約束
「……シエラ」
翌朝、私がオズ楽器店に行くと不機嫌そうなアルフレッドが出迎えてくれた。
「ど、どうしたの?」
「どうしたの? じゃねえよ」
「うにっ!?」
私の頬はアルフレッドの両手によって摘まれる。
「昨日先に帰っただろ」
「あ……」
昨日はアルフレッドとメアリーの二人を見ていたくなくて先に帰ってしまったんだった。
「……だって、別に帰る約束してたわけじゃないじゃん」
「へぇ」
アルフレッドは瞳を鋭く光らせている。口元は笑っているけれど瞳は笑っていない。
だけど、メアリーに嫉妬して、なんて恥ずかしくて言えない。私が嫉妬していい立場なのかもわからないし。
「カミーユに何か聞いたんだって?」
「!」
怪しい笑顔でそう聞かれて私は動揺してしまう。これじゃあそうだと言っているようなものだ。もしかして、アルフレッドに問いただされたカミーユが何か言ったのかな。
「ちょっとこっちに来い」
「ア、アルフレッド! 開店準備が……」
「開店は遅らせる」
「そ、そんなぁ」
私はアルフレッドに引っ張られて店の奥まで連れて行かれる。アルフレッドの力の強さに抗うことはできなかった。
「それで?」
アルフレッドに迫られて、私は観念するしかなさそうだ。
「えっと、カミーユにはアルフレッドの昔の話を聞いて……それで、昨日は邪魔しちゃいけないと思って先に……」
「何が邪魔だよ」
アルフレッドはため息をつく。
「終わったことだって聞かなかったのか?」
「それはそうだけど、でも……」
私は俯くしかない。
「でも、何だよ」
アルフレッドに顔を覗き込まれる。ドキドキするけれど、同時にすごく悔しい。
「アルフレッドはああいう美女が好みなんだなって」
「は?」
私がそう呟くと、アルフレッドのこめかみがピクリと動く。だけど、私もいい加減腹が立って、真っ直ぐにアルフレッドを見返した。
「あの時俺は……」
「もう開店でしょ!?」
私はアルフレッドの視線から逃れて店内へと駆け出す。
「おい、シエラ!」
「今は演奏会に集中したいから!」
私がそう言うとアルフレッドは口を引き結んだ。泣きそうになりながらも何とかこらえて、私はアルフレッドを置いて店内へと戻った。
「広い……っ!」
本番前日。私達は本番の舞台であるリンドブルム劇場に通しのリハーサルをするためにやってきた。そこは、私が想像していたものより遥かに大きかった。
「ちょっと、邪魔よ」
舞台の端で立ち止まって口を開けていた私の背中をコットンが押す。
「ね、ねぇコットン!」
「……何よ」
「チケットは完売って言ってなかった!?」
「そうね」
つまり、この広い会場の客席が埋まるということだ。
「ここ、収容人数は何人?」
「そんなことも知らないの? 3千人よ」
「さ、さん……」
絶句した。日本の人気アーティストがライブをする規模に匹敵する。もちろん私はそんな大勢の人の前で演奏したことがない。夏のコンクール予選だって、2千人収容のホールは満席にならないし。っていうか、この街そんなに人いたんだ!?
