さらば失敗作少年少女(仮
二階堂くらげ
001 邂逅
さらば失敗作少年少女
001
冷たい風に流されて花の匂いもまだ香り立たぬ北国の初春に二人は出会った。よく目を凝らせば見える木の芽よりも、遠くからささやかに聞こえる小鳥の鳴き声よりも、初々しく制服に身を包んだ新入生の姿が鮮やかに春の到来を街に知らせていた。
昼間の麗らかな陽気は眠るように居なくなり、夕暮れが色もなく街を寝かしつけようとする頃、校舎は新入生とそれを目当てにした生徒で溢れかえり活気に満ちていた。その日は金曜日で新入生が入学して二度目の週末を迎える前日、入学直後のオリエンテーションの一環として行われる部活動紹介発表を経て設けられた一週間の部活動お試し見学週間と呼ばれる週の最終日だった。月曜日から週が進むにすれて少しずつ減っていた生徒の数も最終日には初日と同じ程に戻り、最後のひと押しをかけようと人の少ない部活やマイナーな部活ほど根気強く廊下を往く生徒に声をかけていた。
しかしほとんどの生徒が既に自分の入部希望を決めてしまっている最終日の盛り上がりが初日ほど長く続くはずもなく、最終日だからと興味半分で学校を見回っていた冷やかしの新入生もひとしきり帰り終わった頃には学校は祭りの後のような静けさに浸かっていた。廊下には教室を借りて練習している吹奏楽部の低く太い金管楽器の音が遠くからぼんやりと聞こえ、ファイルを小脇に抱えた中年の男性教諭やジャージを来た運動部員が時折通っていくだけになっていた。廊下で熱心に新入生を捕まえようと躍起になっていた生物部や物理科学部の生徒も自らの活動場所に帰り、勧誘のせいで時間も中途半端になってしまった部活動に気持ちも入らぬまま溜め息を交えながら戻り始めているときだった。
ひとりの新入生が廊下を歩いていた。あたりには誰もおらず、彼の足音が静かながらはっきりと音を立てた。彼が歩いていたのは校舎の一階から最上階の四階までを同じ構造で大きく貫く二本の大きな直線の廊下のうち特別教室がない方、すなわち美術室や音楽室や化学室や物理室、視聴覚室や多目的室――などはなく、主だっては教室と職員室しかない方の廊下だった。放課後の教室では勉強している生徒や暇を持て余してずっと居残ってお喋りを楽しんでいる生徒がぽつぽつと居たが大体は活動場所を必要としている部活に貸し与えられ、軽音楽部や演劇部など部室のない部活が間借りして活動しているのを、彼は眺めていた。
そこで彼は見つけることになる。校舎の隅の隅の方、三年八組の教室で一人の女子生徒が黒板消しをかけていた。黒板は大部分が濃くチョークの粉に覆われていて、黄色や赤や青が入り交じり汚い煙のようになっていた。高校の黒板は中学校のものと比べると倍ほどの大きさがあり、大きく横に反って縦幅も大きく、その全面を、黒板消しをかけてもかけてもチョークの粉が伸びていくばかりで一向に綺麗にならないのを、女子生徒は懸命に何度も両手で力を込めて綺麗にしようとしていた。
新入生の彼はその様子を少しの間立ち止まって眺めていた。彼には彼女の姿はいじらしく切実に感じられた。おそらくこの場所がどこかの部活の活動場所で、今日は新入生が一人も来なかったのだろうということがわかった。きっとあの黒板にはなになに部といった文字や新入生歓迎といった文字がとてもカラフルに、ともすればいくつものイラストなども添えて描かれていたのだろう。見たかったな、と彼はぼんやり思った。美しい黒髪をふわふわと揺らしながら懸命に黒板を綺麗にする彼女は今いったいどんな気持ちなのだろう。どんな形の文字が描かれ、どんな絵が添えてあったのだろう。ここは何部の教室だったのだろう。新入生は入ったのだろうか。部員は他に居ないのだろうか。そんなことを考えるともなく思いながら、彼は数えきれないほど何回も黒板消しをクリーナーでごしごしと擦る彼女の後姿を眺めていた。
何かを感じたのか、女子生徒はふいに振り向きそれを見ていた青年と目が合う。女子生徒は少し気まずいような、気恥ずかしいような表情ではにかんで青年に声をかけた。
「入部希望の子?」
彼は「いえ、そういうわけでは」と言いながら教室に入った。鞄と上着を近くの机に置き、自らも黒板消しを手に取った。
「手伝ってくれるの、ありがとう」
「いえ」
しかし、手がおぼつかない。彼が黒板消しをかけてもかけても、黒板はいっこうに綺麗にならず寧ろ粉が伸びて汚くなるばかりで、最初は不思議そうに見ていた女子生徒も見かねてついに声をかける程にそれは要領を得ない手つきだった。
「大丈夫、黒板消し苦手?」
「あの、えと、すみません。初めてなもので」
新入生の青年の顔には露骨な焦りと申し訳なさが滲んでいた。女子生徒は一瞬怪訝そうな顔をしたが彼の言葉が嘘ではないようだということを感じて、寧ろ興味が湧いたという顔をして続けた。
「初めて、黒板消しをかけるのが?」
「そうなんです。恥ずかしいでしょうか」
「そんなことはないと思うけど。きみ、名前は?」
