24.十月八日
その日はなかなか安蘭が現れなかった。空腹に携帯の時計を見ると午後一時を回っていた。安蘭にしては珍しい。
間もなくメールが来た。打ち合わせが長引いていて、もう少し遅れるとのことだ。全く構わないです、とメールを返し、僕は本棚のライトノベルを取る。
休学の心づもりを固めた今、時間はいくらでもあった。大好きなライトノベルをいくらでも読んでいられた。読み切ったら新しいものをネットで注文すれば良い。決済先はいつの間にか、代引きから安蘭の口座に変わっていた。
巻頭カラーのイラストをながめる。美少女が男の腕にすがりつき、満面の照れ笑いを浮かべている。
ライトノベルの何が好きかといえば、その「軽さ」だ。悲劇も苦悩も何もかも、現実の重さを持たず、薄い文庫よろしくチープ。歓喜も同様に軽薄だが妬まずに済んで良い。ただシチュエーションのもたらす快にニヤけたり身悶えすればいい。
現実もこれほど軽ければどんなにか。薄ければどんなにか。都合が良ければどんなにか。本を閉じれば終わってしまう儚いものであれば、どんなに救われるだろうか。
扉の開く音がして、僕は本に栞を挟んだ。入ってきた安蘭を一目見て分かった。ご機嫌だ。
「こんにちは。今日は銀座にいってきたわ。じゃん」
安蘭が箱を掲げる。可愛らしいパステルオレンジのストライプに、カフェの名前。有名店の何かをテイクアウトして来たのだろう。安蘭が机で箱を開く。中はパンケーキだった。
「そして、じゃん」
安蘭は生クリームのパックを取り出した。僕をキッチンへ追いたてる。
「あわだててよ」
子供みたいにはしゃぐ安蘭が微笑ましかった。仕事が余程上手くいったのだろう。
僕は急かされるまま、金属のボウルと壊れかけの泡だて器を取り出す。安蘭は惜しみなく全てのクリームをボウルの中へ注いだ。砂糖を探し、買いおきがないと分かると、紅茶用のスティックシュガーをいくつか入れた。
僕がさくっと泡立ててあげられれば良かったのだが、あいにく腕の筋肉は落ちきっている。僕と安蘭は交代しながらクリームを掻き回し続けた。安蘭は案外腕の力があるようだった。ひがな彫刻刀や筆を持っているせいだろうか。実際にその姿を見たことはないが、がっしり太い上腕が鍛錬の日々を物語る。上機嫌にリズミカルに泡だて器をスナップする。
「ねえ、味をつけてもいい?」
クリームに小さな角が立ち始めた頃、安蘭は言った。僕は泡立て器を止めて了承する。てっきり砂糖を加えるのかと思って。
「いいですよ」
「じゃあ、カッター持ってくるね」
「へ?」
安蘭は僕のデスクを勝手に開け、カッターナイフを持ってきた。僕はまだ状況を把握できない。
「果物ですか? ナイフならシンクの脇に……」
「貴男の血をいれたい」
「……。チョコ?」
「血」
「チョコ?」
「血液よ。貴男の」
「……」
安蘭は満面の笑みでカッターの刃をカチカチカチカチ伸ばしている。僕は静かにボウルを置く。やっと安蘭の言わんとする事を理解した。
「……僕のは別にしましょう」
「なんで?」
「自分の血を食べる趣味はありません」
「そうなの?」
ある訳ないだろ。
僕は手近な皿にクリームを半分移す。僕が皿を置くか置かないかの時点で、安蘭はもうカッターナイフを差し出していた。
安蘭が期待に満ちた瞳で僕の手を注視している。僕は刃の長さを調整する。安蘭の息はもう荒くなっていた。
まぁ、別に構わないけれど。
いつもと違う場所でするのは変な感じだ。
僕は果実を剥くように刃を滑らせる。静脈血が肌を伝い、一滴ずつ純白のクリームへ落ちた。柔らかな白の中へ黒味の赤が埋まってゆく。ずぶりと沈みこむ。怠惰に呑まれていく。
あまり深くは切らなかったので、血はすぐ止まってしまった。
安蘭は嬉しそうにボウルと泡だて器を取る。血を掻き混ぜようとし、余程興奮していたのだろう、手元が狂ってクリームが飛び散った。ばっと安蘭の胸元と頬を汚す白濁液。安蘭はそんなの気にならないとばかりに血液クリームを混ぜ続けている。
僕は止血に行くふりしてキッチンを離れ、色々落ち着くまでじっと安蘭に背を向けていた。
血は上手く混ざらなかった。薄茶と黒赤の斑になった汚いクリームを、それでも安蘭は幸せそうにパンケーキへ山盛りして食べた。僕は僕で普通のクリームをなびりながら、安蘭の胸元の染みを見ていた。混乱していて、パンケーキの味など分からなかった。
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