第99話 抜刀隊VS.俗物軍団

刻を少し遡る

旅程後半【二日目】

 送迎団別働隊――



 実はルストラン陣営が諏訪家と共に練り上げた搦め手の策はふたつある。

 そのうちのひとつ――単独でフィエンテ渓谷へ向かう隊長と別れてから、抜刀隊の本隊は一度最寄りの高所へ足を向けた。それは地図で把握できるのが大まかな位置関係のみであり、“地形の高低差”という重要な情報が欠けているからである。

 当然ながら、未開の山岳地帯をまっすぐ目的地に向かって進めるはずもなく、けれども迂回路を求めてあてどなく彷徨う余裕があるわけでもない。故に周辺地理の把握は喫緊の課題であったのだ。


「どうだ、楠――」


 山岳中腹の岩場にて異界の雄大な山野を眺める小柄な影に副隊長が声を掛ける。


「行けるか?」

「無論」


 何も案じていない声であり、自信に溢れた返事であった。


「……異界も現世うつしよも山は山」


 その強気な台詞も楠ならばこそ。

 抜刀隊における修行のひとつに、大白山の深山に踏み入る修験者ばりの過酷な山岳行軍が存在する。

 隊員達の体力や足腰を極限までいじめ抜く鍛錬法は、その身体強化はもちろんのこと、山野の地形とはいかなるものか、そのつくり・・・・・を頭でなく肉体で分からせるのが目的でもあった。

 中でも猟師を生業としていた楠は山野歩きに優れた技能を発揮し、山岳行軍を重ねるたびに劇的な成長を遂げてきた。狩猟行為は元より“山を読む”のもそのひとつ。

 地の質、地の形状、草木の植生状況などを鑑みて、広範囲の状況を俯瞰したかのごとく我が物とする。その認識力は野性の獣と同等であり、一部の席付きすら越えた力があった。

 そんな彼の言葉を副隊長が疑うはずもない。


「よし、出立だ――」


 予定調和の会話を終わらせ、副隊長が号令を発すれば短い休息をとっていた隊員達がすっくと立ち上がる。

 彼らの物腰や表情に馴れぬ異界の林野を旅してきた疲れは微塵も見えない。むしろ目的地に近づくにつれ、裡に秘めていた闘志が瞳の奥で、あるいは引き締められた口元に自然と浮かび上がる。自身もそれを実感するからこそ、副隊長は思わず口にするのだろう。


「渓谷にせよ洞穴にせよ、敵からの仕掛けに対し、一戦たりとも落とすことは許されない。まして、いずれの戦いも我ら抜刀隊が“要”となるなら、なおのこと――」

「誰が相手でも、いつも通りに」


 委細承知と隊員の一人が口にすれば、


「林野は我が友」

「林野は我が塒」

「林野で我らに敵う者無し――」


 口々に言葉を連ね、最後に粗野で野太い声が締めくくる。


「――これは『抜刀隊われら』の初陣でもある。この地の連中に“我らあり”と声を挙げようぞっ」


 分厚い体躯の侍が太々しい笑みを浮かべ、居並ぶ侍達全員も賛同するように深々と頷いた。

 ここにいるのはわずか二十名きり。

 しかしそこには副隊長を筆頭に『席付』が顔を連ね、さらに隊長の道先案内で出払っている秋水達も参軍している。

 部隊の質においてはこの上ない戦力であり、敵軍と平野で対峙するような真似さえしなければ、十分な戦果を叩き出すだろう。

 そうでなくとも、せめて敵と差し違えてでも己の役目は果たしてみせる――それほどの意気込みで彼らは此度の戦いに臨んでいた。これからの活躍が、異界で惑う諏訪家の命運を切り拓くものと信じるが故に。


