錯覚(2016/08作)

 黄色い服のひとが、夏の庭を横切っていった。

 そのひとは満足そうに太っていて、腰の部分を古代人の服のようにヒモで結んでいた。

 隣でうちわを揺らしている母にそのことを伝えると、母は外をすこし眺めたあと、私の小さな頭をなでながら、それはきっと目のサンカクですねと私に言った。お庭は塀に囲まれてとても狭いのですから、誰か知らないひとが歩いているはずはありません。きっとお庭に入ってきたお日様が、その黄色いひとに見えたのでしょうと。

 私は庭に出てあちこちを確認したが、結局、蝉のぬけがらくらいしかみつけられずがっかりした。そして部屋に戻って鏡を見ると、私の目はもうサンカクではなかった。


 私はその夜、夢の中でふたたび黄色い服のひとを見た。黄色い服のひとは沢山人がいる遊園地の中を歩いていて、乗り物に乗るわけでもなく、ただ何かを探すように人ごみの中を進んでいた。

 私は黄色い服のひとを追いかけているうちに迷子になってしまったが、不思議と不安はなく、このまま一人ぼっちでも生きていけるような気分になっていた。母はきっと悲しむと思うが、一人ぼっちで生きていくことを決めてしまえば、それはもう迷子ではないのだ。待っている人や帰る場所があるから、人はそれを見失って迷子になってしまうのだと。

 私がそんなことを考えている間に、黄色い服のひとは風船を腰ヒモに結びつけ、夏の高い空へ昇っていった。

 黄色い服のひとはきっと迷子なのだろうと、私は思った。


 それから、随分と年月が過ぎたある時、私は街なかで、眼鏡のレンズが逆三角形になっているひとに声をかけられた。

「お久しぶりですね」とそのひとは言った。「大人になっても、あなたは、やはりあなただった。そのことが僕はうれしいんです。もしそのひとに会ったとき、そのひとが違う人になっていたら、それはとても寂しいことでしょ?」

 私は、探し物はみつかりましたかとそのひとにたずねた。

「まだみつかっていませんが、他にみつけたものがあります。迷子のあなたを今みつけましたよ」

 そのひとはそう言うと、逆三角形の眼鏡をはずして私の胸ポケットに差しこみ、手を振りながらどこかへ歩いていった。私は「目のサンカク」を思い出してあわてて眼鏡を掛けたが、そのひとはもう、始めからいなかった人物のように姿を消していた。そのひとはもう太っていなかったし黄色い服も着ていなかったが、会った瞬間、私は夏という季節が確かに存在したことを思い出した。

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