第38話 黒猫と憂鬱と心傷①






 アトスとアドリアーナが昔話に花を咲かせている中、黒猫はオープンテラスで手すりに腕を乗せて頬杖をかき、煙草に火も付けず、咥えたままボーと港を眺めていた。


 テラスから見えるのは美しい夜景だった。そこからは三日月状の海岸沿いの景色が一望でき、綺麗に舗装された活気のある港では、恰幅の良い男たちが声を張り上げ、ある者は体を動かし、また、ある者は魔術を駆使し停泊した船から積荷を運んでいる。


 この都市には魔導具による照明が広く普及しているらしく、賑やかな街や港、そして海の向こうにある検問所と内海に魔物の侵入を阻む城塞を兼ねた巨大な海上要塞には何百、何千と魔導具による様々な色の灯りが辺りを照らし、波がそれを反射させ海はキラキラと煌めいていた。


 星の光も届かぬ、眠ることの無い街。外海から聞こえてきた水生魔獣の野太い咆哮は船の汽笛の音とよく似ていて、それは、この異世界の地にて黒猫に前世、宮崎みやざき珠希たまきの頃の記憶を否が応でも思い出させた。


 優しき両親の声も、弟妹の手の温もりも、友人たちとのバカ騒ぎも、そして恋焦がれた少女の眼差しも、今では遠い過去の出来事の様に感じてしまう。


 でも、その全てが色褪せずに黒猫の心の中で光を放っていた。


故郷こきょうぼうがたそうろう、か…………」


 黒猫は転生する際に記憶は消したくない、見た目、思考がどれだけ変わろうと大切なみんなを忘れたくない。そう地球の神を名乗る者に懇願し地球で生まれ変わること無く、宮崎珠希はこの世界に『黒猫』として生まれ変わった。


 硬い軍人の様な口調や仕草など表面的な変化は勿論、生命を殺す事が己の利益となるのならば躊躇無く殺せるようになった。


 何より女体化時の変化は最たるものだ。精神は確実に変化しており、頬を膨らませる、額をグリグリ擦り付ける等の仕草をするようになったことに始まり。獣状態のもふもふのアトスを撫でまわしたくなったり、女性に対する距離が本人が驚くほど近づいたり、服を選ぶときなど、女性ものの服を着る事に抵抗が無いどころか、自から可愛らしい服が無いかトランクケースの中を漁っていた事もあった。



「ある程度割り切っていたと思っておったのだがな…………」



 黒猫と宮崎珠希は別の存在。それは黒猫がステータスで『個体名:なし』の項を見た時、そしてシルバ・ファーロードに『シャルル』の名を付けてもらった時に脳裏にチラついていた言葉だった。


 だから、前世の記憶からは踏ん切りを付けたつもりだった。

 別離を乗り越え成長した気でいた。


 つい昨日まで鬱蒼とした森の中、シルバの家以外に文明レベルの低い場所で二週間程生活していた頃は、能力の確認、黒族の立て直し、アトスとの戦闘訓練と多忙で前世の記憶を思い出す暇も無かった。


 だが、人工物に囲まれ、静かで緩やかな時間を過ごす中で改めて深く考え込む時間が出来き、こうして自身の立ち位置と心のありようをものふけっていた。


(…………苦しいな…………それもこれもアトスのせいだ)


 そもそも、前世の記憶を掘り起こされた一番の原因はアトスと老女のあの親し気な空気に当てられてしまったからだ。


 あの老女の事は黒猫はテラスまで移動していた際にクロエから聞いていた。名はアドリアーナ、現オルタラット冒険者組合の組合長であり、過去には『拳客』の二つ名で名を馳せたAランク冒険者。

 『迫撃雷散のポルトス』、『雷撃一閃のティーガ』、『聖雲界のラウロ』、『死なずのマウラ』とチームを組み、オルタラット支部の黄金時代を築き上げた立役者の一人だと。


 その会話の中でアトスが『猛虎ティーガ』の異名で冒険者として活動していた過去を知った。知らない過去、見た事も無い姿、見た事の無い表情と仕草、聞いたことも無い声色、それを見て知った黒猫は胸が微かに騒めいたのを感じた。