青年はこれ以上悪くなってはまずいという風に黒板を掃除する手を止め、黒板消しを持ったまま気まずそうに教壇の上に佇んでどうしようかと困惑を深めながら、さらに表情を難しくして言った。
「名前――わかりません」
「わからない?」
「はい、少し前につけられたのですが忘れてしまいました。どんな名前だったか」
女子生徒は黒板消しをかける手を止めて彼の方をまじまじと見た。その目つきは水族館や動物園で初めて見る珍しい展示生物を見る子供のようだった。
「君、マイカードは持ってる?」
「マイカード、ああ、持ってると思います。確か……」
鞄の方へ歩き出した彼を慌てて止めに入るように女子生徒が「出さなくていいよ!」と若干語気を強めて言った。
「マイカードは人に見せたりしちゃダメなんだよ。君、不思議な子だね。名前は……って、さっき聞いたか。ええと、なんて呼べばいいかな。後で決めようか。とりあえず座って」
女子生徒は黒板のことなどどうでも良くなったように黒板消しをチョーク受けに置いて着席を促し、自分もその席の向かい側に机を反転させてくっつけて座った。新入生の青年は戸惑うでも緊張するでもなくすっと着席した。
「君、中学校は?」
「通ってません」
「どうやってこの高校に来たの?」
「わかりません、期日を知らされてこの学校に入学するように言われました」
「誰に?」
「わかりません」
「君の両親は?」
「わかりません。生まれてすぐ施設に預けられたみたいです」
質問をすればするほど女子生徒にとって青年の人間像は難解極まりないものになっていったが、女子生徒はそれにうんざりするどころか少し嬉しそうな顔をして質問を続けた。
「君、冗談とかは言ってないんだよね?」
「はい、多分。冗談は生まれて一度も言ったことがないと思います」
「今までどうやって生活してきたの?」
そこで初めて青年はなんと言ったものかというような間を空けて少し考えこむような表情をした。横目で窓を見やり校庭に並び立つ大きな木の枝に目をやって、口元に手を当てた。
「施設でのことは極力他人に言ってはいけないことになっているんです。すみません」
その言葉を聞いて女子生徒は少しだけ前のめりになっていた姿勢を戻し、椅子の背もたれにそっと背をつけた。少し引きになって青年をまじまじと見つめ、へぇと小さく呟いてから青年に言った。
「ねえ、君、この部活に入らない?」
青年は二つ返事ではいと答えた。青年はまだこの部活が何部なのかも知らないままだった。
あらかたの自己紹介を終え青年と女子生徒は「君」と「先輩」と呼び合っていた。先輩にとって青年は知れば知るほど奇妙な存在であったが、どうやら青年にとっても先輩は物珍しい存在であるようだった。
「それじゃあ、私が初めて話した人間ってこと?」
「そうですね、施設の人以外だと」
「今まで一度も外に出たことはなかったの?」
「多分、そうだと思います。僕は映像でしか外の世界を見たことがなくて、生まれてからずっと施設に居たんだと思います」
「施設ってどんな施設?」
「それは言えません」
青年は生まれてから一度も外に出たことがないと言った。彼女にはそれがにわかには到底信じがたがったが、彼女もそれを少しずつ認めざるを得なくなっていった。彼は自転車も乗れず地下鉄の利用方法もわからず買い物の仕方も知らなかった。先輩にとっておおよそ常識と言えるものの大部分が青年には欠落しており、この状態で社会を生きていくには到底無理があるという感覚が実感されていけばいくほど青年の施設養育説はじんわりと本当であるらしいという感じを深めていった。
しかし肝心の”施設“絡みの話になると決まって青年は「禁則事項です」と言って喋らなくなってしまう。彼女にはそれが面白くももどかしかった。
「いい、コンビニで買い物したい時は品物をここにおいて、ここにマイカードを当てて、ボタンを押すんだよ。やってみて」
青年は言われるがままに自分で手に取ったコーラを専用の台の上に置いて、マイカードを台のパッチ部分に当てた。すると決済は本当に良いかという表示がモニターに出され、青年がYesを押すと表示は商品をお受け取りくださいというものに変わった。
「マイカードって便利ですね。地下鉄も乗れるし、なんでもできるみたいです」
「マイカードについては何も教えてもらわなかったの?」
「はい。よかったら教えてくれませんか」
どこから説明するかなあ、とぽつりとつぶやいてから彼女はコンビニの縁石に腰かけミルクティーの入った紙パックにストローを突き刺した。青年も彼女の隣に腰かけたが、コーラの蓋は開けなかった。
「マイカードはね、産まれてすぐに国からもらうんだよ。自分の血縁とかDNA情報とかが全部入ってて、何にでも使うかな。産まれてすぐに私達は最低ひとつからいくつかのDNA検査にかけられて、適性診断を受けるんだけど、それは知ってる?」
彼は静かに首を横に振った。