「今少しの辛抱だ。勇まず慎重に――」


 今は逸る気持ちを抑え怪我を予防し、体力も気力もその寸前まで温存する時だ。

 副隊長が皆に注意を促し、先頭に立つ楠へ合図を送る。

 彼らは侍の常識を覆す身軽さで、足取りも軽く次の目的地を目指して進み始める。

 まずはギドワ属領と辺境伯領との境界地点へと。

 そこから領都地域に侵入し、領都を迂回して『ゴルトラ洞穴門』で送迎団を襲撃しているであろう敵の背後を討つ――それがルストラン陣営が立てた第二の策であった。

 奇しくも両陣営の読み合いは的を得ているのだが、どちらがどちらを出し抜くか――それによっていかなる局面が生まれるかなど抜刀隊の面々に予知できるはずもなく。

 並外れた身体能力で山岳地達を踏破して、境界付近の街道を眼下に納めるに至る――実は、ここまでの行程がすべて昨日のこと。

 本日ついに、計画通り陽が昇りきる前には境界付近に到着することができたのだ。

 だが本番はむしろここから。

 山腹で境界付近の街道が封鎖されているのを目にしていた彼らは、事前の打ち合わせに従って街道には出ず、樹林を抜ける進路を取る。

 しかし、これまで順調であった道行きも、途中、長らく案内役をさせていた楠を休ませようと、別の者と交替させたところで変事に見舞われた。

  

「――っ」


 はじめ、何が起きたか分からなかった。

 遅れを生じさせないよう、歩きながらの交替で列に多少の乱れを生じたのもやむを得まい。

 副隊長が振り返り、楠を労うのを誰もが自然と眼で追っていた時、どさりと音がしたのだ。

 即座に音の発現点――先頭へ集中した皆の視線が俯せに倒れた仲間の姿を捉える。


 背中に滲んだ血。

 唇からわずかな吐血。


 肺がやられ、背中を何かが突き抜けた傷痕に誰もが瞬時に理解する。


「種子島――!!」


 誰かが低く叫んだ時には、二番手の侍が足を押さえて蹲る。その瞬間、何かが見えた気がしたが定かでない。


「横井っ」

「身を隠せ、狙われているぞっ」


 仲間を案じ留まる者もいたが、大方が咄嗟に樹木の陰へ身を隠す。足を撃たれた横井も身を投げ出したが、脇腹に二撃目を喰らうのを避けられなかった。

 動かぬ横井の姿に歯噛みしつつ、助けたい気持ちを懸命に抑え込む。


一発だ・・・

「足を止めれば思うつぼぞ」


 諏訪家には優秀な鉄砲師がおり、こうした場合の・・・・・・・状況も基礎教練として教え込まれている。無論、自分達が仕掛けられた場合を想定してのこと。

 だからこそ、勤勉な隊員達はすぐに状況を察し、短文で互いの認識を確認し合う。同時に定められた対処法も頭に浮かんでいた。何に留意すべきかも。それを副隊長が命令として行動を促す。


「散開して斬り込めっ」


 誰に何をなど必要ない。

 躊躇なく前の三名が反応した。

 他の者は三名の姿を食い入るように見つめる。仮に撃たれれば、その射角で狙撃手の大まかな位置を掴まんとして。

 とはいえ、ただ立ち尽くしているわけにいかない。

 視界から外れぬよう間を空けて後を追う。

 統率のとれた見事な動き。

 対処の即断力には目を瞠るものがある。

 なのに副隊長の胸に去来するのは真逆の思い。


(……油断した……)


