいつだったのかもしれない。


 小さな庭と小さな家。両親がのこしてくれた唯一の物。ああ、ここにただいまと声をかけて帰るのは今日が最後なんだとめる。でも、本当ならもうとっくに終わっていた日々をあたえてもらったのだ。その弟子のかどを喜べなくてどうする。私は努めてだん通りの声を出した。

「ルタ、ただいまー。ごめんね、おそくなっちゃった」

 せまい家だから、げんかんを入るとすぐ奥にリビングが見える。テーブルの上には、昨日から用意を始めていたごちそうが所狭しと並んでいる、はずだった。

「あれ?」

 テーブルがたおれている。勿論、その上にっていた食事もすべゆかにぶちまけられて、とうてい食べられるものではなくなっていた。見た目にもこだわって、色取り取りにかざり付けた料理だったのに、全て混ざってしまえばただ床をよごきたない色だ。

 しかし、私のはもうそれを見てはいなかった。

「ル、タ……?」

 狭い家だった。

 狭いはずの家の中に、数万をえる人間がいるなんてことあり得ないはずだったのに、どれだけ視線を送ってもかべが見つからない。いつの間にか背後のとびらが消えていた。目の前には武装した人間がずらりと列を成している。その向こう、はるか遠くにまでその列は繫がっていた。

 そして、私の胸をつらぬくそのけんは、成長に合わせて大きくしていったルタの。

「ル、タ」

 ごぼりと口から血がき出す。せめて剣の持ち主がルタじゃなければいいなと思ったのに、そこにいたのは、見慣れた、すっかり成長して成体となったルタだった。

 つゆわたったようななめらかな黒髪に、生命の色をめた赤い瞳。

 剣を伝って流れ落ちる血は、つばさえぎられて床にしたたり落ちていく。ルタは、いつものように感情に乏しい瞳で私を見下ろしている。なかなか背がびなかったルタも、六年ほど前からぐんぐん背が伸びてあっという間に私を追いした。

けがらわしいてんじんが、われらが王の名を呼ぶな!」

 いつの間にか後ろにいた男が私の身体をり飛ばした。胸にさっていた剣がけ、床にたたきつけられる。痛みは思ったよりなかった。ただ、ずるりと抜けるかんしよくが不快で思わず顔をしかめる。

「王……?」

 この人間は酷く不思議な事を言う。天人である彼が人間の王であるはずがない。そもそも、人間界の王はその血を絶やしたと聞いた。だって、私が王とおうを殺したのだ。その子どももいつしか死んだと。だから私は戦場から、私の戦場から、身を引いたのだ。

 何故人間がてんかいにという疑問は、もうどこかへ飛んでいっていた。血が止まらない。床がどす黒く染まっていく。ルタといつしよに選んだしき。あなたの眼によく似た可愛い花がいた、お気に入りの。ルタ、ああ、ルタ。私の可愛いルタ。

「我らが神がお与えくださったのだ。王を天人として生まれ変わらせ、天と地を繫ぐ道を!」

 もう、男の言葉が理解できない。ルタ。私の、ルタ。一人ぼっちだった、私の弟子。

 ルタは血が滴り落ちる剣をだらりと身体の横に下げたまま、私を見下ろしている。

「……何故、両親を殺したのですか」

 両親、両親。言葉が、単語が、ぐるぐる回る。男の言葉はもう理解できなかったけれど、ルタの言葉だけは必死に拾う。両親、両親。にこりと微笑ほほえむ、私の両親。

「私の、両親、は」

「お前のではない! 先代国王陛下と王妃様だ!」

 男の声が、うるさい。

「あなた、たち、が、ものと、し、て、城、で、殺した、でしょう?」

 天界にはない草花が好きでよく地上に降りていた母。危ないからと私は連れていってもらえなかったけれど、父はいつも一緒にいて。お父さんとお母さんは私を置いてデートしてるんだとほおふくらませて待っていた。いつも待っていた。そうして、いつまでも、待っていた。

「だか、ら、ごめんね、ルタ……会わせて、あげられ、ないの」

 ごめんね、ルタ。私、しようなのに、ルタのお願い聞いてあげられない。ルタ、どうしよう。私、な師匠だけど、あなたの為に何をしてあげられるのかな。何ができるかな。できること、後、何が残ってるかな。

「ルタ……ルタ……まってて……ちゃんと、すごい、人、さがして、くる、から。ルタが、りっぱに、成長、できるよう、に、ちゃんと、見てくれる、優しい、人、さがして……ルタ……だから……」

 羽のい方を知らなかったルタ。一緒におに入って一枚一枚洗ってれいにしてあげている間、身体からだをがちがちにこわらせていたルタ。温かい風で一枚一枚乾かわかしてあげている内に、いつの間にかねむってしまったルタ。一緒のベッドで眠り、目を覚ました時には床に額をつけて無礼を謝罪したルタ。

