08 Countdown

「創造主夫妻が開発した、電子機器の無効化させる兵器、通称・ゴルトを破壊するためのプログラムが、私の中にある」


 腹筋部分に相当する部品が稼働して、上半身だけで起き上がったテンペストの声にノイズが走る。中身その物には、今のところ不備は見られていないが器となる人間を模した身体はどこもかしこもボロボロになってしまっていた。

 ヒビが走った唇が閉口する度にカタカタと音がする。適度の柔らかさを持つはずの人工皮膚が割れてその下にある基盤が見え隠れする……損壊が酷い顔の左側に巻かれた包帯がはらりと肌蹴ると、その下からは剥き出しになった眼球と、蛍光色の点滅がチカチカと現れた。眼球だって、眼球に相当するように作られた人工物だ。瞼に縁取られていないそれは、黒目と瞳孔の部分が人間にはあり得ない形をしていた。

 嫌でも、彼が“造り者”である事実を叩き付けられるその姿で、テンペストはとんでもない真実を口に出した。




08 Countdown




 AM2:18


「ゴルト……?」

「電子機器の、無効化?」

「兵器?」

「ゴルトとは、“金”と言う意味、だ。発動させると、金色の光を発するから、その名前が付いた」

「破壊するためのプログラムって……テン! お前、例の兵器の停止できる事を知っていたのか!?」

「……」


 テンペストの胸倉に掴みかかって大きく揺さぶると、耳の奥に響くジジジと言う音がした。だが、今の藤次郎にそんな些細な音を気に留める余裕はない。

 彼の中にあると言う結構な容量の邪魔なプログラムは、メロウが日神に狙われる原因を破壊するための物……もっと言えば、日神の企みを阻止する事のできる重要なアイテムだ。RPG風に言えば、伝説の剣ではないか。テンペストは、それを黙っていた。メロウが連れ去られて初めて、口に出したのだ。


「何でだ……お前の中にあるプログラムを使えば、メロウは日神に狙われなかったはずだ! お前、メロウを守りたかったんじゃなぇのか!?」

「待って藤次郎! 私たちの一体どんな事情があるんだよ? メロウちゃんを逃がすのが依頼じゃなかったの?」

「まだ何かあるって事か……藤次郎、テンペスト。洗いざらい、全部吐け! 何が起きているんだ、メロウちゃんの身に……このノアに」

「私も、聞いて良いかしら?」

「……っ」

「……藤次郎。話して、良い」


 観念した。戸惑いを隠せない様子で眼鏡を弄る早弓に苛立ち紛れに説明を要求した早薙、甘い匂いのする煙管を片手にやって来た乙女ママに囲まれた藤次郎は、洗いざらい全てを吐いた。

 メロウとテンペストが何故、ノアから脱出しなければならないのか。何故、メロウが喋らないのか……そして、彼女の声を鍵として発動する、彼女の両親が造り上げた兵器の存在とそれがもたらす世界の混乱。その兵器を、日神が発動させようとしている事。発動されたら最後、ノア以外の世界中の電子機器無効化されて大混乱が起きる。だからメロウは連れ去られたと、今までの経緯をしっかりと全部吐いてしまったのだ。

 裏稼業の人間として様々な人間の事情や、表に出す事のできない真実を見て来た彼女たちも流石に声が出なかった。あまりにも浮世離れしていて、到底信じられないと言った表情は藤次郎もした事がある。メロウとテンペストが彼の事務所を訪れて、兵器の事情を説明した時に彼女たちと同じ表情をしてしまった。

 あれから3日も経っていないのに、もう何年も昔の話に思える。あの時は、こんな事になるなんて……ちょっとは想定していた。日神相手にノアから脱出しようなんて、最初から殆ど無理ゲーだったのだから。


「つまり、何だ……メロウちゃんが声を出したら、日神の兵器が発動して、世界滅亡……で、OK?」

「取りあえず、そう覚えていてくれ。俺もそうやって納得した」

「日神は何がしたいのかしら?