 戦った結果なら受け入れよう。

 だが刀も抜かずに斃されては。

 死んだ者の無念を思い、胸中に悔恨が生まれても、それを副隊長は表情に滲ませはしなかった。

 なのにずばりと指摘する者がいた。


あれは・・・避けられなかった」

「……まだお前の出番ではないぞ、秋水」

「音がしない。おそらく鉄砲ではあるまい」


 副隊長の言葉を無視して、いつの間にか背後に現れていた秋水が自身の推察を口にする。


「扇間が云っていた“つぶて”の一種だろう。一度体験したから間違いない」

「近くに気配はなかった。そこまで狙えるのか?」


 投げるにしても、距離がありすぎるだろうと。その疑念に対する答えはあっさりしたものだ。


「それがこの世界さ」


 “奇っ怪な力が当たり前”なのだと。

 それきり途絶えた秋水の気配を副隊長は気にも留めなかった。残された言葉の都合の良さ・・・・・に苦々しさを感じながら。

 ただ、低く呟く。


「――先が無明なのは、どこも同じか」


 ◇◇◇


 抜刀隊による果敢な斬り込みは、相手の不意を確実に突いたが、それによる想定外の結果も招くことになった。

 狙撃手に護り手が付けられるのは予想の範囲として、まさか部隊丸ごと張り付いているとまでは思ってもみなかったからだ。

 この状況で転進を試みれば良い的になる。三人はそのまま意を決し敵部隊に突進するしかなかった。

 その窮地を副隊長が傍観するはずもない。


「む――残りも続けっ」

「「おおっ」」


 躊躇なく副隊長が第二陣を送り込み、樹林は一気に激戦の地へと様変わりする。

 血が飛沫き、気合いと鉄の打ち合う音が混じり合う。

 敵の体勢が整う前にたたみ掛ける抜刀隊。

 そのまま一気に崩せるかと思ったが、予想に反して粘られる。

 一因として、侍達の得物が敵の鉄製防具に歯が立たないことが挙げられよう。そのことを即座に理解した連中は、防具に守られた箇所を無視して、それ以外だけを防御するという思い切った戦い方に切り替えた。

 その戦法は見事に嵌まる。

 防御の効率化は攻撃に余力を与え、奇しくも対侍戦に特化した戦闘法として機能し始めたのだ。その上、敵は乱戦というものに馴れていた。

 わざと大振りして避けさせ、近くの敵味方にぶつけるように仕向けたり、腐葉土を蹴り上げ、小柄らしき物を投げ、時に味方の腕ごと叩き切りに来るなど、やれる手は何でもやってくる。

 彼らの戦いに忌避はない。


 だからこそ、手強い。


 これまで、数の不利を技の優位で撥ね除けてきた抜刀隊であったが、今度の敵は別物だ。しかもその要因は他にもあった。


「こいつ――」


 前触れもなく、隊員の肩が撃ち抜かれた。

 続けて別の隊員も。

 乱戦ならば狙撃もできまい――そんな副隊長の狙いを浅はかと嘲笑うように。

 あちらで、あるいはこちらで。

 連射は衰えたが、姿無き狙撃手は的確に隊員の四肢を撃ち抜き、確実に戦果を挙げてゆく。あるいは頭部や心臓を狙っているが、隊員達の動きがそうさせていないだけかもしれない。

 いずれにせよ、狂乱というに相応しい敵味方入り乱れる戦いの渦中にありながら、当ててみせる狙撃手の腕前を認めるしかない。


「これでは――」


 副隊長の眉根がきつく寄せられる。

 狙撃が与える影響力は大きく、こちらの総合的な戦闘力を激減させていた。さらに際立つ働きをしている敵兵が他にもおり、それらが奏功して両者の戦力を完全に拮抗させていた。

 だがそれはこちらの望むところではない。

 ここで大きな損害を受ければ、本来の役目が果たせなくなるからだ。


「副長、何か手を打つべきかと――」


 隊員の一人がたまりかねたように声を掛けてきたところで、思わぬ救いの手が。


「撃ち手は儂らに任せろ――」

「秋水」


 どこかから聞こえた陰者の声に副隊長は安堵が表情に出ぬようぐっと堪える。彼らが「やる」というなら疑うべくもない。

 なら自分がすべきことは?