「ルタ」

 めつに笑わないルタ。真面目まじめなルタ。がんなルタ。口数少ないルタ。

「ルタ」

 料理もせんたくも手を抜かないルタ。出会った記念日にと毎年私が作るへたくそなケーキを残さず食べてくれるルタ。背が伸びてつんつるてんになった服にとんちやくしないルタ。無理やり連れていった衣服店で、師匠のふところ事情にこうりよしまくった服しか選ばないルタ。

「ルタ」

 我がまま一つ言わないルタ。とつぜんごうで雨宿りした身体がひどく冷え、かちかちと歯を鳴らすほど寒がっていたのに弱音一つかないルタ。熱を出しても一言も言ってこないルタ。

「ルタ」

 ずに看病した晩、私の手をにぎって、ありがとうと小さく泣いたルタ。

 ルタ

 ルタ

 ルタ

 一人ぼっちだった、私の

「しあわせに、なって」

 一人ぼっちだった私の、ルタ。



「そうして、人間王は天界をほろぼしました。これでもう、天から気まぐれに落とされるらくらいで命を落としたり、美しい人間が連れ去られたりすることはありません。彼のおかげで、地上に平和がおとずれたのです」

 めでたし、めでたし。やわらかいろうの声でしめられた物語に、子ども達はわぁっと声を上げた。いくも幾度も読みこまれた絵本は、背表紙がずれ、表紙はめくれ上がるほどがたがただ。それでも老婆は宝物のようにそっと本を閉じた。

「王様ってすごいんだなぁ!」

「おれ、大きくなったら王さまになるんだ!」

 きゃあきゃあと子ども特有のかんだかい声を上げて目をかがやかせる子ども達は、本を読んでくれた院長先生の周りを飛びねた。院長である老婆もまた、おだやかなこわと同じほど柔らかなひとみで子ども達に微笑んでいる。そんな老婆のすそを引いた少女は、舌っ足らずな声で聞いた。

「ねえ、ねえ、いんちょーせんせ! おうさまは、そのあとどうしたの?」

「王様はね、最後の王族であり、最後の天人であるがゆえに、その後は国政にかかわらず、ずっとしん殿でんで過ごされていますよ」

 興奮して飛び跳ねたひように乱れた少女のかみきながら、老婆はやさしく微笑んだ。子ども達は飛び上がっておどろく。

「え! 王さま生きているの!?」

「ええ、千年前からずっとご存命ですよ。何故なぜなら、天人は寿じゆみようがとても長い上に、今では神の領域に達していらっしゃる方ですから。でも……世界でたった一人の天人ですから、あまり周囲と関わり合いになられないそうです。きっとおさびしいでしょうね」

 王様可哀かわいそう……そんなしんみりした空気の中、盛大にはなすすった子どもがいた。私だ。

「ぞんなにょあんまりだ、ぞんなにょあんまりだぁ!」

「まあまあ。アセビ、どうしたの? あらあら、そんなに泣くと、またたおれてしまいますよ」

 優しい院長先生のふくよかな身体にきしめられても、ごうきゆうした私は泣きやまなかった。

 だって、あんまりだ。そんなのあんまりじゃないか。一人ぼっちのルタが一人じゃなくなればいいと思っていたのに、千年も一人ぼっちだなんてあんまりじゃないか。

「あんまりだぁ!」

 ぎゃあぎゃあ泣きわめく私のせいで、読み聞かせ会はしゆうりようした。

 養護院のみんなには本当に申し訳なかったけれど、今の私はそれどころではない。

 彼に殺されたのは仕方がない。私が彼の両親を殺したのだから。その上、人としての彼を捨てさせてしまったのも私だ。私がぞうれんを自分で止められず、彼に続けてしまった。ふくしゆうを果たした私は、自分の中の憎悪に折り合いをつけてしまった。私が始めてしまったものに気づきもしないで、もう終わったのだと思ってしまったのだ。

 てんかいちたのも、なつとくはできずとも分かるは分かる。だっててんじんは長く生きている間に短命の者を命として見なくなっていた。気に入ったものは相手の意思関係なく天上にさらってくるし、適当に天気をらして作物を散らし、落雷で命をうばう。力におごり、短命のものをさげすみ、いつくしむ心を忘れた。人間も、天人を見世物にして羽をいで飼ったりするから、どっちもどっちだ。すべてが終わってしまったいま、問題はどっちが悪いとか何をにくむかという話ではない。

 私の可愛かわいいルタが、いま、一人ぼっちで千年も生きているということだ。

 私は、小さく丸い手を握りめて、心を決めた。

「わたし、おおきくなったら、おうさまのいるちんでんではたらく! それで、おうさまがさびしきゅないように、おともらちいっぱいつくるおてつだいするの!」


 私が人間として生まれて三年。人生の指針を決めて十秒。

 養護院を卒業して神殿で働くまで、後十二年。

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