「それが解っていりゃ、苦労はしないよ」

「ノアって言う、小さな箱舟の中のカミサマでいる事に飽きたのかもね。唯一生き延びた都市の王様として、世界中から敬われたいのかもしれないわ」


 そう言いながら煙管を吸った乙女ママは、甘い煙を艶やかな唇から吐き出した。バニラの匂いに似ているが、その中に息苦しくなるような官能的なものも感じる。彼女のような色っぽいママがこんな匂いを放っていれば、男どもは鼻の下を伸ばして近付いて来るだろう。こんな現場に似合わない甘い煙に包まれた一室の中で、少し考え込んでいた早弓が口を開いた。


「テンペスト君、その兵器……ゴルトは、具体的にどうやって世界中の電子機器を無効化するんだい? 例えば、兵器を発動させたら電子機器が爆発するとか、全てがバグって起動不能にするとか」

「ゴルトは、光によって電子機器を不能にさせる。人間の脳が、人間の身体に信号を送るように、機械類もまた、中枢部がシグナル等で命令を出して、機械を動かす。ゴルトの光は、それを狂わせる。人間が可視化できるのは金の色だけ、だが、光は赤外線、紫外線を始めとした様々な不可視の光が凝縮されている」

「つまり、その光を世界中に照射して、電子機器を狂わせて無効化させる。金色の光を浴びたパソコンもスマホもコンピュータも、何もできなくなる。人間も同じ、脳が狂ったら正常に動かなくなって最悪死に至る事だってある。何でノアだけは平気なの?」

「ノアを囲む、ドーム。これは、創造主夫妻が造った物だ。このドームからは、ゴルトの光を相殺する事のできる、唯一の光が常に放たれている。それも、人間には可視化できない」

「そうか、だからか。だとしたら、普通にUV対策をしてもゴルトの光は防げないって事か」


 テンペストからの情報で、早弓は納得したように頷いた。頷いた拍子に、彼女の両耳に下がった蜘蛛のピアスが揺れた。

 コンピュータに精通する早弓は、兵器・ゴルトの仕組みを理解できているらしいが隣で聞いている藤次郎は上手く咀嚼できていない。なので、今まで通りにメロウが声を出したらゴルトが発動して世界中に金色の光が発射され、ノア以外の世界が滅亡すると覚えておこう。

 その金色の光が世界に充満すれば、コンピュータは使えずスマートフォンで連絡は取れず、暖を取って清涼を得るためのエアコンは停止して冷蔵庫はただの箱になり、自動車だって電車だって動かない。飛行機もまた同じ、離着陸を目前としているタイミングでゴルトが発動されれば、管制塔からの指示も何もなく墜落するだろう。船舶も同じ道を辿るはずだ。

 嗚呼、本当に地獄絵図になりそうである。


「で、さっきの話の続きだ……テン、お前の中にはそのゴルトを破壊するためのプログラムがある。それをさっさと使っておけば、ゴルトはとっくの昔にガラクタになっていた! メロウが声を封印する事も、こんな事にもなっていなかったはずだ」

「解っている。解っていた。お嬢様の身を一番に思う、なら」

「……もしかして、そのプログラムを使ったら、テンペスト君が消滅するんじゃ?」

「っ!?」

「……」

「やっぱり。破壊プログラムが擬似人格プログラムと密着しすぎていた。破壊プログラムを使用すれば、擬似人格が瓦解して“自分”を保てなくなるんじゃないかな、あくまで私の仮説だけど……つまり、AIを搭載されたアンドロイドにとっての、死になる」


 早弓の発言に、テンペストは小さく頷いた。頷いた拍子に首の後ろから不穏な音がしたので、そこのパーツも相当イかれてしまっているようだ。テンペストの中にある破壊プログラムを使用してゴルトを停止させれば、テンペストが死ぬ。彼はそれを理解してしまったのだ……死を恐れると言う、人間らしい感情を。

 彼の中にあるのは伝説の剣などではない、使用したものの生命と引き換えに脅威を蹴散らす諸刃の剣だったのだ。


「私は、創造主夫妻が殺害された、事で、始めて“死”を学んだ。動かない、喋らない、体温は低下し、身体が機能を停止し、脳も徐々に死滅して行く。そして、生きているモノと別れる。お嬢様は泣いていらっしゃった、両親の死を目にして。私は、考えた。私が、お嬢様と死に別れるその、日を……死にたく、なかった」