「(楽しそうであったな…………いや、まあ喜ばしき事ではあるのだが…………)」


 黒猫はアトスと出会ってから一週間前後しか経っていないが、そのほとんどの時間を共に過ごした。黒猫にとって一番の仲良しはアトスだと即答できる。


 今まで黒猫に自覚がなかったが、身一つで異界に飛ばされた黒猫にとって、いかなる時も傍に居て、黒猫を守り、戦い方を教えてくれたアトスは黒猫の心の拠り所でもあった。

 アトスに『貴殿』では無く『貴様』と呼べと言ったのも、深層意識で自分と旅を共にする事となったアトスと壁を一枚取り払いたかったからという本音があったからだ。


 アトスはああ見えて一部例外を除いて常に黒猫を立てて行動していた。我はシャルルの配下だからそれが当たり前だと、黒猫はそれが嬉しくもあり、少し寂しかった。


 だから、アトスに自分より仲のいい人間がいる事実にモヤモヤしてしまっていた。


「………………我ながらガキよな…………」



 不安や恐怖、緊張という感情はいつも煙草の煙で誤魔化していたが、今はそんな気にもなれず、黒猫は咥えた煙草に火を着ける事はせずに、負の感情の海に更に深く深く身を沈めて行った。







 心あらずの様子で海を眺めている黒猫を心配そうに見つめているのは従者のクロエだった。黒猫は戦々恐々と謝罪し続ける支配人を少し強引にあしらった後、このテラスに来てからずっとあの調子だ。


 クロエは黒猫と今日出会い従者にしてもらったばかりであり、その真意をはかる事は出来ない。

 だが、その背中から寂しさ、悲しさ、困惑の色が滲み出ている事だけは、クロエにも察する事はできた。

 黒猫の為、何ができるか。クロエは考えたが何も出てこない。ただこうして、隠匿魔術を張り、黄昏る黒猫を見つめながら周囲を警戒する以外に最適解はなかった。


「シャルル様……………………」


 ボソり、と無意識に口から零れ落ちた黒猫を憂いる言葉。


 感情の海に浸かっていた黒猫はその声に現実に引き戻され、声のした方へ振り返ってみれば不安げに瞳を揺るがせているクロエと目が合った。


「ああ」


 心配させてしまった。黒猫は眉尻を下げて苦笑し、クロエと向き合うために身を翻した。


「す…………」


 そして、「すまない」と謝ろうと口を開いた、だが。


 —————大粒の涙が溢れ出した。



「えっ?…………………なんっ」



 驚きのあまり煙草を落とし、目を見開き喉を抑えて上体を丸める黒猫。

 この異常事態にクロエは悲鳴にも似た声で黒猫の名を叫んだ。



「シャルル様!」



 黒猫の精神は黒猫が思った以上に疲弊してしまっていた。

 もう二度と戻れない故郷、会えない前世の大切な人々との思い出。

 神の願いを叶える使命から無意識に感じ取っていていた重圧。

 異界の地で一人ぼっちになってしまった孤独感。

 そして、アトスとアドリアーナから感じてしまった疎外感。


 それは、元はただの高校生だった黒猫が抱え込むには、あまりにも大きすぎる心労だった。今の今まで気を張り外見と態度を取り繕い、煙草の煙で誤魔化していが、ここに来てそれが突如として表面化してしまった。


「シャルル様!シャルル様!!………っ…いったい何が…………」


 黒猫の急変にクロエは焦りつつも冷静に対処した。その場で力無く倒れこみかけた黒猫の体を支え、防護術式を展開し、周囲を警戒しつつも黒猫の容態を確認しようとした。


「っは………っ……っな、ん…………で…………!!」


 目から涙が零れ落ち、視界が霞んでよく見えない。気を静めようにも呼吸困難に陥り苦しくて意識が纏まらない。

 だが、これ以上クロエを心配させるわけにはいかない。そう思った黒猫は不安定になった精神を無理矢理立て直すために、震える手で何とか胸ポケットから新たに煙草を取り出し、『髑髏の灯火』で先端に火を着け煙を吸った。


