17.XXXXX
呼吸困難の果てに悪夢を見ていた。
「おかーさん! おかーさん!」
僕は母の背に呼びかける。まだ遥か高い、見上げるほどの背に。
母は料理の手を止めない。振り向きも、返事もしない。
部屋にはゴミが散乱している。ゴミでないものも散乱しているが、区別などつかない。悪臭がしている。
「おかーさーん」
何度目かの呼びかけでやっと菜箸が止まった。母は半分だけ振り返る。
「……なに」
「今日ね、××くんがね」
公園での出来事を拙い語彙で語る僕。母は言葉少なに相槌する。
「……そう」
その相槌に何の心もないこと、僕が気付くのは、もう何年も後になる。
話し終えて満足すると、僕は子供用の椅子に飛び乗った。無邪気に問う。
「今日はおとーさん帰ってくるかなぁ」
菜箸が、止まった。
母の一挙一動の意味を僕は知らない。無知の幸福に包まれて、僕は椅子から降り、母の足元に縋った。
「ねー、今日のごはん何ー? ねー、ねーってば」
母の手が不自然に動いた。少なくとも半分以上、わざとだったと思う。フライパンが跳ねあがり、煮えたぎる酢豚が目の前に迫る。
自分の悲鳴が鼓膜をつんざく。僕は床をのたうちまわる。餡はべたつき剥がれない。床に顔を擦りつければ皮膚がずれる激痛。たまらず腕でこすると、頬が破れた。ぬるい血が噴き出す感触がした。餡の移った腕も焼けてゆく。
喉が裂けるほど叫んだのに、助けてくれなかった。
それ以来、僕の顔は半分潰れている。父に似ているかなんて、分からない。
酔余のような淡い目覚めと微睡みを繰り返していた。
いくつかは悪夢ではなく、苦痛に満ちた現実だったのかもしれない。もう何処が苦しいのか分からない程に辛かった。この時間が早く終わってさえくれれば、結末は治癒でも死でも何でもよかった。
枕元に安蘭が居た気もした。声をかける余力はなかった。疑ったり恐れたりの気力もなかった。
人の気配があろうとなかろうと、誰であろうと、今の僕には関係ないのだ。狭窄する喉、自分の内面との戦いに必死で、外に働きかけるなんてとても無理だった。
何日と何時間経ったか知れない。
僕は酸素マスクの下で天井を眺めていた。斑模様の天井が無数の虫に見える。
足音がしたが僕は無気力に上を向いたままでいた。赤い残影が視界の隅を横切って、やっと僕は顔を倒す。
安蘭が枕元のパイプ椅子に腰かけている。脇のターンテーブルには書類が散乱していた。何の書類かよく見えないが、患者欄に僕の名前が、そして連帯保証人に安蘭のサインがあった。つまり、今までの厄介は安蘭が請け負ってくれたのだろう。
すみません。
言ったが声が上手く出なかった。安蘭は首を横に振った。
「謝るよりも『ありがとう』が欲しい。それも、もう少し元気になってから」
僕は頷く。安蘭は優しく微笑んだ。そういえば笑っている以外の顔をほとんど見た事がないな。そんな事を考えながら、酸素マスクの当たった鼻筋が痒くなり、左手を上げる。
いつの間にか検査着を着せられていた。検査服は半袖だった。赤黒い縞模様の腕が露わになっていた。傷と傷の間を縫うように変な位置から点滴の管が出ている。
もう全て見られてしまったのだな。柔らかな諦めだけが降ってきた。鼻を掻くと爪に垢が詰まった。
講義もバイトもしばらく出られないだろう。自力で生活する事することすら、かなわないだろう。
何もかもを手放し諦めていた。この穏やかな諦念が焦燥に変わるまで、失った物の重さと向きあえるようになるまで、しばらく安蘭に渡していよう。感じること、考えること、世界に打つべきレスポンス何もかもを。
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