12.九月十一日、夜、カッターの刃
今日は少し高めの洋食屋に誘われた。満面の笑みな安蘭を見ながら、僕はそっと溜め息を吐く。
お洒落な店は好きじゃない。僕の見てくれはこんな所で食事をするに相応しくない。現に涼やかな色の灯りが漏れる窓辺には、着飾ったカップルが何組も座っている。僕は僕にお似合いな暗がりへ自転車を止める。
安蘭が駆け寄ってきた。暗がりでも光る明るい金髪、瞳、笑顔。安蘭は僕の腕に触れながら晴れやかに言った。
「今日もアルバイトお疲れ様! このお店、オムライスがとっても美味しいのよ」
「それは楽しみですね」
近い近い。レジ打ちで鍛えた笑顔を貼りつける。
これは仕事だと何度も自分に言い聞かせながら、安蘭の後について店へ入る。
安蘭のしなやかなスカートが透ける。ヒールの音が高らかに床の木目を叩く。その上に重なる僕の咳の音。
席に着いてすぐ、安蘭の勧め通りでテキトウに注文した。
繊細なレースで縁取られたテーブルクロスが手に当たりくすぐったい。僕は手の甲を掻きながら、まずは社長の頼みごとを済ませる事にした。
「安蘭さん、実は頼みたい事がありまして」
「本当に! 何? どうしたの? いくら必要? 何をすればいい?」
身を乗り出す安蘭。僕はたじろぐ。どうして喜んでいるのか。誕生日プレゼントを貰う直前みたいな眼差しだ。顔を背け、僕は財布から社長の名刺を出す。
「僕のバイト先の社長が安蘭さんを紹介してほしいと申していたのですが」
「なるほどいいわよ」
安蘭は文字通りの二つ返事で携帯を手に取る。名刺を見ながらアドレスを打ち込み始める安蘭。僕は問う。
「そんな簡単でいいんですか?」
「貴男の頼みだもの」
さらりと言い切る。僕は何とも返せず黙ってしまった。
安蘭は携帯で文章を打ちながら微笑む。
「貴男のおかげで今の私が元気なんだから、貴男の頼みはなんでも聞きたい。これからも何かあったらすぐ相談してね。そのために食事に誘ってるんだし。じつは単純に会いたいだけだけど」
「あ、はい、ありがとうございます」
立て板に水、怒涛の如く、降り注ぐ好意の雨に僕はたじろぐ。流されぬよう踏ん張るのは骨が折れる。いっそ耳を塞げたらどんなに良いだろう。この雨から逃げ出したい、逃げ出したい。
僕は俯いて、独り言のように問うた。
「どうしてそんなに良くしてくれるんです?」
「うん?」
「どうして僕を助けてくれるんですか」
「貴男に救われたからよ」
「いつです?」
僕は顔を上げ、安蘭を見据えた。嘘の片鱗でも見えれば掴んでやろうと。
安蘭は困ったように笑っていた。
「言えないなんてもしかして」
僕は追及の言葉を止める。皿を二つ持った店員が近付いてきていた。
パステルブルーのエプロンをした店員は、僕と安蘭の前にオムライスを置いた。安蘭が携帯をしまってスプーンを取る。勢いを折られてしまった。
僕も仕方なくスプーンを取った。向けたスプーンの先で照る半熟卵。
いつまでたっても食べない僕に安蘭が気付いた。
「どうしたの?」
「すみません。僕、生卵はアレルギーなんです。完全に火を通せば食べられるのですが」
メニューをろくに読んでいなかったツケだ。僕はスプーンを置く。安蘭の奢りである以上食べないのは気が引けるし、作り直させるのは店員に申し訳ない。
しかし安蘭は店員を呼び、皿を片付けるよう指示した。その堂々とした態度に負い目はない。
「すみません」
「なんで?」
なんでと言われても。買った物を捨てようが使おうが同じとばかりの態度。いや、実際に同じなのだろう。この釈然としなさはきっと、染みついた貧乏人根性だ。