 学習機能を搭載されたAIはその時、“恐怖”を学んだ。それと同時に、自身の存在理由とも言えるメロウとの別れに“悲しみ”を感じた。

「死にたくなかった」……その言葉を吐き出したテンペストの音声が一瞬、化け物の唸り声のように低く変調した。もう、このボディの声帯が限界に近付いている。


「嫌、だった。お嬢様と、別れる事が、お嬢様を1人だけ残して死ぬと言う未来を、シミュレーションしたら、AIがオーバーヒートを起こしかけた。そして、学んだ。それが、“恐怖”だと。私は、アンドロイドの癖に、死ぬのが怖かった。お嬢様と別れるのが、嫌、だった」

「……だから、ゴルト発動のキーとなるメロウを、日神の手が届かないA国まで亡命させる方法を選択したまま、俺を頼って来た訳か。お前が死なないで、メロウの隣にいられるように」

「……反論、できない。どんな罵倒も、誹謗も、嘲弄も受ける。私は、愚かだった」

「別に、死ぬ事が怖いって感情を、誰も責められねぇよ」

「……」

「むしろ、お前が人間臭くて安心している。「自分が死ねば世界は助かるから、喜んで死にます~」とか言っている勇者気取りよりも、よっぽど好感が持てるよ、お前は」

「藤次郎」

「だがな、今はどうだ?」

「……お嬢様が、日神に囚われている今の方が、死ぬよりも怖い」

「なら、メロウを取り戻しに行くぞ。脱出はまだ、終わってねぇ……!」


 恐怖を抱くのが人間ならば、無理矢理にでも鼓舞して虚勢を張って恐怖を追い払い、打ち勝とうとするのも人間だ。己の信念のために、己の愛するもののために恐怖を乗り越えて囚われのお姫様を救出する。世界が滅亡の危機に瀕すると言う話の延長線にある、絵空事の夢物語のようだが、黙って滅亡を受け入れるよりも好感が持てる話だ。


「メロウを取り戻して、ノアを脱出させてA国へ亡命する。こうなりゃ最後まで付き合ってやる!」

「……1人で、テンペストと“2人”でやる気? 藤次郎」

「もう2人、雇用が継続中だ」

「お前らも、首を突っ込む気か」

「事情を聞いておいて、怖いからハイさようならなんて言えないよ」

「私たちだってメロウちゃんが心配だし、日神よりもメロウちゃんに笑っていて欲しい」

「「私たちは常に、可愛い女の子の味方だ」」


 早弓と早薙の声が、思考や言葉だけではなく息遣いまでもピッタリ一致する。

 双子タレントのシンクロ実験とかの番組の一場面を思い出した藤次郎は、それと同時に彼女たちをこの依頼へ誘ったのは大正解だったと実感した。


「それに、ねぇ」

「浮羽の野郎には、この間の借りを返さなきゃならないからな」

「……私は止めておくわ。でも、治療費を払うかぼったくらせてくれるなら手術してあげる。また怪我をしたらいらっしゃい」

「十分だ。ありがとうなママ、今回の治療費は必要経費として依頼主様に請求しておく」

「ちゃんと振り込んでね。サービスで痛み止めを多めに処方しておくわ、無理しちゃ駄目よ……全てが終わったら、戻って来なさい。それか、ちゃんとした医者に診てもらう事。それが退院の条件よ」

「“ちゃんとした”乙女ママに手術してもらったんだ、もう治ったよ」

「まったく、この子は……」


 再び、呆れたと言う表情で煙管に口を付けた乙女ママだったが、今度は呆れの中に微かな嬉しさが見え隠れしている。男たちを誘う蠱惑的なものではなく、幼い息子に褒められた母親のような微笑みを浮かべて、その幼い息子を愛おしむかの如く藤次郎の頭を撫でた。


