04 Meanwhile
蜘蛛の巣は繊細で優美なレース編み、と表現したのは早弓だった。早口で興奮気味に蜘蛛自体の素晴らしさや、各種類の魅力とCafé de Araignéeに勤務(?)するアイドル蜘蛛個々たちの可愛さを捲し立てて説明した時に、彼女はそう語っていた。
その怒涛の蜘蛛トークを浴びていたメロウは、この人は本当に蜘蛛が好きなんだな~と感じると同時に、早弓のように愛情が籠った目線で眺めてみれば不思議と多肢と複眼を持つ蜘蛛たちが可愛く見えて来た。
そう言えば、誰かが言っていた……魅力を知れば恋をして愛が生まれると。
折り重なる糸の色は、純白と言うよりは黄色が混ざった乳白色。ゆっくりと一歩一歩確実に糸を踏み込む長い脚は、かぎ針にも見えなくはない。レース編みのような巣を更に複雑な模様にしながら餌を待つジョロウグモ――学名はNephila clavatta。蜘蛛個人(人?)の名前は、高尾太夫と言う。早弓曰く、当店で人気№2を誇る人気者らしい。
レモネードのグラスを冷やす氷が奏でた、カランと言う涼しげな音で時間の経過を気付かされた。誰もいない、貸切り状態のカフェにいたメロウは、ずっと高尾太夫に夢中になってしまっていたのである。蜘蛛カフェが繁盛している理由が解った気がした。
「どう? 太夫は綺麗でしょ」
『はい。レースを編む織姫様みたいです』
「解っているね、メロウちゃん。じゃあ、こっちのアンダーソン一家はどうかな? ハエトリグモは目が可愛いんだよ!」
『アダンソンハエトリグモ(♂)』とプレートが貼られた水槽の中には、小指の爪ほどの大きさの小蜘蛛が何十匹も這い回っていた。彼らはまとめて、アンダーソン一家と名付けられている。背中の模様が整った三日月模様になっているのが家長だと早弓は言っていたが、どれがどれだか解らない。
早弓がカーディガンのポケットから取り出したルーペを水槽に当てると、水槽の内側に張り付いていたハエトリグモの姿が拡大されてルーペに移り込む。人間の息で吹き飛ばされてしまうほど軽く小さいのに、身体の作りはしっかりとした蜘蛛であり、産毛以上に細く短い毛が全身にびっしり生えている。黒い身体に緩やかな白い弧を描く模様が雄の特徴らしい。
向こう側からルーペを覗き込んで来た蜘蛛は、水槽の外の世界に興味があるのだろうか。小さな子供が首を傾げるような仕草をした真円の形をした黒い四つの目が、何だか随分と可愛く見える。メロウは蜘蛛が嫌いと言う訳ではないが、好きと言う訳でもなかった。しかし、この短時間が確実に「好き」の方へ天秤が傾いている……何だか、早弓と蜘蛛たちに洗脳された気がした。
『此処のクモたちは触れ合えるのですか?』
「いや、基本的にお触りは禁止だよ。うちの子たちはほとんど無毒だけど、太夫みたいに弱い毒を持っている子もいるから。まあ、噛まれても軽く腫れるぐらいの被害しか出ないけどね……でも、タイラーなら間近で見る事ができるよ。どうする?」
触ってみる?と言う早弓の問いかけに、メロウは少し悩んで小さく頷いた。
04 Meanwhile
藤次郎とテンペストが外に出て、佐竹と愉快な部下どもの待ち伏せを受けていた一方その頃……的な時間帯、メロウは弾正姉妹に匿われていた。蜘蛛カフェのカフェスペースで、レモネードと蜘蛛の焼印が付いたクッキーとアイドル蜘蛛たちの出迎えと言う、早弓によるもてなしを受けていたのだ。
姉妹が経営するCafé de Araignéeは、書面上の経営形態こそ姉妹共同となっているが基本的に早弓がカフェ仕事を受け持っているらしい。飲食物の提供に経理に蜘蛛たちの世話の合間に、ラップトップ一台でも手元にあれば簡単にハッキング作業もしてしまうのだ。
一方、早薙は外に出かけている。カフェは早弓に任せて、彼女はせっせと裏稼業のお仕事に精を出していると言うのがノアにおける彼女たちのビジネススタイルだった。