 わざわざ言葉で応じず、副隊長はただ己が意識すべきことに集中する。まずは警戒を呼びかけて。


「鉄砲を忘れるなっ。乱戦でも狙撃を受けるぞ!」

「常に動き続けろっ」


 もちろん、樹林でそれは無茶な指示だ。それでも何もしなければ、ただやられるだけなのだ。そして忍耐を強いるのは少しだけの時間。その時間だけ凌いでくれればよかった。


「耐えろっ。耐えれば秋水が仕留める!」


 できれば黙っているべきだ。

 だが敵に知られても隊員を鼓舞すべき時と副隊長は割り切った。



 ヒュッ――



 一瞬、眼がちかついた・・・・・時には副隊長は首を傾げていた。耳元で空気が裂かれる音がして、それが“礫”であると認知する。

 檄を飛ばす姿で要人と思われ狙われたのだろう。

 だが怖れよりも副隊長はかすかに笑みを零す。

 今の一撃が、敵にとって最初で最後の機会であったのだと。


「――今ので見切ったぞ」


 覗くは満腔の自信。

 自分を狙ったのが過ちだと。

 そのまま自分を狙い続けるがいい、と。

 狙撃手を己に惹きつけると同時に、この戦局を支える敵の要に目を付ける。

 樹林という舞台と騒乱の中で見極めが難しかったが、その者の手元より走る線影をみとめてそれが武器だと気が付いた。

 間合いが長く、攻撃角度は自由自在。

 その上、副隊長の瞳力をもってしてもほぼ視認不可能な攻撃の速さ。

 細身で起伏のある姿態に女と知れたが、その得物捌きは熟練の兵法者に通じるものがあり、瞠目に値した。


「――見事な腕前だ」


 自然と口から零れた感嘆は偽りなき心情。

 ふつふつと裡から沸き上がる闘志を感じながら、副隊長はゆっくりとその者の下へ歩み寄っていた。


         *****


現在

ギドワ属領境界付近

 『俗物軍団』陣側――



「――これで二人」


 倒れた異人を尻目に隊長付補佐であるエッリは荒い息をついた。

 敵のあまりの強さに動揺を押し殺して次の獲物を捜す。


(まともに相手したら捌けない。よく見て隙を突かないと――)


 鍔迫り合いをしている時、攻撃を避けて跳び退った時、その不意を打って効率的に斃さなければ一気に流れを持っていかれる。

 部下のほとんどが劣勢で、数で押さなければ呑み込まれる勢いだ。それとて樹木を巧みに挟んで位置取りされ、数の優位をあまり活かせぬ有り様では如何ともし難い。

 テオティオの狙撃がなければとっくに終わっていた戦いであることを彼女は痛いほど理解していた。

 隊員の多くが北魔討伐に参戦した猛者で揃えているというのに。並の剣士集団が相手なら剣で蹴散らせる力が間違いなくある。

 なのにこの体たらく。

 これほどの相手は初めてのことであった。


「ハァッ」


 部下と打ち合った瞬間を狙い、エッリが踏み込んで固く握りしめた拳を・・叩きつける。それを敵は感付いて、退きざまにこちらへ向かって逆に斬りつけてきた。


 拳に対する斬撃のカウンター!


 それを身体を倒して強引に回避し、転がるようにして体勢を立て直す。


 異人が鋭く踏み込み――

 味方が「させん」と打ちかかり――


 屈んだままの姿勢でエッリが左受けでの右カウンターを狙いにゆけば。



 ブフッ――



 異人が残像が見える速さでエッリの左腕に剣を叩きつけ、同時に味方の剣を打ち払っていた。


「――くっ」


 明らかにワンテンポ遅れでエッリが右拳のカウンターを放ったときには、異人は易々と身を退いている。


「……っ」

「……」


 愕然として追撃すら忘れるエッリとその部下。

 それでも異人の額に汗の珠が浮かんでいるのを目にして、敵も「ただの人間だ」と無理矢理自分を安心させる。


「臆するなっ。敏捷さなら我らが上だ」


 そう部下に檄を飛ばすも返事はない。

 分かっているのだ。

 身体能力とは別の何かで埋められぬ差・・・・・・があることを。それを身体能力だけで比肩し得るのはエッリだけなのだとも。

 相手は何かの肩書きを持っているようには見えず、ならばただの一兵卒が自分と同等かそれ以上の力を持つことの意味をエッリは考えないようにする。

 あってたまるかと。

 

