冬の終わりのプロロゴス――ディテュランボス

『あ、そうそう。この前何かで聞いたんだけど、肌って頭で考えて分解するより先に色々感じとってるらしいね。音も香りも判別できるとか。あ、このほんのり甘い香りは白檀だな。免疫上げちゃえみたいな』


『あら、それなら私だって。いつだったか偶然讃美歌を聞く機会があったのだけれど』


『あれ君いつの間に宗教入ってたの?』


『あら、いまでも無宗教ですけど? 無宗教の者が神様役なんかやって悪かったわね』


『いや別にそこまで言ってないし』


『だって好きなんですもの。何かを一心に祈ったり歌ったりしてる人ってなんか美しいっていうか思わず見とれちゃうわ』


『つまり自分と正反対の存在に惹かれると』


『だってあの歌声を聞いたときの鳥肌ときたら。聞いてる間ずっと止まらないんだもの。しまいにはなんだか手足が温かくなってきちゃって。夢見心地でうっかり寝ちゃったわ』


『いや、何やってんの。まあ確かに皮膚感覚と心って何か繋がりがありそうな気はするよ』


『あら当然でしょ。自分と世界の境界線なんだから。肌はすなわち心の輪郭』


『なにそれ』


『自分がここに存在してるって肌で感じられなくちゃ本当に自分がここにいるかどうかもわからないじゃない』


『あれ、もしかして同じ番組聞いてた? 知らないふりしてさも自分で発見したみたいな感じで言ってたけど。だいたい嘘つくの下手な人って神様役向いてないよね』


『あら、ちゃんと言ったじゃない。それなら私だって(同じ番組聞いてたわ)って』


『うわ、せこい』


『黙ってられるかどうかも神様役には必要な力でしょ』


『まったく。それで確かそのとき聞いた話で暗闇の中で水に浮く実験ってなかった? 皮膚感覚が喪失すると自己も喪失するとかなんとか』


『ええ、あったわね』


『あの話さ、ポイントは皮膚があるかないかじゃなくて、ちゃんとそこに皮膚があるって感じられるかどうかってことだと思うんだけど』


『確かにそよ風にあたるとああ自分はここにいるぞ! って叫びたくなるわ』


『いや別にそこまでは。それで言えば激痛にさらされて解放された直後、つまり些細な変化も感じ取れないほどくたびれて皮膚感覚が麻痺してるような人は軽く自己を喪失してるってことでしょう? 考えられないなら時間の感覚もなくなるだろうし。そういうときにドッペルゲンガーを目撃されたりするわけで。考えずとも無意識で移動出来るような馴染みの場所でさ』


『あら、無意識なんてそんなの困るじゃない。たまたま目撃されたもう1人の自分がまっ裸だったらどうするの? 自分の後ろ姿なんていちいち覚えてないもの。前側だけ服着てて後ろだけすっ裸なんて姿だったら? 私絶対知らないふりするわ。別人ですって』


『いや心配するとこ違くない? 今の自分からみたら別人というのはそうだろうけど。自己が喪失しかけたときにうっかりカイロス度の高い瞬間がクロノス的な時間の中にはみ出ちゃったみたいなことでしょ。昔のことなら過去の自分だし、これから形になるかもしれない瞬間なら未来の自分だし』


『つまり、うっかり魂飛び出ちゃうほど痛いってことね。なあんだ、簡単な話じゃない。幽体離脱みたいなものでしょ』


『いや、微妙に違う』


『せっかく話にのってあげたのにひどいわ』


『だって幽体離脱のときは視界360度になるし。記憶も意識もちゃんとある。たしかに離人感が強いときの感覚はよく臨死体験にたとえられるけど。たまに生まれ変わるならまだしもしょっちゅう臨死してたらやってらんないよね。そりゃあ言いたくもなるよ。〝誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?〟って』


『あらそれなら。私の知り合いに心臓手術したことのある人がいるのだけれど』


『へぇ、君に知り合いなんていたんだね』


『手術する前に看護師さんから事前に説明されるんですって。術後しばらくはせん妄状態といってここはどこでいつなのか、わからなくなる瞬間があるかもしれませんって』


『せん妄? あんまり聞かない言葉だけど』


『つまりあれよ。全身麻酔して気づいたときには手術も終わって記憶が飛んでるわけでしょう? 状況も飲み込めないうちに全身には管が刺さっててICU……じゃなかったCCUのベッドに横たわって身動きも取れない。それで自分が誰かも思い出せないうちに名前を呼ばれてどうもその名前は自分らしいなと、一応返事はするけど他人事みたいで違和感が凄い。らしいわよ』


『なるほどねー』


『あら、返事がおざなりすぎるじゃない』


『だって長いから。さ、いい加減チアキたちを舞台に送り出さなきゃ。地球座へさ』


『あら、もっと劇的にここから先は向こうの世界ですって方が盛り上がると思うのだけれど』


『いまさら何言ってるんだか。この劇場は何だってグラデーションが好きでしょう? 白かったものがいつの間にか黒くなってたり』


『黒かったものが白くなってたり?』


『いっそここから先が死でここから先が生ですってはっきり境界線があればわかりやすいのにね』


『あら、それは無理な話よ。もともと同じ道の両端ですもの。言葉でふたつに分解してしまおうって方が無理があると思うわ』


『分解したらちゃんとくっつけないと夢も見れないし?』


『そうそれよ。私前から思ってたの。物語って分解された心をくっつける力がある気がしない? シェイクスピアだって黒死病が流行ってグローブ座を閉鎖してるときにはステイホームして物語をいくつも書いてた訳でしょう? でも実際作品に直接描かれるようなことはなかった。せいぜいロミオとジュリエットがすれ違うことになる間接的な原因として描かれてるくらいで』


『あれでしょ? ロミオに筋書きを書いた手紙を届けるはずが、肝心の手紙を託された僧がペストの検疫で何週間か隔離されることになって間に合わなかったっていう』


『そうそれ。それでもかなり間接的。シェイクスピアという人はきっとリアリティを追求する以上にエンターテイメントを描きたかったんじゃないかしら』


『さあ会ったこともないから。それにほんとにそろそろ終わりにしなきゃ。チアキが待ってる』


『終わりは始まりですものね。じゃあ私〝天国〟でぶどう酒でも飲みながら観てるわ。お祝いしなきゃ。新しい旅の始まりを』

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