「テン、アッキーに自動人形の部品を手配してもらっている。その部品をお前の両腕に繋ぐつもりだが、行けるか?」

「やる。パフォーマンス、は通常の50%以下になる計算だが、それでも、構わない。藤次郎」

「どうした?」

「お嬢様を任せたい。ノアの脱出の後、お嬢様をA国の大使館まで、連れて行って欲しい」

「テン……?」

「お嬢様のために、ゴルトを破壊する。私の中の、プログラムを使って」

「お前、消える気か」

「お嬢様が、笑っていられるなら、私は喜んで、消える。もう、怖れない」

「……それっ、て」


 彼らがいる治療室は時間を凍らせるほどの沈黙に包まれた気がした。テンペストのスキャンを続けるパソコンの稼働音も、『泡月』の女の子たちの接待を受けて楽しそうに鼻を伸ばして酒を煽る男たちの声が遠く聞こえるのに、全ての雑音が消えて、死に恐怖を抱いたAIの覚悟が治療室に響いて、耳に突き刺さった気がしたのだ。

 時間を凍らせた沈黙の中でやっと、早弓の声がそれを破って時間が動き出した。

 もう、時間がない。

 メロウの声が必要とされるその時までのカウントダウンが、始まっていた。




***




 PM 8:03


 時間は少し遡る。

 それは、ノアの中央に位置すると同時に、都市の象徴的存在となっている娯楽都市で最も天に近い場所にあるカミサマの塔――カジノタワー・バベルにて。

 このタワーで様々なゲームを楽しむ者はもれなく世界的なVIP、もしくは頭に超の文字が付属する高所得者だと行動で証明しているような者だ。別に会員制と言う訳でも年収一千万円以上の者でなければ入場拒否、なんて規則はどこにもないので一般の人々ドレスコードさえ守れば気軽に来場する事ができるが、脚を踏み入れて早々、己は此処に場違いであると気付いてしまうだろう。カミサマの懐の中にある別世界は、息をする度に苦しくなる場所であると。

 全88階の内、80階から上は特別な許可を持つ者しか立ち入る事を許されない。最上階である88階は、バベルのオーナーである日神豊のプライベートオフィスがあり、その他の80台の階層には彼個人のゲームルームやゲストルームがある。その日、88階のゲストルームには1人の少女が招かれていた。否、連れて来られて軟禁されていた……“ゲスト”なんて、嬉しい響きの部屋ではない。シルクのシーツが敷かれたフカフカのキングサイズベッドに、アメニティグッズ使い放題のジャグジーと100万ドルだとかの枕詞が付着しそうな夜景が堪能できる、とんでもなく快適で豪勢な牢獄であった。


『バスタイムは楽しめましたか。爽やかなレモネードはいかがでしょうか。それともノンアルコールカクテルにしましょうか。オススメはシンデレラです。直ぐにお持ちしましょう』

「……」

『リラックスタイムを彩る音楽はいかがでしょうか。現在はクラシックホールアポロにてピアノコンサートが開催されています。演奏者一覧は』


 甲高い人工音声がそこまで読み上げたところで、メロウはコンシェルジュAIのスイッチをオフにした。女性の声に設定されたAIが近くにある事に、酷く違和感があったからだ。

 手早く汗を流してバスルームから出て来ると、いつの間にかたくさんの衣服が用意されていた。畳んでベッドの上に置いておいたはずのロングパーカーと、蜘蛛の巣模様が刺繍されたレギンズがなくなっていた……弾正姉妹がセレクトしてくれたあの服を気に入っていたのに、ピンクベージュに白い小花が散らされたワンピースとすり替わっている。

 備え付けのクローゼットの中身も、同じような系統のワンピースしかなかった。ふわふわ揺れる裾にチューリップに似た膨らみの袖、パステルカラーのサラサラとした触り心地。無垢な少女こそ至高である、と、そう語っているような服のセレクトに眉を潜めたが、それしか着る物がなかったのでメロウは黙ってピンクベージュのワンピースに袖を通した。

