38.三月十八日
柔らかな日差しが注ぐ。街路樹の根本や花壇の隙間に小さな芽吹きが見られる。
僕はクラッチをついて町中を歩いていた。
コートは要らなかったかもしれない。動いているうちに胴が汗ばんできた。大振りのショルダーバッグが僕のぎこちない足取りに合わせ揺れる。中には新作のライトノベルと、デパートで買った今日の食事が入っていた。
カードキーでマンションのエントランスへ、エレベーターで最上階へ。
部屋のノブに、不在のうちに掃除を済ませたと、清掃会社のタグがかかっていた。それもショルダーに押しこみ、玄関を開く。
「ただいま」
呟いて、帰宅。
つけっぱなしのパソコンにメールが届いていた。僕はそれを横目に、冷蔵庫の前へ椅子を引き寄せて座り、今日の食材を納めていく。チルドの片隅には先月安蘭が置いていったドライフルーツも残っている。
別れ際の疼きが馬鹿らしくなるほど、安蘭はしょっちゅう帰国した。長くても一カ月半以上開けていない。そのたび土産を持って逢いに来た。現地の民芸品のこともあれば、名産の食べ物のこともある。公園の建設や各国の展覧会で成果を残しているはずだが、そのパンフレットや新聞を持ってきたことは一度もない。この部屋では仕事を忘れたいのだろう。
安蘭は海外に居ても毎日メールか電話をしてきた。こちらの時刻などお構いなく夜中や早朝に寄越す。
食材の収納を終えた僕はパソコンの、安蘭との連絡用端末の前に座る。
案の定メールは安蘭からだった。
『おはよう陽石さん』
ほら。もう昼の二時である。僕は笑って次の行を読む。
『体調はどう? こっちは起き抜けから暑くてしんどいわ。
ホテルのすぐ外が海だったから気分は良いのだけれど。
海って綺麗だけれど少し騒がしいよね。
波の音さえしなければ最高だと思うわ。
もしかして五月蠅くてよく眠れてないのかしら。
こういう朝は珈琲が美味しいよね。
珈琲よりは紅茶が好きだけれど、疲れには珈琲の方が効くわ。
甘いお菓子を摘みながら飲むとすぐに元気になるわよね。
逆に、夜に飲むと寝つけなくなるのだけれど。
夜と言えば、昨日の夜、貝殻を拾いたくて浜を歩いてみたの。
何も落ちてなかったわ。
綺麗すぎる海にはイキモノが居ないんだって。
洸さんが教えてくれたわ。
そうそう、言い忘れていたけれど今日中にまた帰るね。
もうすぐ近くに居るのよ。
急に何の用事かって?
いつか陽石さんから紹介された仕事あるでしょ。
名前忘れたけどベンチャーさんの。
あのランプの発売日が明日なの。
発売記念イベントに出なきゃならないわ。
記念イベントのある街の観光地を洸さんが調べたら……』
僕は画面をスクロールしながら、日記にも似たメールを読み進める。
安蘭の綴る昨日はいつもまばゆい。意気消沈や疲労困憊の様子はうかがえない。きっとそんな気枯れを拭い去る役目をこそ、夫の洸青年が担っているのだろう。
僕はキーボードに指を添え、安蘭に返事を打つ。精一杯の丁寧さで、語彙という語彙を駆使して書きつける。安蘭が見聞きした極彩色の世界に感嘆し、僕の過ごす変化無き日常を報せていく。
僕は大学を辞めた。日がな安蘭と連絡し、ライトノベルを読むだけで暮らしている。一番心地良い時間に食事を買いに出る。体調を崩す日の為のレトルト以外、買い貯めていない。筋力作りのため毎日外へ出た方が良いと、安蘭に言われて。
安蘭の宣告通り僕は死んだ。安蘭に与えられた居場所で、安蘭に与えられた金を使い、社会の産物を消費するだけの存在に成り果てている。安蘭の要求に応える他は、何もしようと思わない。僕がこの生命を可能なだけ健康に維持する。それだけで安蘭は喜んでくれる。
この生活がいつまで続くかは分からない。でもそんなの、どんな暮らしをしていたって同じだ。どうせ出るべき社会もない。死んだままでいい。
メールを打ち終わった僕は、クラッチを使って椅子をこぎ、昔の墓から運び出された机に向かう。全ての調度品が清潔なこの空間で、ただ一つ妙にみすぼらしい。引き出しを開け、カッターの刃の残りを確認する。
安蘭はきっと僕に手首を切るようせがむだろう。僕はこの机で刃を振るう。安蘭は後ろのソファーに身を横たえて僕を観る。甘く熱い吐息を漏らしながら。
安蘭の贈り物と気配に満ちたこの部屋は、曼珠沙華畑みたいだ。毒を放ち生者を、正常な者を寄せつけない。だから誰にも邪魔されない。赤い気配に包まれて、僕は好きなだけ眠れる。
チャイムも鳴らさず玄関を開ける音。
僕は椅子を回し、安蘭の登場を待った。
両脇にそびえる本棚。それを埋め尽くすライトノベルが僕らの重ねた時間の長さを物語っている。何のとりえもない男が美少女に見初められ、美少女の危機を救い、そして幸福を手に入れる。そんなライトなお約束に近くもかけ離れた現実がここにある。全てが揃っているけれど何一つ持っていない僕。僕を救い、僕を癒し、そして僕を必要としてくれる安蘭。
きっとあと数秒で、曼珠沙華色のストールがその角から現れる。
僕の背後ははめ殺しの窓だ。その外に、僕が地べたを這って暮らした町が広がっている。以前より天に近い、安蘭が設えたこの墓で、僕は死ぬ。死に続ける。
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