「さっきも紹介したけど、彼はアシダカグモのタイラー。アシダガグモは、巣を作らずに獲物を狩りに行く徘徊性の蜘蛛だよ。タイラーは人間に慣れてはいるけど、基本的に憶病だからあんまり近付かないでね」
「……」
アシダカグモの名の通り、彼の八本の脚は早弓の手からはみ出てしまう長さを持っている。早弓が腕をまくって水槽の中に手を入れると、ゆっくり時間をかけて彼女の手に近付いたタイラーは犬が臭いを嗅ぐような仕草を見せてこれまたゆっくりと脚を早弓に手にかけて腕を登った。
蜘蛛は懐かないと早弓の説明でそう聞いていたのだが、彼女の腕をゆっくり時間をかけて這い回るタイラーの姿は、飼い犬が飼い主に甘えている仕草にも見える。外見としては、背筋に悪寒が走りそうなTHE 蜘蛛な姿をしているが、こうしてみると随分と愛嬌があるように見えてメロウの顔が小さく綻んだのだった。
「メロウちゃん笑った。やっぱり笑うと可愛い!」
「……っ」
「照れないでよ。可愛いのは本当なんだから。全く、こんな可愛い女の子が指名手配犯扱いなんて、日神も何を考えているんだか」
「……」
「そもそも、メロウちゃんにはどんな“理由”があるのかな?」
早弓の言葉に顔を真っ赤にしたメロウだったが、次ぐ言葉によってその赤はサァっと色を引いた。藤次郎の誘いに乗って、メロウを気に入った弾正姉妹によって匿われているが彼女たちはノアを脱出したい理由を知らない。何故日神に追われているのかも、何故メロウは喋らないのかも詳しく詮索はしなかった。
これを機に、説明してしまった方が良いのだろうかと思考したメロウの沈黙を「話せない」と言う返事にでも受け取ったのか。「言えないなら別に良いよ」との言葉を出した早弓は、自身の腕を這うタイラーを彼の寝床へ帰したのだ。
「私たちみたいな裏の人間に仕事を持って来る人間なんて、言えない事の一つや二つあるものだし。それに、私が本気を出せばメロウちゃんの素性ぐらい直ぐに解るしね」
『ごめんなさい、早弓さん』
「良いんだよ。日神にどんな理由があるかは知らないけど、私と早薙は可愛い女の子の味方さ」
そう言って微笑んだ早弓の表情に少しの罪悪感と胸の痛みを覚えたメロウは、タブレット端末に文字を書き込まずに、ただ深々と頭を下げて感謝の意を伝えた。メロウの声の秘密はあまり口外するなと言う、藤次郎の注意を守ったのである。
「レモネードのお替りはいる? それとも、チャットでお話ししようか?」
『ありがとうございます』
「大丈夫。絶対にメロウちゃんの居場所は、奴らに気付かせないよ」
甲斐甲斐しくメロウに世話を焼きながら、慈愛に満ちた微笑みを彼女に向ける早弓だったが……その合間にふと、ほんの一瞬だけ別の表情を見せていた。悪戯を企てる悪ガキのような、自分の仕掛けた罠で混乱する群衆を面白可笑しく眺める愉快犯のような悪い笑みを、カーディガンのポケットに入れていたスマートフォンに向けていたのである。
その事にメロウは気付いていなかった。彼女の中にあった、沈黙による罪悪感から来る微かな胸の痛みを感じていたから。
***
一方その頃、『逃がし屋』竜宮藤次郎を指名手配犯としてノアの全体へと通告し、彼と依頼人である少女+アンドロイドを追っている黄金隊はと言うと……遊園地に捜査網を張っていた。
「監視カメラの映像を提出させましたが、逃がし屋らしき姿はどこにもありません。少女とアンドロイドも同じです」
「遊園地内部からの連絡もありません」
「……おかしい。本当に奴らは此処に隠れているのか?」
遊園地のセキュリティルームにて、壁一面に設置されている液晶モニターに映し出される監視カメラの映像をチェックしている片桐に、逃がし屋発見の一報は入って来ない。