「国がひとつ専門機関をもってて新しく生まれた子には無償でやってくれるんだけどね、他の民間のも受けたい人はお金を払ってやってもらうの。そうしたらその機関が新しく生まれた子のDNAを解析してくれてね、この子はこの才能がある! とか、この子はこれに向いてるねっていうのを出してくれるんだよ。そういう情報が全部このマイカードに詰まってるんだよ。買い物の他にも就職とか結婚のときもこれを使うし、このカードがその持ち主の人そのものって感じかな。だからね、亡くしたり人に見せたりしちゃダメなんだよ。もちろん改ざんもダメ。買い物だってクレジットカードにお金を移してやるのが普通で、よっぽどのことじゃない限りマイカードではしないんだよ」
青年は先輩の説明にひとつひとつ丁寧に相槌をうち、真剣な面持ちで聞いた。手にしたコーラのペットボトルから水滴が一滴流れ落ちて、アスファルトに黒い丸を落とした。
「就職、ですか」
青年が怪訝そうに繰り返した。青年にとってはどうやらそこが一番疑問に思った点であるようだった。
「そう。就職はね、大体マイカードをその会社の機会でスキャンしてもらったり、国とかDNAの調査機関から情報を送ってもらったりしてやるんだよ。それと学校の成績と実技検査かな。だから、君もこれから頑張って勉強しなきゃダメなんだよ」
そういって先輩は僅かに笑った。陽がまた少し傾いて、町はちょっと目を凝らさないと見えづらく感じるくらいの暗さになる。ぽつぽつと街灯が点き始め、車のライトが少し眩しく感じた。
「それ、飲まないの」
「あ、飲みます」
先輩がもう一度笑う。先輩の顔は背にしたコンビニの明かりにぼんやりと照らされている。
青年は飲んだコーラをして、その味を痛くてわからないと評した。青年がコーラを飲むのも初めてのことだった。
「ところで先輩の部活って、何部なんですか」
おもむろに名もない青年が切り出した。先輩は「ああ」とはにかんで答えた。
「文芸部だよ。文学って知ってる?」
「一応知識だけは」
「文学っていうのはね、昔の人が文章で作った空想のお話のことだよ。君は知ってるか知らないかわからないけど、文学は下らない、役に立たないって言って嫌ってる人も居る……っていうか、そういう人がほとんどかな」
「合理的じゃないから」
青年が零したその言葉に先輩ははっとして彼の方を振りむき彼の顔をじっと見た。彼の方は何かおかしなことを言っただろうかという風に少しだけ不安げな眼差しをおずおずと返すのみだった。
「君、そういう知識はあるんだね」
「教わりました。合理的じゃないことはするな。目標に真っ直ぐ従え、って」
「そう。だから文学は嫌われてるの。文学は無駄、心は目の前の作業に不確定要素をもたらす邪魔なもの。隠しててごめんね、私の部活が文芸部だってこと。自分が文芸部だって言ったら君も友達にからかわれたりしちゃうかもしれない」
少しの間が空いた。二人が今日出会ってから初めての沈黙だった。車が何台もコンビニの前を通り過ぎて行った。青年は無表情のまま、それを崩さずに言った。
「なんて言えばいいかわかりません。僕はさっきも言いましたが、先輩が初めて話した施設以外での人間なんです。友達も居たことはありません。ですが……先輩がそういう顔をしているのを見ると、なんとなく、胸のところがもやもやして、居ても立ってもいられなくなりそうです」
「ごめんね」
地面を見つめたまま繰り返し謝る先輩から目を逸らして、青年もまたどこともなく歩道のどこかを見つめ、緩やかにペットボトルの蓋を捻った。青年には刺激的すぎる初めての炭酸飲料を少しだけ多めに口に含んで僅かに顔を顰め、少しの間隔を置いて青年は続けた。
「それに今の僕に目標はありませんから、合理的も何もないんです」
その言葉に再び先輩が反応して青年の方を見た。青年もそれを見返す。それは青年が何を考えるとも感じるともなく自然ととった行動だった。青年は彼が自ら言う通り、人と喋ったことが殆どない。青年にはその時の彼女の表情が持つ意味を正確に知ることはできなかった。
彼女は何かを言おうとして何とも言えず、しばらくの間首を捻ったり目線を落としたりした後ようやく言葉を捻り出した。
「そっか。じゃあ君はこの部活に向いてるかもしれないね」
先輩が笑って言った。笑顔の種類もまだ知らない青年は無垢にその笑顔に安心して、青年もまた微笑み返して言った。
「そうだと嬉しいです」
先輩はおもむろに立ち上がって言う。「そろそろ行こうか」青年は二つ返事で返す。
青年の自宅は学校から歩いて五分もかからない近場にあるということがわかり、先輩は青年をそこまで送り届け青年の家の前で別れた。「じゃあね」と言って先輩が手を振るのを青年がどうしたら良いのかわからないという風にはにかむので、先輩が立ち止まって「そういう時は手を振り返すんだよ」と言うと、青年は言われるがままにそうした。ぎこちないその手つきを見ながら先輩は満足げに微笑んでまた歩き始め、振り返ることはなかった。
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