黒い猫(2009/09作)

 鼻に、白いスジのある黒い猫だった。

「なぜかそのとき、猫が部屋の中にいたの」と彼女は言った。「何を訊いてもニャー。どこから来たの? あなたは誰なの?」

 黒い猫は彼女の与えたミルクを飲み干すと、ソファーに座って彼女と一緒にテレビを観たのだという。

「深夜のドキュメンタリー番組だったわ。小さな島の高校生がね、本土の学校に定期船で通う話なの」

 黒い猫は番組が終わると、急に何かを思い出したように窓の隙間から去って行ったそうだ。

「島の高校生はね、定期船の中で宿題をするの。将来の夢は教師になることだって」

 僕は手の平を彼女の目の前にかざした。

「猫や高校生の話はいいからさ」僕は言った。「大切な話があるんだよ」

 彼女は僕を見た。初めて僕の存在に気付いたみたいに。

「僕と結婚して欲しいんだ」

 黒い猫が、彼女の傍らで体を丸くしながら眠っていた。

「もしかしたら今の仕事を失うかもしれない。なにしろ想像もつかないような不況だからね」

 彼女は猫を撫でながら僕の話を聞いていた。

「君のことが好きなんだよ。たったそれだけの理由さ。君と結婚したいと思うのは」

 黒い猫はあくびをした。何も心配することのない平和な午後である、とでも言いたげに。

「ちょっとビックリしちゃった」彼女の頬が緊張を緩めた。「なんかドキドキしてる。だって……」


 ……高校生は島の港へ着くと、いつものように船長から郵便物を預かった。

「いつも悪いな。気いつけて帰りや」

 船長に軽く会釈すると、高校生は島の暗い集落へと吸い込まれて行った。寄り添うように集まった家々の間を縫う路地。目を閉じても迷うことはない。でも今夜は、なぜか迷路のようだと高校生は思う。まるで知らない場所のようだ。

「こんばんは」

 高校生は一軒の家を訪ねた。

「郵便です」

「あらあ、どもども」

 割烹着を着た女性が家の奥から現れた。高校生の母より少し老けて疲れている。女性は手紙を受け取ると封筒の裏を見た。

「うちの馬鹿息子や……。何年振りやろ」

 高校生は玄関口に黙って立っている。

「あんたもそのうち、島を出ていくのやろ。たまには家に連絡くらいせんとな」

 高校生は会釈をして玄関の戸を閉めた。暗くて狭い路地に足を踏み出すと、暗闇から猫が現れた。鼻に、白い筋のある黒い猫だった。

「こらこら……」

 しきりにまとわりつく猫に高校生は話しかけた。

「お前も今夜は迷子なのかい? じゃあ、ふたりで帰り道をさがそうか」

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