事件(4)


 一凛の話を熱心に聞いていたスタッフ達の顔をひとりひとり思い出す。


 あの中の誰なのだろう。


 そしてハルが襲ったのが女ではなく男でよかったと思ってしまう。


 どこかでどんな理由でもハルが人間の女性を傷つけたりしないと信じている自分がいた。


 ハルの手はそんなことをするためのものではないと。


 ハルの手は女性にやさしく触れるためのもので荒々しく傷つけるためのものではないと。


 一凛はまだ一度も触れたことのないハルの大きな手が自分の頭を優しく撫でるところを想像し、すぐに伊吹よりも不謹慎な自分を戒める。


 いったい自分はこんなときに何を考えているのだ。


「今どこにいるんだ?」


 依吹に訊ねられる。


 一凛はハルがどこにもいないこととスタッフたちのあからさまな対応を早口で伝えた。


 園長は依吹にも固く口を閉ざし、何があったのかを話そうとしないらしい。


「それに実は困ったことになってるんだ」


 動物園のゴリラが人を襲ったとマスコミが嗅ぎつけたらしく、すでに病院に記者たちがやって来始めているというのだ。


「そっちにももうマスコミが行ってるんじゃないか?」


 一凛はさっき事務所で鳴り響いていた電話を思い出す。


 正面門には来たときはいなかったバンが何台も止まっていて、依吹の言うとおりマスコミが押し寄せ始めていた。


 一凛は踵を返し裏門へ向かう。


「マスコミに捕まるなよ」


 依吹は一凛を心配していた。


 こういった事件が起こると一凛は専門家として意見を求められる。


 その動物はなぜ人を襲ったのか、原因は何なのか?


 今回もすぐに一凛にオファーがくるだろう。


 でも今回は少し状況が違う。


 一凛が依吹の動物園の調査に携わっていたことと、もしハルの移動計画を一凛が指示したものだと分かれば、事件の原因追求の矛先が動物園から一凛になりかねない。


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