 エッリはすでに『一級戦士』相当の力がある。

 ただヨーンティの下を離れがたく、あえて目立つ行動を避けてきたこともあり、正式な認定をされる機会がなかった。加えて、野心なき者に団長はじめ『幹部』が無関心であった背景もある。

 だが多くの者は彼女の実力を知っている。

 事実、『拳闘家フィスト・ファイター』である彼女の実力は一級品だ。

 職業的な特殊技能である『踏力』は一瞬で相手の懐に跳び込み、相手を嫌が応にも得意の接近戦に引きずり込む。そこから繰り出す一撃が凶悪だ。

 体術『瞬歩』が純粋な移動だけなのに対し、『踏力』は重心移動による初撃の威力増強を可能とする。

 大抵はこの一撃で勝負が決まる。

 決まらなくとも問題はない。同じくらい彼女の戦法はシンプルなのだから。

 ただ、両の腕輪で敵の斬打を受け、空いてる拳で叩きのめす。

 単純にして最強の戦闘法。

 そして根本的に度胸がいる戦闘法でもある。常の暮らしから男尊女卑の軍団で生き抜く必要があった彼女には、何よりも相応しき力であった。

 だからこそ磨きに磨かれた。

 軍団の男共が一人残らずひれ伏すほどに。

 その強烈な自負を初めて揺らがされた。それも認めがたい地力の差で・・・・・


「――いいや、認めない。男共ゴミカスごときが上目線でいるなんて、ゼッタイに認めないっ」


 声に憎悪を込めてエッリが立ち上がる。

 脳裏に映し出される苦渋の光景。


 組み敷く男。

 下卑た笑みを浮かべる男。

 腹を蹴るたびに下半身のモノを硬くさせる男。

 男、男、男……


 男とは、虐げることに悦楽を感じるケダモノだ。

 女とは、それを与えるただの供物だ。

 日々与えられる責め苦の中でエッリはそう思い知った。

 鋭く、熱を帯び、鈍い痛みを植え付けられた。

 怖れも、寒気も、悍ましさも。

 何よりも狂おしいほどの悦びも・・・

 こびりついた液の臭いは拭っても拭っても落ちることはなかった。まるで皮膚の内側まで滲んでいるように。

 彼女の肌が隅々まで荒れているのは、毎日タワシで磨き続けているためだ。文字通りこそげ落としているはずなのに。

 それは記憶の底に今も粘り着いている。

 だが皮肉にも、その“男の臭い”が――彼女の魂にこびりついた嫌悪すべき汚物が彼女に“力”を与えようとは。

 あまりに皮肉が過ぎる鏡返しのごとき魔の力を。


「お前――」


 エッリが異人から視線を外さず、傍らで立ち尽くすだけの部下を呼ぶ。


「何もできないなら、私の役に立て・・・・・・

「!」


 びくりと部下が身を震わした。何を要求されたかを即座に理解して。その顔から躊躇が消え、瞳に狂気の色を浮べて地を蹴った。


「ぜぃああああ!!」


 突然の恐慌。

 鬼気迫る勢いで突っかかり剣を振る。

 それを草むらでの動きと思えぬ滑らかさで異人が避け、細身の剣で合わせにゆく。


 まさに一閃。


 その美しき斬撃すら隙として、自慢の『踏力』で間合いを潰し、エッリは左の鉤打ちフックモーションに入っていた。



 ――――いけるっ



 これまでに何度も味わってきた感触。なのに。

 ドス黒い情念を込めて、腕を振り抜くエッリが視界の隅に何かを捉えたのは偶然以外の何物でもなかった。

 それが――斬り合わせた異人の剣が初めから定められていたかのように転進し、彼女の首下へ振り戻されたせいだと気づけるはずもなく。



 ――――ガイッ――ヂ!