ノアの南西部のほとんどを所有しているこの遊園地は、1日の来場者数だけで小国の人口を超えてしまうほどの人間が集まって来る。みんな、目玉である幻想的で豪華絢爛なパフォーマンスパレードと、ギネスブック級のアトラクションを楽しみにやって来るのだ。特に、ノアの全域にレールを設置し、時速180kmで都市内を一望・巡回できるジェットコースターは毎日いつでも三時間待ちの超人気アトラクションである。
「本当に、奴らがこの遊園地にいると言う情報は確かなのか? 入場記録もなかったが……」
「ですが、確かに目撃されています」
「情報のソースは?」
「SNSだそうです」
「……はぁ?! え、警備からの通報じゃなくて? 内部職員が手配写真を見ての連絡、とかじゃなくて?」
「はい。一般の来場者がSNSにアップした写真に、あの逃がし屋が写り込んでいたとか」
藤次郎の目撃情報が出たと言う部下からの報告により、遊園地に黄金隊を向かわせて自身も現場に赴いた隊長・片桐の胃が痛んだ。日頃から部下には口酸っぱく言っているつもりだった、「ネットの情報を鵜呑みにするな」と……SNSの投稿ほど、不確かな情報はないのである。
その、目撃情報を報告した部下の話によると、大手SNSにこの遊園地の写真が投稿されていた中で藤次郎が写り込んでいた写真があったらしい。それも一枚二枚ではなく、結構な頻度で背景に見切れていたとか。だから、奴は此処にいると判断したそうだ。木の葉を隠すなら森の中、人を隠すなら雑踏の中。
「片桐さん、例のアンドロイドがこの近辺のショッピング街で目撃されています!」
「SNSの投稿か?」
「はい!」
「全員、直ちに情報を洗い直せ! 情報提供を依頼した店舗からの通報を主軸に、連中を探し出せ! あと、そこの! もうスマホ触るな!」
黄金隊は確かに優秀な人材が揃っている。しかし、どんな組織でも抜けている問題児が2、3人はいるのが宿命だ。最近の若者は解らない、片桐さんは胃が痛い。
さて、何故遊園地で撮られた写真に藤次郎が見切れていたかと言うと、簡単に言えば早弓による情報操作である。SNSのページにハッキングをかけて投稿された写真の背景に藤次郎の姿を合成し、何事もなかったかのように投稿し直してあたかも彼らが遊園地の雑踏の中に潜んでいるかのような状況を作り出した。ショッピング街でテンペストが目撃された情報もまた、デマをちょっとだけ流しただけだ。
この手のSNSでは、少しだけ種を蒔けばあとはその他の一般人が自由に拡散して芽を息吹かせて、花を咲かせて実にしてくれる。最悪の場合は、その実を腐らせて落果もさせてくれる。
今頃、早弓は悪戯を成功させた糞ガキのようにほくそ笑んでいるだろう。監視カメラの一部もハック済み、情報の攪乱はお手の物。ネットワーク上には、蜘蛛の巣のような網が既に敷かれていたのである。腕前だけ見るならばウィザード級のハッカーに劣らない彼女の情報工作が、良いスタートを切っていたのだ。
上手にそれに乗ってくれた黄金隊、どうもありがとう。
「今のところ、有益な情報は提供されていませんね」
「情報提供者にも謝礼金を出す手配をし直して。半殺しにして懸賞金を受け取ろうと思っている連中は、絶対に通報してくれないから」
その通りである。
現に、黄金隊が把握していない下町……彼らがスラムと呼ぶ地区において、藤次郎とテンペストは襲撃を受けた。そして返り討ちにして、お帰り頂いた。
藤次郎を、黄金隊を始めとした日神側に受け渡して懸賞金を手に入れようとする者はわんさかいるだろう。だって、望めばいくらでも懸賞金を請求できるのだから。だから、誰にも情報は渡さずに通報もしない。
そのお陰で、『逃がし屋』は着々と脱出準備を始めていたのだった。
「黄金隊の面子にかけて、我々が逃がし屋と逃亡している少女を確保する」
「はい!」
「任せて下さい、片桐さん!」
「我々が選ばれた精鋭と言う事を見せ付けてやりましょう!」
