第8話 老人と黒猫




 閑静な深い森。生き物の気配はなく、草木が風に揺らされる音だけが響くいている。 そんな森の中に、木々が円状に切り開かれた場所があった。

 直径およそ30m。中心には西洋の木造建築、俗に言うチューダーと呼ばれる建築様式の二階建ての家が建っている。

 明らかに手入れの行き届いたこの空間、まるでおとぎ話の舞台にもなりそうだ。


 だが、そこに住んでいるのは麗しの美女でも悪い魔女でもない。

 住んでいたのは白いシャツにスラックス姿180cmは超えているだろう長身、目が悪いのか丸眼鏡をかけており、長く白髪と髭の目立つ厳格な教師然とした1人の老人だった。

 老い先短い彼は都会の喧騒から離れ、ひっそりとこの未開の森で余生を過ごしていた。


 彼は花と本とコーヒーをこよなく愛し、これを日課としており今日も昼食を済ませ膝に毛布をかけてコーヒーと菓子を用意して安楽椅子を揺らしながら読書を楽しんでいた。


 その時、玄関から規則正しいノックの音が聞こえてきた。誰かがこの家を訪ねてきたのだ。だがこの辺りには老人以外に人間は住んでいない。


「お客さんとはこりゃまた珍しいのう」


 来客があった事に老人は少し驚きながらも本に栞を挟み、膝にかけていた毛布を畳むと立ち上がると玄関へと向かう。


「どちらさんかね?」


 老人はロックを外し、そう言いながら扉を開けた。


 …………そして扉の先にいたのは黒の軍服の上に分厚いコートを袖を通さず、肩にかけた猫耳を生やす若い女性だった。彼女は黒く艷めく長い黒髪は微風そよかぜに撫でられながら軍帽を胸に当て老人へ優雅にお辞儀をする。


「初めまして御老人。わ……私は名も無き黒猫、最近この辺りに越してきた者です。先ほど知り合ったクグロに貴殿の事を聞き、この度お伺いしてもらいました」


 以後お見知りおきを。顔を上げながら閉じていた瞼を開け、その蒼玉と紅玉を思わせる瞳で老人の顔を映す。


 これが、黒猫が異世界で初めての人との接触だった。


 ーーーーーー


 数分後、黒猫は今、老人にリビングまで通され、柔らかなソファに座っている。

 この家の主である老人は茶を沸かしてくる、と黒猫に言いキッチンへと向かったままだ。


 まだ戻ってくる気配はない。


 黒猫はつい先程まで猫人状態だったのになぜ、また女体になっているのか。

 元々、黒猫が猫人状態になったのはそれはクグロ達に自分の正体を教える意図もありはしたのだ。

 ありはした…………のだが、本音としては誰かの肩に乗り歩くのを怠けようとした思い姿を現した後も猫人状態のままだったのだ。この猫、意外と面倒くさがり屋なところもある。


 だが、今回の相手は人間である。喋る二足歩行の猫と、麗しい軍服女性だったらどちらを信用するか、一も二もなく後者だと黒猫は予想し再び女体に戻った。

 ちなみにだが、先程まで着ていた旧日本軍の将官服から女体化する際にわざわざ別国、黒い軍服に着替える。

 おそらくだが猫人での正装はコレ。女体での正装はコレ、と決めているのだろう。


 そして、黒猫は部屋を見渡さず、ただただジッと目の前の机に焦点を向けていた。緊張している訳では無い。ただ少し考えの事をしていたのだ。


 特に今回は異世界人とのファーストコンタクトだ。聞きたい事は山ほどあるが、その時間が確保できるとは思っていない。だから、黒猫に湧き上がった疑問の一つ一つに優先順位を付けて言っているのだ。その結果がこれだった。


 しばらくすると老人がお盆に二つのコーヒーカップと砂糖とミルクの入った容器。そして菓子の入った皿を乗せ戻ってきた。

 老人は真正面に位置する一人用ソファに座ると、黒猫にカップを差し出す。


「すまんのう、何分この環境じゃ。客人は滅多に来ないので埃を被っておったのでな。食器洗いから始めたおかげで遅くなってしもうたわい」

「いえ、お構いなく。私も色々と考え事をしていたので体感としてはそこまで経っておりません。だいたい、こちらはお茶を出させる身。そんな事で文句を言うのは恥知らずか愚か者くらいでしょう」