 右腕に衝撃。遅れて感じる肘の熱。

 攻撃を中断、咄嗟に防御できたのも偶然の偶然にすぎない。

 九死に一生を得た――?

 いや違う。

 彼女は嗤う。

 削られた右肘がジンジンと熱くなるのも構わずに。

 それよりも、無我夢中で振るった左の指先が異人の身に触れたことを良し・・として。


「――確かに触ったぞ」


 まるで勝利宣言するかのようにエッリは言葉に熱を込めた。

 彼女にしかない確信があるために。

 その証拠に眼前の敵に異変が起きた。


「……ぐっ……」


 それは小さな呻きにすぎなかったが、異人の身に確実な変化を起こさせていた。

 鋭かった瞳を茫とさせ、顔色にうっすらと朱を差し込ませて。


「もうひとつ!」


 逃さずエッリは半歩踏み込み両腕を振るう。

 明らかに集中力の欠いた武人に、攻撃ではなく接触を目的とした、ただ速いだけの手技を当てるのは造作も無かった。

 しかも思った通り、自身の異常に意識が向いて攻めを忘れた敵など恐れるに足りず。


「むむぅ……」


 もはや異人は苦悶を隠すことさえなく。

 二度、三度と触れられて顔はさらに紅潮し、額に汗を浮かべながら後退る。

 足掻くように振るわれる剣は精彩を欠き、難なく避けてからエッリは武器持つ手首をついに掴み取った。

 そして腹の底から絞り出すように、掌を通して青黒い情念を叩き込む。

 全霊の『異能アビリティ』解放。



「『情渦のインモラル・ハンド』――」



 「ぁふ」と異人が女のような高い声を挙げ、わずかに顎を上向けた。

 肌という肌が湯気立つように朱に染まり、びくびくと身を震わせ、ついには下腹部を濡れそぼらす。


 かすかに漂う雄の臭い。


 臭いへの不快感か、あるいは姿態の浅ましさにかエッリは鼻にきつく皺を寄せながら、両膝をつき、すぐに地べたへ肉体を横たえさせる異人を侮蔑の眼差しで見守った。

 急激に精も根も絞られ、上気した肉体に力を入れることもできずに異人は寝転がっている。そこには先ほどエッリに脅威を抱かせた剣気の欠片など何もない。


「わかった? これがあんたらに相応しい姿よ」


 斬り殺された部下のことなど失念していた。

 ただ弛緩しきって無様に転がる男の姿に溜飲を下げただけである。


「ふん」


 肩書きを持つ身としては、一瞬でも立ち止まっているわけにいかない。トドメを刺すのはいつでもできる。今は一人でも多く敵を削り、戦局をひっくり返すのが先だ。

 だが鼻で笑い飛ばし、気持ちを切り替えようとした時は遅すぎた。


「危な――」


 振り返れば、斬られた部下が倒れるところだった。

 助けられたという感慨はない。

 ほとんどの一兵卒が彼女の洗礼を受け、服従を誓っている。尽きても絞られる・・・・・・・・生き地獄を一度でも味わえば、誰もが従順になるのだ。

 言わば奴隷だ。

 男を女にかしずかせる――団や上官の意向を除けば、男を生かしておく理由などそれしかない。

 エッリは身を挺してくれた部下には一瞥もくれず、新たな敵を注視する。


えぐい・・・術を使うなあ、姐さん」


 どこから見ていたのか。

 ふいに横から斬りかかられても、無造作に剣を振るって弾き返す豪腕通り、分厚い胸が目を惹く大柄な異人だった。

 逞しい顎に太い首。正面から逆三角に見える上半身と太い股。

 すべてのパーツが太いせいか、見た目以上に巨漢と見えるその者は、精気に溢れ、何よりもエッリの心中をざわつかせる“雄の臭い”を纏わせていた。

 獣性と云ってもいい。


「そいつは女も知らねえ初心な奴だ。初めての体験がそれじゃ、女嫌いになっちまう」

「それはよかった」

「ん?」

「そのくらい慎み深い方が世のためだ」


 エッリの無愛想な答えに異人が「はて」と生真面目に首を傾げる。周囲の争いを忘れたかのような振る舞いだが、エッリが立ち尽くしたままでいることが「そうではない」ことの証であった。