「ところで片桐さん。逃がし屋の依頼人である少女は、どう言った理由で追われているのですか?」
「オーナーの指令に、いちいち口を出すものではない」
隊員の素朴な疑問にそう返すと、威勢の良い返事が飛んで来た。元気とやる気はあるのが、片桐が率いる黄金隊の良いところだとは思っている。しかし、片桐さんはやっぱり胃が痛い。
***
そして、一方その頃。テンペストに返り討ちにされ、藤次郎によって退散の憂き目にあった佐竹と愉快なチンピラどもはと言うと、彼らは怪我を負ったまま歓楽街を訪れていた。
ノアのシンボルであるカジノタワーを中心にして広がる歓楽街は、都市内で最も広大な面積を持つ区画だ。ショー劇場やシアターを始めとしたエンターテイメント施設を始め、グルメも美容も様々な店が密集し朝も夜も関係なく人々を各店内に飲み込んでいる。当然、お酒と一晩の危ない関係を楽しめる場所も、それ相応の数を揃えていた。
その歓楽街でカジノタワーを除けば最も高いビル――タワーマンションのようなそこに佐竹たちは駆け込んでいた。此処には、高級クラブや会員制のバーを始めとした酒を飲んで騒いで持て成す店がいくつも収納されている。
そこの中層に店を構える高級クラブ泡月。入り口を照らすアジアンテイストのランタンが薄桃色の光を灯し、美しく着飾ったホステスが歩く度にランタンを飾るガラスのチェーンがか細くこそばゆい音を立てて、揺れて、人々を甘美な幻想へと誘う。
最低限の光しか取り入れない薄暗い店内に美しいホステスたちの白い肌が浮かぶと、人々はこの空間に囚われてしまう。一夜限りの泡沫の夢に魅せられて、散々彼女たちに金を落して愛の言葉を囁いて、金も感情も全てを貢いでしまうのだ。
「あのアンドロイド、人形の癖に人間様に楯突くとはな!」
「全員でぶっ壊して部品にして売っ払っちまおうぜ!」
「待て待て、自動人形は身体が全部残っている方が売れるんだ! 頭ン中だけ壊しちまおう。良いですよね、佐竹サン!」
「好きにしろ。ただし、竜宮の野郎は殺すなよ。あいつを殺したら賞金がもらえねぇ」
佐竹に釘を刺されるが、彼がかき集めたチンピラたちはテンペストを解体してその部品を売り払う計画に夢中になっている。ギャハハハと言う下品な笑い声と共に、よく冷えた缶ビールのプルタブが開けられる音が泡月のVIPルームに木霊した。
テンペストに返り討ちにされて負傷した時は、泣き言と弱音を悶絶の悲鳴と共に垂れ流していた連中であるが、治療をされて酒が入ればこんなにも威勢が良くなる。現金なものだ。佐竹がかき集めたチンピラどもを流れ作業のようにノしたアンドロイドは別に良い、佐竹の標的は憎き藤次郎である。
本当は積もり積もった恨みを盛大に晴らして完膚なきまでに痛め付けてやりたいが、藤次郎の口を塞いでしまったら彼の依頼人である少女の居場所が解らなくなる。懸賞金が受け渡される条件の中には、彼女を無傷で引き渡すと言う項目があるのだ。
若干複雑な表情をした佐竹がロックグラスにウイスキーを手酌で注ぐと、ろくに味わいもせずにストレートで胃に流し込んだ。
「あら、何だか盛り上がっているのね。またおいたするつもり? 怪我しちゃったのに懲りないわね」
「
「そんな、悪い事なんて考えていないよ~ちょっとした、仕事の話で盛り上がっていて」
「本当? でも、また怪我をしたらいらっしゃい。治療費を払ってくれるなら、しっかり治してあげるわ」
彼女の前だと、柄の悪いスキンヘッドも蛍光色のモヒカン頭も随分と素直になる。大好きな母親を前にして……と言うよりも、憧れのマドンナ先生とお話しをするように初心な面持ちと声色になるのだ。
サンドイッチや揚げ物等の軽食と新しい酒が乗ったお盆を手に、VIPルームへやって来た女性は泡月のママ・乙女である。彼女の紅の唇から洩れる低く艶のある声を耳に入れれば、チンピラどもの鼻の下が伸びて視線は一気にそちらへと集中した。