 高級ホテルのスイートルーム並みの広さと豪華さを兼ね合わせたこのゲストルームは、白い壁の全てが半透明のスクリーンに覆われている。そのスクリーンにはテレビ放送の各チャンネルの様子が放映され、ついでにノアの全域で行われているイベントの様子もライブ中継されている。あちらには遊園地のパレードの様子が、そちらには有名アーティストが多数出演する音楽フェスの様子が映し出されていたが、メロウはそれに視線を合わせない。この部屋を管理し、ゲストの快適な滞在を実現するためにあれこれ世話を焼くコンシェルジュAIも邪魔な監視者でしかなかった。

 メロウはスクリーンのタッチパネルを操作して全てのテレビ番組のスイッチを切り、濡れた髪を拭きもせずベッドの上で大の字になった。キングサイズのベッドが広い……快適と言うよりは、寂しい気がする。藤次郎の事務所で、彼が貸してくれたパイプベッドの方がよっぽど寝心地が良かったと思っていると、ゲストルームのロックが解除される音がした。


「お食事をお持ちしました」

「……」

「リクエストがありませんでしたので、フレンチをご用意しました。他に何か必要な物がありましたら、コンシェルジュAIへ申し付け下さい。直ぐにお持ち致します」


 食事を乗せたワゴンを押してゲストルームへやって来たのは、日神の第一秘書である杉原美寧子だった。どうやら、日神はメロウの世話兼監視を彼女へと任せたらしい。美寧子の手によって、テーブルの上に豪華なディナーが次々と並べられて行った。

 二種類の海老のタルタルをガトーに仕上げてジュレのソースをかけた前菜に、アボカドと根セロリをプレート状にしてミルフィーユのように重ねたサラダ。ヨーグルト風味のアスパラのポタージュに、メイン料理である子羊のローストがフルーツソースと共に白磁の皿の中央に飾られている。デザートはフロマージュと桃のコンポートが芸術品の如く盛られ、ドリンクはシャンパングラスに注がれたスパークリングウォーターが美寧子の手によって手元に置かれた。テーブルの上のディナーは名の知れた一流シェフたちが作り上げた料理だろう、星がいくつあっても足りないくらいの素晴らしいコースメニューのはずなのに、メロウには美味しそうには見えなかった。

 藤次郎が作ってくれたインスタントラーメンが食べたい。三角よりも丸に近いアルミホイルかラップに包まれたおにぎりでも良い、中身が鮭フレークの。

 此処は牢獄だ。だからだろう、どんなに豪華な高級フレンチのコースメニューもメロウには味気ない囚人食にしか見えなかったのだ。


「2時間ほどしましたら、食器を下げに参ります。どうぞ、ごゆっくり」

「……」


 このゲストルームは、入口に取り付けられているパネルによってロックがかかっている。88階の高さと嵌め殺しの窓からの脱出はリクスが高すぎるので、この牢獄から逃げ出すには入口を突破しなければならない。ロックは番号を入力すれば一時的に解除されるが、一度ドアを閉めたら再びロックがかかってしまい、内からも外からも開かなくなってしまう。メロウはパネルにロック解除の番号を入力する美寧子に目をやったが、彼女の身体によってパネルが隠されてしまうのでどの番号を押しているかは解らない。辛うじて解るのは、腕の動きが六回なので番号は六桁の数字と言う事だけだ。

 美寧子が出て行くとテレビもBGMもオフにした部屋は一気に静寂に包まれてしまい、メロウが銀食器のフォークを手にした音だけがやけに大きく聞こえた。海老のタルタルにナイフを入れて大きめに切ると、テーブルマナーもへったくれもなく、大口を開けて前菜を胃に放り込んだ。ただエネルギーを補充しようと言うような食事の中で、彼女の目に囚われの姫の悲愴は一片たりとも宿っていない……メロウの目にあったのは、どうやって脱獄しようかと熱意を燃やす脱獄犯のそれだったのだ。