 その美しい顔に薄く笑みを浮かべ、気さくな様子で老人に答える黒猫。そして、老人はその言葉に好々爺然とした笑みで返した。


「そうかそうか。では、自己紹介をさせてもらおうかの。儂わしの名はシルバ・ファーロードという。黒猫さんは儂にクグロ坊主の紹介と言っておったが本当かの?」

「ええ、紫色の肌を持つ一族。紫族の族長の息子で、賢い大柄のゴブリンと言えば彼しかいないのでは?」

「それもそうじゃな。しかし大柄か……そうか、あのチビも大分成長したのじゃなあ………一族の事で忙しいのか、ここ1、2年は来てないからのう」


 白く長い髭を撫でながら、昔を懐かしむ様に笑顔で少し顔を上げるシルバ。

 黒猫はまるで孫を思う爺さんの様に見え、心にほのぼのとした暖かな気持ちが満ちた。

 そして黒猫は口へ、シルバの淹れたコーヒーを運び、数秒置いて驚いた表情になる。


 そして、次の瞬間には、また仄かに笑顔を浮かべ「うまい」と感嘆の声を上げた。


「お口に合いましたかな?」


「えぇ、とても美味しいです。私もお茶を趣味としていまして。今までは紅茶ばかりに傾倒しておりましたが、しかし コーヒーも素晴らしいですな。何よりもここまで上手く淹れられる貴殿の腕もまた素晴らしい。後で、師事をいただきたい程ですよ」


 黒猫の裏表のない絶賛の声。それにシルバは笑みを深くしうんうんと首を振る。


「えぇ、儂で良ければ。じゃが黒猫さんは儂にコーヒーの淹れ方を習いに来た訳ではあるまい?」


 シルバは老年の教師の様に優しく柔らかく注意する。


「む、私とした事が本来の目的を忘れるとは、ご指摘ありがとうございます」


「それと儂の為にわざわざ慣れない言葉遣いをせんで良いぞ。儂はただの老人じゃ、畏まる必要なんか無かろうて」


「なんと、やはり表に出ていましたか…………練習が必要ですな」


 恥ずかしそうに側頭部を撫でる黒猫、そしてコホン、とわざと咳をする事で気持ちを切り替えた。


「ではお言葉に甘えて…………コホン。吾輩が貴殿の元に訪れた理由、それはこの森の地理や生態系等を知りたかったからです」


 膝の上に両手を重ね、軍人の如き真面目な顔付きで話す黒猫。そこには先程までの優しい笑みは欠片も残っていない。


「…………吾輩はここ数十年の記憶がございません。それゆえここが何処なのかすら判断が掴めてないのです。できれば、この森に限らず国、大陸の地図を欲しているのです。」


 この老人に対して嘘を付くのは気が引ける。そんな事を思いながらも表には全くその心境を表さない鉄面の黒猫。

 シルバはジッと黒猫の顔を見た後何か納得したのかうんうんと、首を振った。


「なるほどのぅ…………良かろう。では、語らせてもらおうかの」

「ありがとうございます」

「よいよい、では何から語るか……そうじゃな島の大きさから行こう。この森は最大直線距離60キロメートルにもなる島にあり。生態系で大きく四つに別れておる」


 島。その単語を聞いた瞬間、黒猫の鉄面は剥がれ、驚いた表情で僅かながらも声を荒らげてしまった。


「な!ここが島!?」

「そうじゃよ、北西に240キロメートルほど行けば大陸は見える。他に小さな岩山の様な物がポツポツとある程度でこの辺りに島と呼べるのはここしかない」


 実は島スタートだった。


 この現実に黒猫は柔らかなソファに深く座り込み、顎に手を当て延々と考え事をしたくなる衝動に襲われるが、シルバが親切にも話してくれている手前、それはなんとか我慢した。


「そう……ですか、いや、なるほどありがとうございます。話の続きを聞いても宜しいですか?」

「うむ、かまわんよ。四つの森の事じゃったな」


 そして、シルバは再び語り出した。


 この森は島の中央にある山を中心点に北東、北西、南東、南西と単純に四つに分けられる。

 まず、ここシルバの家は島の南西に入り、このエリアは獰猛な夜行性、哺乳類の魔獣が多くいる。昼は静かな森だが、夜になると一変し、辺りが獣の雄叫び、悲鳴などの声で埋め尽くさせるのだ。


 ちなみにだが、黒族の集落、そしてシルバの家がある場所は南西エリアの中でも比較的に北に近い場所ある。

 魔獣の多くは南に巣を作っており、この辺りを縄張りにする魔獣はかなり少ないが、かなり賢く強いらしい。

 そして、前記した通りクグロ達ゴブリンは美味くないと知っていて、そしてシルバの家には結界が張られている為に襲ってこないのだ。


 次は北西エリア。黒猫の生まれた場所もギリギリだがここに入る。


 北西エリアは、最近、ある上位魔獣が島の中央から西の果てまでという広範囲を縄張りとしている為、北と西が事実上分断されているらしく魔獣達が足を踏み入れる事を出来ない為、身の危険は少なく食べ物が豊富にあるらしい。