ある者は、白いチャイナ風マーメイドドレスの深いスリットから覗く豊満な太腿に視線を奪われ、またある者は官能的な動きで水割りを作る指に咽喉を鳴らす。年齢を重ねた女性が醸し出す色気を濃縮して、全てを詰め込んだと言っても過言ではない、それでいて婀娜っぽさを感じさせない気品に満ちた女性――それが、乙女ママの愛称で知られる彼女だ。
一度でも彼女の色香に当てられた男は夢中になる。その噂は違えず、彼女に視線を奪われたチンピラどもは、既に骨抜き状態だった。
「佐竹も、あんまりやんちゃしたら駄目よ」
「ママに会えるなら、いくらでもやんちゃするぜ。ママだって、俺たちがやんちゃしたら良い収入になるだろう」
「うふふ、そうね。じゃあ、ちゃんと“治療費”を払ってちょうだい。飲んで食べてぼったくらせてね。お店の女の子たちには手を出しちゃ駄目よ。その変わりに、ママで良かったらお相手してあげるから」
「勿論だ! ケツの青いメスガキが100人いたって、ママ1人には敵わねぇよ」
「いけない子ね、うちの女の子たちをメスガキ呼ばわりなんて」
「いや、そんな意味じゃ……」
「……佐竹サン、露骨にママに惚れてるなぁ」
佐竹の隣に座った乙女ママの右手に、二回りほど大きな佐竹の手が重なって……ゴリラ然とした顔は、途端にモンチッチレベルで赤く染まった。もしこの光景を藤次郎が見ていたら、「美女と野獣……いや、美女とゴリラか」とでも零すだろう。名無しのチンピラAが呟いた通り、佐竹は露骨に乙女ママに惚れている。
さて、今までの会話でお察しはできたと思うが、チンピラどもの怪我を治療して包帯を巻いたのは乙女ママである。彼女は高級クラブ泡月のママであるが、確かな知識と技術を持った医者でもあった。所謂、闇医者である。
免許を持っているのかと尋ねてみればはぐらかされてしまうが、その腕の良さは折り紙付きだ。主な患者はノアの裏稼業の者たちや、普通の医療を受けられない者などなどを相手にメスを振るっている。
勿論、その腕前に見合う治療費も請求する。その支払方法は全額現金で払うか泡月でぼったくられるかの二つから選択する事ができるのだが、大抵の者たちは後者を選択して乙女ママによるぼったくりの被害を嬉しそうに受けるのだ。この支払方法を選択すると、ちょっとした怪我の治療でも法外な金額を請求されてしまうが、露骨に乙女ママに惚れている佐竹のような患者にとっては彼女とお近付きになれる絶好の機会である。
「ママ、近々金が手に入るんだが……俺と一緒に、旅行でも行こうぜ。世界一周の船の旅とか」
「ありがと。でもね、私がお店を開ける訳には行かないの」
「なら、2人っきりで食事に。一晩だけでも……」
「生死に関わるような重傷を負ったら、何時間でも2人きりで手術室に籠ってあげる」
白く滑らかな手が佐竹の無骨なそれからするりと抜け出すと、人差し指がゆっくりと下顎を撫でた。薄皮一枚隔てているようなもどかしく優しい動きは、甘い痺れとなって脳天を突き抜けて「もっと」と願うと同時に指は名残惜しく離れて行ってしまった。
「氷が溶けちゃったわね。新しいの、持って来るわ」
「ママ! 食事の件、マジに考えてくれよ」
「あんまり期待したら駄目よ」
大人の淑女の色香の中に少女のような茶目っ気を見せて、乙女ママは今日も殿方たちの誘いを断り続ける。
しかし、冷たい水に小さな氷に欠片が浮かぶアイスペールを手にVIPルームを出て自身のスマートフォンを確認すると、途端に悩ましげな表情となった。美しい顔は変わらないのに、元気すぎる息子に手を焼いている母親のような顔をするのだ……指名手配犯として、ノア都市内の商業施設全てに送られた竜宮藤次郎と言う男の写真を目にすると。
「また、何か無茶な仕事を引き受けちゃったのかしら。あんまり、日神を怒らせちゃ駄目よ」