「アレルギーまでは調べさせてなかったわ。他に何があるの?」
調べないでください。
心の中で突っこみを入れながら、二度咳をする。
しかしまぁ隠すほどの事でもないか。
「食べ物は生卵と蕎麦とエビです。植物はイネとスギとブタクサ。ハウスダストとカビ類。鱗粉の出る虫。金属。ある種の布地。でも一番酷いのは、動物の抜け毛ですね」
「それだけをさけながら生きるなんて大変ね」
「避けきれませんよ。僕は存在するだけで世界の攻撃に曝されるんです」
吐き捨てる。
そう、僕は全てに嫌われている。人間に疎まれ、自然に虐げられ、何をも僕を護ってはくれないのだ。
安蘭はふいと真剣な表情になった。思わず視線を合わせてしまう。
その奥にあるのは憐憫や同情ではなかった。何だか分からなかった。今まで出逢った事のない、芯が通った強い感情。それは僕の心臓を貫いて鼓動を早めた。手が震える。恐ろしくすらあるのに、どうしてか目を逸らせない。
安蘭は何かを言いかけて、やめた。空気の読めない店員が注文を取りに来た。
十数分後、改めて注文したワッフルを切りながら僕は提案する。
「アレルギーの問題もありますし、今度は食事ではなく公園や映画にでも出ませんか?」
移動に力を割く分、会話が薄まって楽になるのではないかと思った。喜ぶかと思えば安蘭は首を横に振った。
「貴男と食事がしたいのよ」
声色に影が落ちていた。多分彼女にとって食事を共にすることは、僕のそれとは違う意味を持っているのだろう。重要度の食い違いなどよくある事だ。僕は平謝りする。安蘭は許してくれた。
改めて微笑みを向ける彼女を見ながら、嫌われ離れるチャンスだっただろ、と胸中の僕が叱咤した。
食事を終え、会計する安蘭を待つ。
少しベルトがきつい。安蘭と良い食事を重ねているうち太ってきただろうか。元々骨と皮みたいな体だったから喜ぶべき事なんだろうが、どうにも複雑だ。そんな事を考えていたら安蘭がレジから離れた。思わず腰の辺りに目をやる。スカートのつけねがくびれていた。
安蘭と共に外へ出る。
雨が降っていた。食事中に降り始めたのだろう。店の前はもう薄く大きな水溜りになっている。疎らだが大きい雨粒が舞う。幾多の水紋を広げては消え、重なる。
安蘭は戯れに庇から手を出し、雫を受けた。長い指から雨が滴る。
「この天気じゃ歩いて帰るのは無理ね。洸さんを呼ぶわ。貴男も乗る?」
「自転車を置いていきたくないので遠慮します」
「そうよね。気をつけて」
酒匂青年に逢いたくなかっただけなのだが、安蘭は疑う素振りすらない。
安蘭が迎えを呼ぼうと携帯を取り出す。携帯の角に引っかかって、何かの鍵が床に落ちた。僕は咄嗟に拾おうとする。
「え?」
思わず声が出た。鍵の隣、キーホルダーに目を奪われていた。
透明な樹脂を雫型に固めた、一見よくあるアクセサリだ。普通なら樹脂の中にはガラスやラメが沈んでいるだろう。しかし、目の前の雫に閉じこめられているのは、鋭利な金属片だった。菱形に尖り、鈍く光り、一辺に赤黒い液体がこびりつく――カッターの刃。
消えた安全刃折器の中身があった。僕が手首を切ったあとの、カッターの刃だ。重なり合って十数個。
僕の自虐を封じた雫が、静かな灯を歪めて光る。
安蘭は僕の指先をかすめてそれを拾いあげ、照れ笑いした。書きかけの恋文を見られたように頬を染めている。欠片の罪悪感も見当たらない。雨より透明な笑顔だった。
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