鈴の音

 暗闇の中を、僕は走っていた。


『待って! ねぇ、待ってよ』


 追いかけて追いかけて、息も絶え絶えに手を伸ばすと、人影は振り向きざまに何か呟いた。


『……え、なんて?』


 不意をつかれて立ち止まる僕を、ひらりとかわして人影はみるみるうちに遠ざかる。

 足がもつれる。視界が滲む。

 ただ白い歯車が、無常の風に吹かれてくるくると回っていた。


「待ってよ、待ってったら! うわっ――」


 無様に床に転がり落ちた僕は、見慣れぬ天井めがけて左手を突きだしていた。


「……えーと」


 痛む頭をさすりながら、伸ばしたままの左手を茫と眺める。


「…………赤い糸……小指……左手の……」


 あぁ、と確認するように呟いて、僕は思わずはぁー、と気の抜けたような長いため息をついた。


 ほどなくして無様な格好の自分が急に恥ずかしく思われて、何事もなかったかのように小指の糸を外すと、そっとポケットにしまった。

 暖炉の薪はとうに燃え尽きたのか、静まりかえった応接間にはどこからか鳥のさえずりが響いた。もう明け方だろうか。


 痛む頭を引きずって二階の子ども部屋へ向かう途中、ステンドグラスがきれいなあの絵葉書に思わず目をとめた。


〝Glory to God in the highest, and on earth peace among men in His favour! Luke 2:14〟


「Luke……ルケ? はさすがにないか。ルカ、リューク、ルク、るー……ク?」


 写真に添えられた青いインク文字が何と言っているのかは相変わらずわからなかったけれど、五彩に煌めくステンドグラスはやっぱり綺麗だった。


『昔お世話になった学校の中に小さなチャペルがあってさ。毎年この季節になると届くんだよ、忘れたころに。クリスマス礼拝のお知らせってやつ。絵葉書が綺麗だからいつもなんとなく飾っちゃうんだ』


 マスターの声が頭をよぎった。

 そうだった。そういえば今日は、クリスマスだった。



 ◇



 おそるおそる子ども部屋の扉を開けると、マヌーはまだ寝息をたてて眠っていた。夢じゃない。姿を一目見てようやく現実に戻ったような気がした。

 二階を去り際、カフェの方で微かに鈴の音が聞こえたような気がした。


「……気のせい……?」


 人気のない朝方のカフェは静まりかえっていた。

 気になったのはまだそう日が高くないのに廊下に差し込む眩しいくらいの光で、不思議に思った僕は中庭横のキッチンへ向かった。


 キッチンの天井には川の水面を反射したような光の波が揺らめいて、窓辺に置かれたガネーシャ像は後光を纏って神々しく見えた。

 一体何事だろうとブラインドの下がったガラス張りの扉を押し開けると、外は一面の銀世界だった。


 まばらになった木々の間からのぞく青空に、小枝の雪がプリズムのようにキラキラと輝いて、白銀の世界に鮮やかな虹色を添えていた。

 朝日をうけてわずかに溶け出した雪の雫が、そりの鈴のように一定のリズムを刻んでいた。冴え冴えとした冬の白い朝だった。――


 リーンと伸びのいい鈴の音が聞こえて振り向くと、開け放したままの扉からポーンが現れた。

 実のところ、ポーンは昨晩マヌーのそばを片時も離れようとしなかった。何度ひき剥がしてもマヌーのおへその上あたりで丸くなってしまうのでマスターと奥さんは困り果てていたっけ。

 志を同じくする同志のような気分で僕は労いの気持ちを込めて話しかけた。


「おはようポーン。雪、綺麗だね」

「ニャッ」


 ポーンが軽快に鳴いた。


『心配ない。無事に任務は果たしたぞ』


 そう言っている、気がした。


 僕の足の間を縫うように通り過ぎると、ポーンは何やら狩りをするような姿勢でしっぽをふりふり、まだ誰も踏み入れていないまっさらな世界へ一番乗りで飛びこんだ。

 というよりは、見慣れない雪を確かめるように右手だけ雪の上にチョンと置いただけだった。一体何のための助走だったのかわからないくらいだ。


 冷たさに驚いたのか水滴を払いたかったのか、ポーンはすぐさま右手を振り払いながら引っ込めた。

 すると左手を高く持ち上げて、今度こそ飛び込む勢いで、やっぱり左手の先をチョンと置いた。

 しまいには真剣な顔で飽きもせず何回も同じことを繰り返しているので、僕はたまらず吹き出してしまった。


「ニャア」


 振り向きざまにポーンが鳴いた。


『ボクはあくまで真剣だ。今この瞬間を真剣に生きているのだ』


 そう言っている、気がした。



 ポーンのために雪玉をいくつも作っていると、ふいに後ろから肩をたたかれた。

 中庭の真ん中で、雪にきらきらと輝く琥珀の瞳は、あの懐かしい眼差しのままだった。


「マヌー」


 名前を呼ぶと、彼はふっと笑った。

 ただそれだけのことで、今朝方から僕の胸の内に巣食っていた不安は一瞬で溶けてしまった。――


 中庭の雪があるうちに、僕たちは丸いものが大好きなポーンのために昨晩の感謝を込めて大きな雪だるまをつくることにした。


「マヌー、雪だるまならもうちょっと上のほうが小さいほうがいいんじゃ」

「え、そう? いけるいける、大丈夫!」

「大丈夫じゃないって」

「うわっ!」

「ほら~」

「いける気がしたんだっ」

「もう、マヌー言い出したら聞かないんだから。今度はもう少し小ぶりなのにしようよ」


 残念ながら神さまは僕たちに雪だるまをつくる才能は与えてくれなかったみたいだ。

 するとポーンが土台だけ残った雪だるまの上によじ登って何やらじっとしている。ガネーシャ像の真似でもしているつもりだろうか。


「何してるのポーン」


 相変わらず微動だにせず神々しく鎮座するポーンに、僕もマヌーもたまらず吹き出してしまった。やはり彼にはコメディアンの才能があると思わずにいられない。


「ニャア」


 雪だるまの上でポーンが神々しく鳴いた。



『心配ない。悲しまないで。ぼくがみんなを守ってあげる』



 凛とした鈴の音が、白い世界に響きわたった――。

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