「……っ」


 脱出する。何とか、この快適な監獄だけでも。




***




 PM 6:21


 再び時間は遡る。

 バベルの88階にあるCEOルームでは、先進国と呼ばれる各国のトップと日神豊が何かを話し込んでいた。通信相手が立体映像で映し出される最新の技術によって、インターネット経由で各国のトップの立体映像がCEOルームに集結していたのだが、険しく顔を顰めた者、怒りとも不信感とも取れる表情で慄いている者、困惑している者とあまり良い反応をしてはいない。その理由は、日神が彼らの前で宣言にあった。


『Mr. 日神、今……何と?』

「言ったではありませんか。今から26時間39分後、ノア以外の都市、国、その他諸々から文明の利器を奪います。もっと簡単に言えば、ノア以外の世界では、電子機器の全てがただのガラクタになるでしょう」

『何を馬鹿げた事を……』

「何を根拠に、“馬鹿げた事”と判断するのでしょうか? 私は本気です。今から26時間38分後に世界は大混乱に陥る。しかし、安心して下さい。ノアへ移住すれば、私に媚び諂い頭を下げて懇願すれば、今まで通りの生活が保障されます。冷凍庫からオン・ザ・ロック用の氷を、ワインクーラーからは当たり年のマルゴーを取り出し、テレビのサッカーの試合中継を眺めながらエアコンによって適温が保たれた部屋で寛ぎ、最新の注意を払って愛人へのメールを送信する。よくよく考えれば、この通信だってインターネットと電気と、その他の機器によって成立している……この生活を一瞬にして奪い取ります。これは、宣戦布告です」

『そんな、根拠もなく……』

「信じないではあれば、それで良い。26時間35分後に広がる世界の混乱を、指を咥えて眺めていていればいいのです。地獄絵図でしょうな。通話もできない、インターネットもできない、勿論SNSに下らない自己顕示と自己承認を垂れ流す事もできない。交通機関も麻痺して夜は真っ暗闇に閉ざされ、暖を取る事も涼を取る事もできない。人間の生活は原始時代に逆戻りだ。石器を片手に野を這いずり回り、火打石で火を熾す生活を経験したいのであれば、呑気に1日を過ごしていれば良いのです」

『……日神豊、目的は何だ?』

「目的、か……一つは、金です。あなた方を始めとした世界的なVIPがノアへと移住すれば、それ相応の金が動いて私の懐に入って来る。金はなくてはならないモノだ。金さえあれば人間は変わる、人間自身もその周りの人間も。金さえあれば、制服も上履きも文房具も手に入る。毎日満足に飯を食う事ができる。誰かから譲り受けたボロボロの教科書を使っていても苛められない、指定のジャージを買えないからと教師に嫌味を言われる事もないし、希望する学校にも進学できる。教養も学歴も身に付ける事ができる。でも、それ以上に……かつての私を見下して来た連中を含め、全ての人間を跪けさせたいのですよ。貧乏人だからと言って無邪気に指を差して無意識に格下扱いしていた奴らが地に落ちる姿を」


 優雅に足を組み直しながら額に落ちて来た前髪を後頭部に流した日神は、凄く綺麗な笑顔で微笑んだ。まるで、将来の夢を語る希望に満ち溢れた小学生のように、脂の乗った妙齢の男が背景にキラキラと言う効果音が付くほどの笑顔を見せた。

 それが酷く不気味だった。立体映像で映し出された各国のトップの咽喉が鳴り、精密に投影された顔色が一気に青褪めた。政治の世界と言うそれなりの修羅場を潜り、のらりくらりと生き延びているはずの狸たちの背筋に冷たく鋭い衝撃を与える……それだけ、日神の笑顔は異形の恐怖そのものであったのだ。

 この男は、どん底とも言える貧しい幼少期を過ごし、その時に受けた屈辱をバネにしてのし上がって来た。そして、かつての恨みを晴らしている。かつての彼を蔑み、侮り、賤しんで疎んじて嘲って愚弄して忌避した者たちを、ヒエラルキーの底辺に置いて上から踏み付けようとしている。


「では、良い返事をお待ちしていますよ。逃げ込んで来るのは、大歓迎です」


 狂喜の中に含まれた狂気を感じ取った各国のトップの呼吸が浅く激しくなり、狼狽えて何も告げる事ができなくなったタイミングで日神からの通信が一方的に切られてしまった。部屋中に投影されていた立体映像が消え、1人残された日神はお気に入りのソファーに深く腰掛けて身体を沈め、天井を仰いで大きく息を吐いた。

