曼珠沙華
37.十一月二十日、納骨
街が褪せ、冬に覆われる頃、僕は退院した。
脚に麻痺が残った。膝が上手く曲がらない。意志なき枝のような足を、肘かけがある大きな杖、二本のクラッチに縋って引きずる。
隣には安蘭がいる。僕の服が詰まったボストンを提げ、僕にあわせてゆっくり歩く。
「寒いわね。マフラーを持って来ればよかったわ」
「持っているじゃないですか」
安蘭は赤いコートにいつもの赤いストールを巻いていた。安蘭がそれを解きながら言う。
「貴男のぶんをよ」
僕の首元にストールが巻かれる。僕は顔を背けてくしゃみした。コルセットに支えられた腰にジンと響く。
助手席に乗り、クラッチごとシートベルトを締める。駐車券を咥えた安蘭がエンジンをかける。唸りと共に温んでいく車内。僕はぼんやりと安蘭の唇を見ていた。
駐車場を出ると、僕の墓とは反対方向に曲がった。何か用事があるのだろうか。
僕はしばらく黙って景色を眺めていた。街路樹は裸なのに、商店ばかりがクリスマスに浮かれ煌びやかだ。金や緑や、スカーレットが飾り立てる社会。あまりに快活で、近寄れない。僕を排斥する世界。
「何処へ行くのですか?」
半時ほど走り、流石に不安になった僕は問うた。安蘭は当然のように言う。
「貴男の家よ」
「こっちじゃないんですけど」
「うん、引っ越したから」
僕は安蘭の横顔を凝視する。安蘭は赤信号にブレーキを踏むと、こともなげに僕を見返した。
「だってもう階段はのぼれないでしょ」
墓に続く、手すりのない、つるつるした古いコンクリートの階段。クラッチでは確かに上れない。そこまで考えていなかった。思い起こせば小さな段のある敷居も、何の手掛かりもない風呂も、もう使えない。
ウインカーが鳴る。車は駅前の大きなビルの地下へ潜っていった。
視界が刹那だけ暗転し、整然とした駐車場が現れる。数字の書かれたスペースに頭から乗り込む。
外へ出るとクラッチでコンクリを叩く音が反響し、駐車場一面に伸びた。
安蘭は僕をエレベーターへ連れた。迷いなく最上階のボタンを押す。こんな高い所へ行くのは初めてかもしれない。
新居は広かった。リビング・ダイニングと言うのだろうか。扉を使わずとも食事、睡眠、日常生活に事足りる。流石に風呂とトイレは仕切られているが、転んでも変な角に頭を打たないで済むくらいのゆとりがあった。安蘭が僕の事を考え、一生懸命選んでくれたのだろう。
「ありがとうございます。暮らしやすそうです」
安蘭は誇らしげに胸を張った。ミュージカルでも始めそうな足取りで洗面所へ歩き、ボストンの中身を洗濯機に放りこむ。
「それじゃあ、私はそろそろ空港にいくわ」
「え? 出発、今日だったんですか?」
「うん。できるだけ早くって話だから」
僕は絶句する。別れの挨拶など欠片も考えていなかった。ぜんそくで入院した時、または大学に通っていた時みたいに、安蘭が逢いに来る日々が続く気がしていた。僕は戸惑い、目を泳がせる。
部屋の隅にパソコンがあった。僕はこんな高価な物、持っていなかったはずだ。そんな僕を見て安蘭は言う。
「それ、私からのプレゼント。使いかたがわからないから全然いじってないんだけど、私と電話やメールができるように、いつでも連絡が取れるようにしておいてね」
この部屋をプレゼントに数えない安蘭が少しおかしかった。微笑みが浮かぶ。安蘭も微笑んだ。花のように。
「また来るわ。ずっとここにいてね」
「ずっとって……あのっ! また来てくれるんですか?」
「当然よ。貴男の未来、私が買い取るわ。ここで死んでいなさい」
僕は安蘭の手を取ろうとしたが、あいにく両手とも杖で塞がっていた。かける言葉も思い付かぬまま、安蘭はオートロックの向こうへ消えていった。
僕は放心しソファーに身を委ねる。きゅうと痛む胸。
少しだけ安蘭の香りがした。
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