エア(2015/02作)

 たぶん春です。


 うみうしのあとをこっそりついていったら私、磯のにおいがして、波のおとがきこえてきました。すると磯のほうから牛がやってきて、うみうしと牛で何かを話しているようでした。

「ほしいものを手に入れたから僕、もう海へ帰るよ」とうみうしはいいました。「ずいぶん多くの人を傷つけてしまったけどね」

 そしてうみうしが空を見てごらんというので、私ゆっくり空を見上げると、白い鳥がおとも立てずにおおきな、空いっぱいにおおきな円をかきました。

「なんだか、取り返しのつかないことをしてしまった気がするんだよ。空なんか見てるとさ」

 うみうしと牛はさよならを言ってわかれ、それぞれの場所へかえっていきました。私この出来事を、耳をすませながらノートにきろくしました。もしうっかり忘れてしまったら、この出来事はなかったことになるからです。

「きっと君は、感傷的なんだよ」とだれかの声がきこえ、足元に生えた草花が何もいわず風にゆれました。「ほとんどすべての出来事は誰にも記録されることはない。それに世界が終わってしまったら、君の記録を読むものなんて誰もいない」

 あなたは誰なの、と私たずねると、君の夢の中だよとそのひとはいいました。しっかり目をあけてごらんと。


 私、牛のように重いからだを起こし、ノートをさがしてみましたがどこにもありません。目をあけてあたりをよく見ると、そこらじゅうがすっかり焼け野原のようになって、景色がひどくこわれていました。

「君、だいじょうぶか?」とオレンジ色の人が声を掛けてきたので、ノートは知りませんかと私、たずねました。

「ノート? そんなことより君、よく生きていたね。これから病院へ搬送するから君、何も心配しなくていいんだよ」

 その人が、君、君、君と気安く呼ぶのが癪にさわったので私、その不快感をその人の胸ポケットに差してあったメモ帳に書きました。そして記録とは、そういう、どうしようもない感情と同じではないのですかと風に問いかけましたが、あのときの風はもうありませんでした。


 私は春がきらいです。


 私、あれから病院でいろいろかんがえて、退院してから新しいノートを買いました。そしてうみうしと牛のことを書きましたが、夢の中のようにはうまく書けません。

 牛はあのあと人間に食べられたのかも知れませんし、うみうしは一人ぼっちで泣いているかも知れません。

 でもこの物語にはつづきがあるのでしょう。そしてこの物語のつづきは、きっと私にしか書けない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る