艶やかな溜息を誰にも聞こえない独り言と共に吐き出すと、昨夜、藤次郎が送って来た仕事の誘いのメールを削除した。
***
一方その頃……と言うよりは、名前は何度も出ているがご本人は初めて登場します。
その者の居城は、ノアのシンボルであり都市内で最も高い場所に位置し、最も金が動く場所――中央に聳え立つカジノタワーだ。最上階の88階の全室はこのタワーのオーナーでありノアの支配者、カミサマとも揶揄される実業家・日神豊のプライベートオフィスである。
無限大を意味する「∞」をシンボルマークとした彼の者の会社は、元々は小さな個人会社だったものを何十年もかけて全世界に通用する企業へと成長させた、ビッグ・ドリームの象徴でもあった。そして、その大きな夢物語の体現者である日神もまた、“成功”と言う誰もが憧れる結果の象徴でもあったのだ。
大企業のCEOで成り上がりの富豪で年齢は40代の半ば、このプロフィールだけを見れば脂ぎった悪趣味な中年を連想するかもしれないが、実際の日神本人は細身で背の高い紳士然とした男だ。清潔感の溢れる仕立ての良いスーツに丁寧に磨かれた黒靴、軽く撫で付けた髪に微かな若白髪が見え隠れしているのは若い頃の彼の苦労を思わせる。実業家と言うよりは、品の良い弁護士のような雰囲気を醸し出すこの男とお近付きになりたいと願う人間は、男も女も星の数ほどいるだろう。
カジノタワーの88階、日神の仕事部屋であるCEOルームに、そのお近付きになりたいと願う者が今日もまた1人いた。何か月も前からアポイトメントを取り、ようやく今日、対面する事が叶い……土下座の体勢で、頭を踏まれていた。
「ひっ、日神CEO……! なにとぞ、今度のノアの拡張工事は、弊社に受注をお願いします……!」
「そう、だね。貴社とは若い頃に縁がある」
「なんと、これは、光栄です」
「だから、会ってみたいと思ったんですよ。今の私があるのは、ある意味貴方のお陰ですからね」
「へ?」
多額の負債を抱えて首が回らなくなっているどころか、踏み付けられて頭も動かない人物は中規模の建設会社が社長である。このままでは社員を路頭に迷わせて、家族一同で首を括らなければならないような状況下でノアに関する仕事の伝手に縋り付く事ができたのは、絶望の中に舞い込んだ希望だった。
上座のソファーに座る10も年下の男に頭を踏まれ、土下座の姿勢に象徴されるようにプライドも何もかもを捨て去って乞食のように懇願する姿が滑稽に映っても別に構わない……その者の肩には、何百人もの人間の人生がかかっているのだから。
「もう、30年近く昔の話ですよ。私はかつて、雇いのアルバイトとして貴社で仕事を頂いていたのです。覚えていませんか、その頃の貴方は現場を指揮していたはずだ」
「そ、そうだったのですか。なんと言う偶然……」
「……その時、貴方は私に向かってこう言いましたよね。「貧乏人は馬車馬のように働け」と。「金と仕事を恵んでやるのだから、正社員様に口答えするな」と」
「っ!!?」
「腹いせに、スチールのコーヒー缶を頭にぶつけられた事もあったな。賞味期限切れの弁当が支給された事もあった」
「ま、まさか……あの時の」
「はい、あの時の若造のガキが私です。こんな事も言いましたよね。「その悔しさをバネに、精一杯働けよ」と……お陰様で、貴方から受けた侮辱をバネにして此処まで成り上がりました。悔しさは良いバネになりますね、いつも私の心の中にはお前らのような“いじめっこ”を見返してやりたいと言う想いがありました。しかし、ね……悔しさはバネになっても、怨みと憎しみはバネにはならないんですよ」
日神が革張りのソファーからゆっくり立ち上がると、踏み付けたままの男の顔からミシミシと音がする。その表情は、かつての青年労働者を見下していた現場責任者の憎たらしいそれと同じであるが、今は驚愕と恐怖に染まっていた。
