歯車は廻る――Fortune plango vulnera (合唱)

「もうみんな強引すぎるんだから……痛ッ」


 思いきり放り出されたその拍子、なんとか体勢を整えようとしたチアキは、芝生に背中をしたたか打ち付けた。


「……ここって……」


 見上げれば頭上には蔦の繁ったアーチ。

 見渡せば中庭には咲いたばかりのラベンダーが夜風に踊り、青白い月の光は真珠のよう。ついさっきまでチアキがいたはずの石舞台はどこにも見当たらなかった。


「きみは、どこから来たの?」


 不意に話し掛けられて見やれば、真夜中の中庭に突っ立って不思議そうにこちらを見ている少年がいた。


「え、僕? 僕は……その……遠くから」


 どこか見覚えのある少年に戸惑いを覚えながら、チアキは訳もわからず言葉を濁した。ここは……一体……?

 チアキが思考の糸を辿り始めたその瞬間、ふたたび視界の隅に白い歯車が閃いた。

 吐き気を覚えるほどの目眩と激痛に思わずへたりこんだチアキの鼻を、咲いたばかりのラベンダーの香りがくすぐった。




 再び目を開くとチアキはどこか見覚えのある子ども部屋にいた。ベッドで横になりながらあたりを見回すもどうにも状況が掴めない。傍らに座る少年を見やるとチアキは堪らず呟いた。


「ここは……」


 ここは、どこだろう? 何をしてるところだった? 何をするつもりだった? 誰と一緒にいた? チアキが何か大事なことを思い出そうとするたび、白い歯車が頭をかすめては消えていく。


「あ、そうだ花」


 僕の好きな香りは? 僕の好きな花は? 窓辺に置かれた花を見つけたチアキは、安堵するどころか愕然とした。


「花……が……」


 もはや花を見ても何も感じないほどチアキの心は壊れかけていた。すべてはつくりもののようで、そよ風を受け止める器すら、消えかけていた。


「ここ……は……」


 ここはどこだろう? 僕は何をしてるところだった? 僕は何をするつもりだった? 僕は誰と一緒にいた? 僕の好きな香りは? 僕の好きな花は? そもそも僕は一体……。 

 思考の糸を辿る術をなくしたチアキは突如得体の知れない不安に襲われた。まるでたった独りこの世界から放り出されたみたいに。


「ここはペーパー・ムーン・カフェの二階にある子ども部屋だよ。僕の行きつけの喫茶店の。覚えてる? 扉の外にいるのはマスターと奥さん。きみが中庭に倒れているのを見て駆けつけてくれて、この部屋に運んでいろいろ介抱してくれたんだ。だからもう、大丈夫だよ」


「大……丈夫……?」


 チアキは小首をかしげた。さっきから僕に優しく話しかけてくれてるこの人は一体誰だろう。夜空の星のように煌めく美しい琥珀の瞳。

 

「え、きみは……。そうだ僕……僕はきみに会うためにここへ……そうだよ! あのステンドグラスの教会から雷に打たれてそれで――」


 チアキは瞳を輝かせて言った。


「僕はずっときみに会いたかったんだよ!」


 すると琥珀の瞳の少年は返事をせずに、ただただ優しく頷いた。それからどこか名残惜しそうに笑みを浮かべると、くるりと背を向けて席を立った。


「……え……?」


 三度チアキの視界に歯車が現れた。なぜか言葉を発しない少年に戸惑うチアキに構わず、懐かしい世界はまた急速に遠ざかり始めた。


「待って、待ってったら! 痛ッ――」


 伸ばした手はむなしく空を掴み、歯車はいまや視界いっぱいに広がっていた。

 去り際に少年が囁いた『ちゃんと見守ってるよ』というその声は、やはりチアキに届くことはなかった。

 懐かしい世界はチアキを残して白い歯車の影と散った。




「うわっ」


 気づけばチアキは雪降る夜の街角に放り出されていた。

 積もりはじめた雪に足を滑らせて、見事に顔から突っ込むようにして転んだ拍子に、したたか打ちつけた手の平がジンジンと痛む。


「なんで……」


 なんで。いつも掴もうとするたび遠ざかる。あんなに手が届くほど近くにいたのに。


「どうして……」

 

 どうして。こんな不条理に耐え続けて生きなければいけないのか。さっきから頭が割れそうなほど痛くてしょうがないというのに。

 チアキは歩道の雪をかきむしるように掴むと、血が滲むほど拳をぎゅっと握りしめた。


「いっそ誰か僕を……僕を……」


 いっそ誰か僕を殺してと、言ってしまえるほどこの世界に絶望しきっていたなら、どれほど楽になれただろう。あいにくチアキはそこまで潔くなかった。そんな言葉はとうの昔に捨てていた。生きるために。


「いっそこのまま頭が割れてくれたら楽になれるのに」


 ぼそりと愚痴を呟いて、拳を勢いよく歩道に叩きつけると、赤く染まった雪を薙ぎ払った。

 

「だって僕はまだ」


 どうして星はあんなに優しく瞬くのか。どうして夕暮れに切ないほど心惹かれるのか。どうして世界はこんなに美しいのか。その答えをチアキはまだ知らない。

 

「だってすべてを投げ出してしまうには。僕はまだこの世界のことを知らなすぎる」


 チアキは観念したように白いため息をつくと、雪の下から現れた氷をそっと撫でた。

 ショーウィンドウの光が歩道に差し込んで、偶然現れた氷に反射した。青白い光がチアキの痛む頭にズキズキと響く。

 眩しいくらいの輝きが気になって、チアキはおもむろに目の前のショーウィンドウを見上げた。


「……え……」


 ガラスの向こうの世界から、つくりものの月がチアキを照らしていた。

 キャンバスの空に釣り下がる紙の月。

 やわらかそうな布地の木はモスリン。

 一番手前にはなぜか血まみれのバラが1本、ショーウィンドウに飾られている。

 青白いイルミネーションがつくりものの世界をほんのり染めあげて、夢の世界を優しく彩っていた。


「これって……」

 

 チアキが青い月に心惹かれたのは言うまでもないけれど、なぜだか血まみれのバラと、一緒に飾りつけられた絵葉書の青いインク文字も無性に気になってしょうがないのだった。


〝世界がすべて偽物に思えるような時だって

 君が僕を信じてくれたなら

 全てはつくりものなんかじゃないんだ〟


 まるで囁きかけるように静かに明滅するイルミネーション。

 その一瞬の煌めきを掴もうと思わず伸ばしたチアキの手を、ガラスの向こうから青い月が優しく照らした。


「そこに……いるの……?」


 この儚い輝きを、ANIMAを。したたかの素養を備えたチアキが簡単に投げ出すことなどできるはずがなかった。

 チアキが諦めようとするそのたびに、この世界に息づく夢のような輝きが、いつだってチアキの心をとらえて離さないのだから。

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