 明日が楽しみだった。遠足の前日でもこんなに心が跳ねてワクワクした事はなかった。だって、遠足には500円までのおやつを持って行く事も周りの同級生たちのようなカラフルな弁当を持って行く事もできなかったから、苦痛でしかなかったのだ。


「杉原、彼女は?」

「今は大人しくしています。声を出す気はないようですが」

「そうだな。でも、所詮は箱入りの小娘だ。明日になったら、嫌でも悲鳴を上げたくなる」

「はあ」

「彼女の世話と監視はお前に任せよう」

「残業代は出ますか?」

「ああ、労働規則に則ってきちんと支給しよう」


 美寧子は、こんなにも機嫌が良い雇い主を見た事がなかった。だけど、優秀な秘書である彼女は「凄く楽しそうですね」など一声かける事もせず、黙って綺麗に頭を下げて業務に戻る。ただ少しだけ、特別手当ぐらい出してくれても良いのではないかと、内心毒づいていたが優秀な秘書故に顔に出す事はなかった。小柄な身体に似合わないクールビューティーな美女は、いつでも無表情なのである。

 あと26時間28分後に、1人の少女の声によって世界が荒れる。一部の人間しか知らない滅亡へのカウントダウンは、いつもと変わらぬ時間の流れに押し流されて気付けばあと5時間と言うところまで来てしまっていたのだ。


 PM 3:11


 夜が明けて日付が切り替わり、メロウはゲストルームからの脱出を決行した。

 美寧子が持って来たアールグレイとチョコレートムースケーキで大人しくティータイムを過ごし、空になった食器を下げに来た美寧子が部屋を出て行ってから10分後に、メロウは動き出したのだ。

 クローゼットのワンピースの中からなるべく動きやすそうな丈の短い物を選び、履物もヒールのないペッタンコ靴にして、ショールをすっぽりと頭まで被って顔を隠した。そして、自身の頭の中で今までの美寧子の腕の動きを思い出す。今まで彼女がゲストルームに出入りした時に目に焼き付けた光景から、ロックの解除キーとなっている六桁の番号を弾き出したのだ。

 メロウの優れた記憶力が役に立った。美寧子が番号を入力する光景を頭の中で反芻させ、その動きをトレースして該当する位置の数字を押せば見事にロックが解除されて脱出に成功したのである。

 何とかバベルを脱出して藤次郎とテンペストと合流しなければ。メロウの頭の中はその事で一杯になり、一体どうやって彼らと落ち合うかも、どうやって88階から下へ向かう手段さえはっきりと決まっていない。だから我武者羅に走った。廊下には毛が長い臙脂色の絨毯が敷き詰められているお陰で足音が立たないので、静かに行動できると思っていた、が甘かった。

 監視カメラの目を盗んで廊下の角を曲がろうとしたその時、角の向こう側から伸びて来た太い腕に首を掴まれて壁に叩き付けられたのだ。


「……、……っ」

「何をしている。逃げ出したか」

「……!」


 甘かった。さっき食べたチョコレートムースケーキの何十倍も、甘かった……美寧子だけではなく、浮羽までもがメロウの監視をしていたのだ。

 少女の細い首は、少しでも力を入れたらポッキリと簡単に折れてしまうだろう。浮羽に掴まれたメロウの首からはメリメリと嫌な音が聞こえ、気道を潰されて呼吸ができない。彼女ができる事と言えば、首を掴む分厚い手に小さな爪を立てる事だけだったが、そんなのは攻撃にすらならなかった。


「止めなさい浮羽。声が潰れたら日神様の計画が丸潰れになります」

「……っチ」

「……っ」

「メロウ・愛神様。日神様がお待ちです」


 浮羽の背後に現れた美寧子の一声によって、メロウの首は浮羽から解放された。しかし、絨毯の上に蹲って声を出さないように咳き込んだメロウに振って来たその言葉は、絞首台に連れて行かれる死刑囚への宣告だった。