「怨みと憎しみは、どんな月日を経ても消えずに堆積し続ける。それを消すには、それを与えた本人へ返すのが一番だと長年の経験から理解しました。どうですか? かつて見下し、嘲り、卑しめ、貶めで侮った人間に、同じ事をされる気持ちは? 幼稚園でも習うでしょう、「自分がされて嫌な事は他人にしてはいけない」と。かつての私にそう言う仕打ちをしたお前は、同じ仕打ちをされても嫌ではないからそうしたんじゃぁないでしょうか……だから、あの時のお前と同じように私が見下して差し上げよう。乞えよ、金と下さいと。残飯に群がる豚のように、餌をもらうために必死に愛嬌を振りまく猿のように……自分は、この日神豊よりも下の下の存在であると、認めろ」
「……く、下さい。何でも、します……仕事を、金を下さい……!」
昔の自分に首を絞められるこの状況の中、本当に、自分の生命さえも差し出して何でもするつもりでいた。丁寧に靴墨が塗られた、日神の靴を舐めても良い……それを体現しようとそて舌を出したら、頭の上に乗っていた足が外されてそのまま蹴り飛ばされたのだ。
「下種の唾液で靴が汚れる。杉原、お帰りだ。金輪際、お前の会社とは取引はしない……惨めだった自分を、思い出したくはないからな」
「はい」
「ま、待って下さい! 日神CEO……日神様!! お願いします、かつての私の愚行は謝りますから!! ひのかみ、ひのかみーー!!」
「金が必要だったら、このカジノで一発逆転を狙ってみてはいかがかな? チップ一枚ぐらいは恵んでやろう」
女性秘書が手にしているタブレットを操作すると、CEOルームに雪崩れ込んで来た屈強な男たちによって蹴り飛ばされた男は退場された。100円のチップ一枚を投げ恵まれて、断末魔に近い叫びを残しながら。
「お疲れ様でした。次の方をお呼びします」
「ああ。ところで杉原、“あの子”の捜索はどうなったかな?」
「逃がし屋と接触し、その者と逃亡を続けていると黄金隊から連絡を受けております。未だに、身柄の確保まで至っていないようですが」
「遅いな……黄金隊は、優秀であったはずなのに。しょうがない、浮羽を動かせ」
「承知しました」
日神豊はノアの支配者だ。
慈悲深く傲慢で、かつての愚者の醜い姿を見せてくれるカミサマである。
To Be Continued……
***
【登場人物】
その①
竜宮藤次郎
・逃げたい人も金も物品も脱出させる『逃がし屋』
・ギリギリ20代だが、老け顔のためにオッサン呼ばわりされる事が多々ある
・趣味と実益を兼ねて料理に手を出してみたら以外と上手く行って美味い物が作れるようになった。圧力釜の扱いに長けている
・ラーメンは味噌派
・愛車は数か月前に買い替えた中古のBMW(偽装ナンバー)
・愛銃はM360J(通称・SAKURA)NEW!
その②
メロウ・愛神
・声を出してしまったら世界が終わる系女子、絶賛逃亡の身……のはず
・16歳の割には幼なく、ちょっと世間知らずなところがある箱入りのお嬢様
・声は出さないが顔に感情がよく出る。特に「美味しい」と言う感情は思いっ切り出て来る
・ラーメンを食べた事がないくらいには箱入り娘
・電撃の弾丸を発射できるデリンジャー型のスタンガンを所持
・清楚系のガーリーファッションが通常スタイル NEW!
その③
テンペスト
・自己学習人工知能搭載型自動人形、早い話が高スペックのAIのアンドロイド
・一にお嬢様、二にお嬢様、三四がお嬢様で五がお嬢様
・メロウを守るための武装とプログラムを施されているが、メロウを優先しすぎてどこかズレてる成長途中のへっぽこAIを搭載
・ボディのエネルギーはエコ設計
・何馬力あるのかは言えないが、少なくとも狸に間違われる某青いロボットよりは上
・音は重要です NEW!
その他
・濃い
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