 そして、ゴブリン達の本拠点ともなっており、南に近い場所には下級ゴブリンが、最北に上級ゴブリンが住んでいるそうだ。


「彼らは週に一角兎程度の大きさの肉を食うだけでいいんじゃ、狩り以外は無駄な動きをせんからの。つまり夜に徘徊する。巣穴に入って刺激する、などの蛮行を起こさぬ限り彼らは襲ってこんよ」


 まぁ、飢えに飢えた南の魔獣が北上して来てゴブリンを襲うなどの事は昔あったらしいが、それもごく稀にしか起こらないらしい。


 前記した通り、北の魔獣は総じて賢く強い。他の魔獣が彼らの縄張りに入るなど、まさに虎の尾を踏む事になるそうだ。


「後は北東、南東じゃが、……これについては儂からは何も言わぬ。黒猫さん自身の目で確かめるが一番良い事じゃろうて」


 北西、南西についてはスラスラと教えてくれたシルバーが何故か突如として意味深長な発言をした。

 これに黒猫は怪訝な表情でその言葉の意味を問う。


「と、言いますと…………」

「何、あまりにも突飛な話ゆえな……それに百聞は一見に如かず、と言しの。それに、未知を知るとは何とも浪漫ロマン溢れることではないか?」

「…………浪漫ロマンですか」


 黒猫は何言っているんだ?と言いたくなるが喉元で堪える。


「うむ、己が目で様々な事柄を見て、経験して積み重ねてゆく。儂も昔は道を求めて旅をしておったもんじゃわい、なにせ…………」



 その時だった黒猫の耳がピン!と勢い良く立った。

 間違いなくこのままシルバに話の主導権を握らせて置けば老人名物、数時間に及ぶ昔話が展開されるのは間違いない。

 謎の危機感を感じた黒猫は話を中断させるべく声を上げる。


「シルバ殿!……あー、ごホン。よく分かりました。ならば吾輩は吾輩の目で確かめるとしましょう」


「うむ、そうか?ならば良い。旅せよ若者よ」


 そう言って笑うシルバ。そして、その言葉に胸をなで下ろす黒猫。どうやら危機は去ったらしい。


「さて、ここまででこの島の事は大方話したが…………口頭だけとなると齟齬が出るやもしれん。ならば儂の持っている地図と魔物図鑑をやろう。その方が色々と都合が良いかもしれんしな」

「な!?い、いえ物を貰うなど…………」

「気にしなさんな。もう儂には無用の長物故、それに老人は若者に何かと物をやりたがるのじゃよ」


 帰り際に持ってこよう。シルバが有無を言わさない雰囲気を醸し出しながらそう言った。


 黒猫は申し訳なさそうに膝元に手を当て頭を下げようとする。だが、それもシルバが右手を上げて制する。


「だから畏まらんでも良いと言っておるじゃろうが」


 困った様に笑むシルバ。それを見て黒猫も一緒に苦笑する。


「いやはや、どうやら吾輩、久しぶりの人間との会話に予想異常に緊張しておりました。なるべく自然体になるように心掛けます」


 シルバはその言葉にウンウンと、頷いた。

 そしてポツリと、黒猫が全く違和感も持つことなく、呟く。


「……………………しかし、君の本当の一人称は『吾輩』か、黒猫でその一人称とは………やはり、否が応でも夏目漱石を思い出してしまうな」

「ははははは、確かにそうでありますな。実を言うと吾輩も……………」


 そこまで発言し、黒猫の動きがピタリと止まる。だが、何か確信を得たシルバは眼鏡の向こうにある瞳をギラりと光らせる。


「………………今、なんと?」


 ギギギ、と油の塗っていない錆び付いた歯車の様に首を動かす黒猫。そして、シルバは現実だと解らせるため真摯にそれに答えた。


「夏目漱石を思い出す、といったんじゃよ。何か問題でもあったかの?」


 驚愕に満ちた黒猫の顔。そして、シルバは何処から取り出したのだろうか。先程、黒猫が訪ねる前に読んでいた文庫本を取り出す。


 そして、そこにはこう書かれていた。


『吾輩は猫である』『作・夏目漱石』、と。


 そして、シルバは少しこちらの言語に訛ったで黒猫に語り出す。


「やはり。妙に懐かしさを感じる仕草をすると思えば君も『同郷』だな。そしてその姿……瞞まやかしの類では無いが、また本性でもないと見たぞ?」


 今の今まで、黒猫は『動物言語』の能力でシルバと喋っていた。


『動物言語』とはその名の通り、人を含めた全ての動物の言葉を理解できる。

 そして、その原理は元の言葉を聞きながらもその意味を理解し相手にも己の言葉を理解させるというもの。



 つまり、今黒猫の鼓膜に懐かしい故郷の言葉が響き渡ったのだ。





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