「——————っゴホッ、ゴホッ、ガハッ!!」

「シャルル様、いったい何を!?」


 黒猫の突然の行動に驚きと戸惑いの声を上げるクロエ。

 案の定、呼吸が安定しないまま煙を吸引したせいで激しく咽せ、煙草を再び落としてしまったが、それでもなんとか少しは落ち着きを取り戻した。




「…………クロ、エ、すまぬ。すまない、こ、こんな、はずでは…………」



 だが、黒猫の涙は引かなかった。喋る事ができるようにはなったが、涙と嗚咽が止まらずそのまま泣きじゃくった。


「すまぬ突然、でも…………涙が止まら……なくて……なんで…………」


 黒猫は道理も外聞も捨てざるおえなかった。『森の魔女バーバ・ヤガー』と『森の王』を筆頭とする黒猫の能力のほとんどは地球の管理者から与えられた贈り物だ。

 黒猫の事を友と呼んでくれた彼には、今も心から感謝ていれば、生まれも育ちも日々の努力も運の良さもすべて自分の力という考えは今も変わらない。


 趣味で語り合えた同志がいた。

 自分を慕う魔物達がいた。

 何より、忠誠を誓い守護してくれる配下がいた。


 黒猫は自分が恵まれている事を自覚している。この涙が身勝手なものだと思っている。

 だが、前世の思い出とアトスの存在、今の立場が黒猫の心をグチャグチャにかき回した結果、感情のままに涙する以外に選択肢が無かった。



「シャルル様、今アトス様を…………」

「アトスは呼ぶな!!」


 黒猫はクロエの言葉を拒絶した。


「この、ような無様、アトスには、アトスに、だけは見せる訳にはいかぬ。何があっても、アトスの信頼を失う訳にはいかぬのだ!」


 アトスは黒猫の中に不屈の精神と王者として覇気を見出し『森の王』と認め配下となった。だから、こうして募った心労に心揺れている姿のなど見せられない、アトスに幻滅される事だけは避けたかった。


「吾輩は『森の王』、アトスが仕えるに見合う主になると決めたのだ。このような場所で膝をついる場合ではない……なのに…………くそ…………」


「シャルル様…………」


 クロエは力なくへたりこんだ黒猫をジッと見つめていた。

 クロエの黒猫に対する第一印象は強大な魔獣を従えた王の覇気のをもつ軍人といったものだった。そして、従者になって半日が経ちある程度黒猫の性格を理解した気でいた。

 常に自信に溢れ、気品を保ち、大商会の会長が相手だろうと豪胆さを保ち自分の意見を率直に相手に伝える芯の太い人だと、そう思っていた。


 クロエの使命は、『森の王』をラジウス森林連邦に招く事。


 5年前、エルフ族の族長リュディヴィーヌは、信仰する神から近々オルタラット周辺で『森の王』が現れる、という天啓を預かり、その捜索にオルタラットを拠点に諜報活動を行っていたクロエに白羽の矢が立った。


 自分はただの案内人。本国に戻れば上層部が新たな従者が選出される手筈となっているはずだ。


 だから、出来る限り個性を消し黙々と使命をこなそうと。そう考えていた。


 でも、親とはぐれた幼子の様に泣いている黒猫を見て居ても立っても居られなくなり。



「…………シャルル様。無礼をお許しください」




 ———————衝動のままに小さく震える黒猫を優しく抱きしめた。




「……………………ク…………ロエ?」


 黒猫は混乱した。己の事は聞かれるまで何も語らず、黒猫に話しかける事もせず、背後で静かに佇むだけだったクロエがまさか、この様な行動に出るとは思わなかったからだ。


「…………シャルル様、我等の王、我等ラジウスの希望。わたしには、まだあなた様の心のうちを察する力はありません。ですが、アトス様に言えぬことがあれば、わたしに打ち明けてください」


 クロエは黒猫をあやすように回した手で背中をゆっくりと擦り。そして一呼吸置いて優しい口調で言葉を紡いだ。


「わたしは、アトス様のような絶対的な力で守護することはできません。ですが、せめてあなた様の心を護りたい。そう思ったのです。厚でがましい事は理解しております。しかし、気持ちを殺しているあなた様の助けになりたいのです」


 言葉にすれば楽になる。煙草で誤魔化した不安や恐怖は募り募った後に再び襲い掛かってくる。だから、その気持ちは自分に吐き出せと彼女は言ったのだ。


「…………ありがとう、クロエ」


 前世に関する事を言う勇気はまだない。だが、せめてアトスの事だけでもクロエに相談したくなった。黒猫はゆっくりと自分の気持ちを口に出した。



 

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