1000文字外来語辞典

灘田勘太

メランコリック


「あと俺は、キリマン・ジャロ一つ」

 最近出来たこじゃれた喫茶店に、俺は同期の斎藤を連れだってきていた。内装もかなり凝っていて、居心地は最高だ。後は肝心のコーヒーが旨ければ何も言うことはないのだが……。

「もう一回言ってみ?」

 店員のお姉さんが厨房に入ったタイミングで、斎藤はこう切り出した。

「あ?」

 意味が分からず聞き返すと、斎藤はにやにやしている。

「だから、キリマンジャロってもう一回言ってみ」

「キリマン・ジャロ?」

 突然、斎藤は噴き出した。

「いやいや、じゃろ? ってじいちゃんかよ。キリマ・ンジャロな。お前意識高い系の割に意外とそういうこと疎いのな」

 なんだと。俺はその瞬間、雷に打たれた。ンジャロってなんだ。そんなところで切るなど、俺の常識ではありえない。いや、俺の常識がおかしいのか。これまで当たり前のように呼んでいたものの名は、実は違っていたのではないだろうか。

 すると突然さっきまで見知っていたはずの世界が急によそよそしく見えた。例えば今俺が座っている椅子に掛けらたブランケット。これはなんだ。ブラン・ケットか? ブラ・ンケットか? いやいやブランケ・ットということもありうる。うむ、発音できないこともない。

 「お待たせいたしました。ブルーマウンテンとキリマンジャロになります」

 では、私は今まで何をやってきたというのか。一角の人物になろうと苦学したあの日々は、ただただ空想を持て遊んだ虚無の時間に過ぎなかったのだろうか。だってそうだろう。これから会うこともないであろう大統領の名前を知っていて、いつも私の傍にあるものの名を知らない。これほど虚しいことなどあろうか。いや、前者も怪しくなってきた。ドゥ・テルテかドゥテ・ルテかド・ゥテルテか…。

「お前すごい顔だぞ、大丈夫か」

「斎藤、お前の飲んでるそれはブルー・マウンテンだよな。ブルー・マ・ウンテン、じゃないよな。ブ・ルーマウ・ンテン、じゃないよな。ブル・-マ・ウンテ・ンじゃないよな。それとも……」

「どうしたどうしたどうした。よくわからんがとりあえず一杯飲んで落ち着け」

 斎藤に促されて、私は躊躇いながらもコーヒーを啜った。旨い。仄かな苦みが鼻から抜けていって、私はふうとため息をついた。最近根を詰めすぎていたせいで、ささいなことでメランコ・リックになってしまったのかもしれない。さてもう一口……ん? メラン・コリック……?






 ★メランコリック(melancholic) 

憂鬱な気分を表す言葉。語感は何となく楽しそうなのにね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る