この吹奏楽団は毎年こんなに大きなところで演奏している。改めて、すごい楽団に入ったことを実感した。
リハーサルは滞りなく終わった。今日の私のソロは会場の広さに圧倒されていまいちだったけれど、みんなの演奏はいつも通りだ。練習時間は決して多くなかったけれど、いいものができたと思う。あとは、これをみんなに聴いてもらうだけだ。
「おい、シエラ」
会場を後にしようとすると、アルフレッドに声をかけられた。アルフレッドとはあれ以来気まずいままだ。
「お前、今日のあの演奏は何だよ」
「え?」
「ソロだよ、ソロ。今までで一番酷い出来だったぞ」
アルフレッドにはちゃんと見抜かれていた。厳しく指摘を受けて、縮こまる。
「まさか、劇場を見て怖気づいた、ってわけじゃないだろうな?」
「……」
「とにかく帰るぞ」
「ちょ、ちょっ……!?」
アルフレッドに腕を引かれた。抗おうとしたけれど、力が強くて引きずられることしかできない。
「帰って練習だ」
「練習って……本番は明日だよ?」
「だからこそ、だ」
アルフレッドに睨まれて私は身を竦めた。アルフレッドは完全に怒っている。あんな演奏をしてしまったのだから、当たり前だ。私は言われるままアルフレッドとオズ楽器店に戻った。
「ほら、じゃあ吹いてみろ」
準備をするとアルフレッドと向かい合う。しばらくこうして二人になることがなかったので、緊張する。アルフレッドも金管リーダーとしての仕事で忙しかったし、お店も定期演奏会前は忙しかったのだ。
「……まさかお前、まだメアリーのこと気にしてるんじゃないだろうな?」
「!」
アルフレッドの前で吹くのを躊躇っていると、鋭い目で射抜かれる。ハッと息を飲んでしまってから、その反応が図星と告げていることに気がついた。
「やっぱりか」
アルフレッドにため息をつかれる。
「だって、だって……」
反論したいけれど言葉が見つからない。すると、椅子ごと距離を詰められて、アルフレッドの顔が間近に迫ってきた。
「だって、何だよ?」
ずるい。わかってる癖に何も言ってくれない。悔しさで涙が滲んだ。
「私、アルフレッドのことが好きだよ」
その言葉は口からすんなりと出てきた。涙で滲んでアルフレッドの反応は見えない。
こんな風に言いたかったわけじゃなかった。私ばかりが子供で駄々をこねているように思えるのに、どうしても止められない。
「だけど、アルフレッドは何も言ってくれないし、それなのにキスするし、私って何なのかなって。それに、メアリーさんとはちゃんと付き合ってたって……。メアリーさんは私より美人でオーボエも上手くてアルフレッドとお似合いに見え……」
「シエラ」
いつもより少し低いアルフレッドの声がして、それと同時に両手で私の手を包み込まれた。
「メアリーに告白された時、俺は誰とも付き合ったことがなかった。人並みに興味はあったし、楽器も上手いから、何か刺激になるかもしれないと思って付き合うことに決めた」
アルフレッドは私の手の甲を撫でながらどこか優しい声で話してくれる。
「俺たちは音楽に関しての考え方がまったく合わなかった。会えば音楽の話をして喧嘩ばかりしていた。俺は付き合ってからメアリーを好きになれるかとも思ったが、それもできなかった。だから、俺から終わりにした」
ポタポタと私の涙が手の甲に落ちた。アルフレッドの手も濡れてしまっていると思うけれど、止めることはできない。
「だけど、お前は違う」
アルフレッドは私の手をぎゅっと握った。
「突然現れたシエラは自然に俺の生活に入ってきて、一緒にいてもまったく苦じゃない。正直言って俺はお前の音も嫌いじゃないし、音楽に向かう姿勢も好ましい。シエラとは一緒にいたいと思う。メアリーとお前は全然違うよ」
「それは……」
好きってこと? そう尋ねようとした唇がアルフレッドの唇によって塞がれた。いつもよりも味わうような長いキスの後、アルフレッドは少しだけ離した隙間で、
「好きだ」
と、言った。
「アルフレッ……」
鼓動が速くなって苦しいくらいだ。アルフレッドはもう一度角度を変えて私に口づけを落とす。呼吸が苦しいはずなのにキスをやめてほしいとは思えない。これって、楽器を吹いている時に似てるな、と痺れる頭で思った。
「シエラ……」
ようやく唇が離れると、アルフレッドに優しく抱きしめられた。
「演奏会が終わったらちゃんと言おうと思ってたんだ。それをお前が先走るから……」
「だって、不安だよ。アルフレッド何も言ってくれないもん」
「言わなくてもわかるだろ」
「わかんないよ!」
抱きしめられながら言い合いをして、顔を上げると優しい笑顔と目が合った。
「明日、大丈夫だと思う」
「本当か? 一度合わせておかなくて大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
私は力強く頷く。
「演奏でも聴かせてよ、アルフレッドの想い」
「ふっ」
アルフレッドは目を眇めた。
「それに変な返しをしたら怒るからな」
「大丈夫、任せてよ。だから、ちゃんと聴いててね?」
「ああ」
「約束だからね」
アルフレッドは蕩けるような笑顔で頷いて、もう一度私に優しいキスをした。
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