 蹲ったまま小さな呼吸を繰り返すメロウに痺れを切らしたのか、浮羽によって無理矢理立たされてしまう。そのままお荷物として日神の下へ運ばれるかと言うその時、美寧子のスマートフォンに着信が入った。眼鏡越しの視線だけで浮羽を制止してからその着信に出ると、彼女の顔に少しだけ驚きの表情が現れ視線がメロウに移ったのだ。


「はい、はい……解りました、直ぐに日神様にお伝えします。その間の判断はお任せしますので、他のお客様が気分を害されないように動いて下さい」

「……侵入者だな。あの逃がし屋と、壊したはずの人形だ」

「っ!?」


 PM 3:15


 ノアのカミサマである日神豊がオーナーを務めるカジノタワー・バベルの正面エントランスに、一台の運送用トラックが突っ込んで来た。直ぐに警備員が駆け付けて侵入者を取り押さえようとしたが、現在只今返り討ちに合ってしまっている。オーナーの第一秘書である美寧子へ入った着信によると、侵入者は1名。しかも奇妙なアンドロイドもしくは自動人形を連れていて、その奇妙な人形は我々の手には負えないので、至急黄金隊レベルの機動部隊を寄越して欲しい、との連絡だった。

 コノ世の全ての人間を跪かせて世界を己の支配下に置こうとする悪神に囚われたお姫様を救うための、イケメン勇者御一行……ではなく。ボロボロの身体に鞭を打ち、ツギハギの応急処置ボディとその場凌ぎのボロボロ状態で、藤次郎とテンペストが乗り込んで来たのである。


「メロウ!! いても返事すんなよ!!」

「行こう、藤次郎」

「こっちの台詞だ。へばるなよ、テン」


 エントランスの会話なんて最上階まで聞こえるはずがないのに、彼らのこんなやり取りがメロウの頭の中に現れてしっかりと耳に届いた気がした。






 To Be Continued……




***




【登場人物】

その①

竜宮藤次郎

・逃げたい人も金も物品も脱出させる『逃がし屋』

・ギリギリ20代だが、老け顔のためにオッサン呼ばわりされる事が多々ある

・趣味と実益を兼ねて料理に手を出してみたら以外と上手く行って美味い物が作れるようになった。圧力釜の扱いに長けている

・ラーメンは味噌派

・愛車は数か月前に買い替えた中古のBMW(偽装ナンバー)

・愛銃はM360J(通称・SAKURA)

・某レシピ投稿サイトには会員登録済み

・ゴマ油ばら撒き逃走により、手に香ばしい匂いが残ってしまった

・診断:肋骨四本半骨折、右肺損傷、全治4か月←NEW


その②

メロウ・愛神

・声を出してしまったら世界が終わる系女子、絶賛逃亡の身……のはず

・16歳の割には幼なく、ちょっと世間知らずなところがある箱入りのお嬢様

・声は出さないが顔に感情がよく出る。特に「美味しい」と言う感情は思いっ切り出て来る

・ラーメンを食べた事がないくらいには箱入り娘

・電撃の弾丸を発射できるデリンジャー型のスタンガンを所持

・清楚系のガーリーファッションが通常スタイル

・卵を割った事はなかったが、包丁を握った事はある……

・カップラーメンを初体験しました

・「さようなら」「ありがとう」←NEW


その③

テンペスト

・自己学習人工知能搭載型自動人形、早い話が高スペックのAIのアンドロイド

・一にお嬢様、二にお嬢様、三四がお嬢様で五がお嬢様

・メロウを守るための武装とプログラムを施されているが、メロウを優先しすぎてどこかズレてる成長途中のへっぽこAIを搭載

・ボディのエネルギーはエコ設計

・何馬力あるのかは言えないが、少なくとも狸に間違われる某青いロボットよりは上

・音は重要です

・目に望遠機能は搭載されているが、透視機能はありません

・お嬢様のためならタイマーにもなります

・診断:両腕切断、顔面半壊、頭部パーツ破損、ボディの再起動不可←NEW


その他

・濃い



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