「“術”といい“考え”といい、姐さんに少し興味が湧いた」


 にやりと浮かべた笑みに嫌らしさは微塵もない。それでもエッリは緊張感を走らせる。

 男が浮かべた笑みだから、だけではない。


「“百の思考より一度の実戦”」


 それが自身の信条なのか、異人は剣を肩掛けにする。その剣は他の者とは倍する厚みの異様な得物であった。

 まるで大型獣の肉を捌くに用いる大包丁に酷似する。問題はその重量で異人ならではの剣技を実現できるかなのだがいらぬ世話であったろう。

 それも倍する筋量が小枝のように振るってみせると容易に想像できるからだ。


「どれ、肌を重ねてみようか――」


 意味深に呟いて。

 ずい、と動いた歩みに彼女は今度こそ“戦いの緊張”を全身で味わわされる。まるで格上の『怪物』に出くわしたように。


「貴様、何者だ――?」


 明らかにこれまで相対してきた異人と別格だ。そう感じ取っての問いであることを眼前の異人には理解できたらしい。


「ただの下っ端だ。九つある『席付』のな」


 底なしの自負。

 異人――葛城剛馬の黒瞳にエッリは途方もない何かを読み取っていた。


         *****


同時刻

同じ戦場

  樹上の狙撃手――



「四つ。――五つ」


 太い枝の上で片膝着き、テオティオは狙撃した戦果を淡々と数え上げてゆく。

 眼下はほぼ鬱蒼たる枝葉に隠され、戦場となった樹林を十メートルも見渡せず、敵どころか味方の位置すら覚束ない状況だ。それでもなお。


「六つ――」


 戦果を積み上げるテンポは一定のリズムを刻み、流星のごとき光弾が刻一刻と敵の戦力を削り取ってゆく。

 まるで敵味方全員の動きが見えているように。

 いや、まさにそのとおり。


 『幽視キルリアン・アイズ』――

 その特性上、日中はほぼ効力を失うも薄暗い樹林においては最低限の働きを可能とし、枝葉を透かして人体の波動を薄らとではあったが捉えることができた。 

 テオティオは真人として新たに取得した特殊能力と類い希な動体視力などの複合的な認識力を用いて、脅威の狙撃率を実現させていたのだ。

 ただ、敵もさるもの。


「――やるじゃないか」


 余裕を持ちつつもテオティオの口から感嘆が洩れる。 

 以前より威力や速度、精度までも増した超狙撃術を以てしてなお、射殺できたのは最初の一発のみ。

それ以降は遮蔽物を紛らせ、剣戟の最中もひと処に留まらず常に足を動かし続けて狙いをつけさせない。明らかに対狙撃の術を心得ている動き。


「……やっぱ、マグレじゃない……」


 今また狙いが外れて肩口を撃ち抜くに終わった事実に、敵もまた並の部隊でないことを感じ取る。いや自分は知っている。あの特徴的な黒髪や平坦な顔立ちに見覚えがあった。


そうか・・・。お前らが“魔境士族”という者か――」


 情報には、あの“魔境”に棲みつくという眉唾なプロフィールが含まれていたが、これまでの体験を顧みれば頷けるというもの。

 その奴らであれば、相手にとって不足無し。


「まずはお前らを実験台にして、オレがどれだけ強くなったか確かめさせてもらおう」


 そうして彼はひとりほくそ笑む。

 テオティオにとってもこの力は未知数で、何を可能とするのか、とことん調べる必要がある。それには強者を相手取り、自分に眠る力を十分に引き出す必要があった。

 そうして己を知り使いこなす先に副団長との対立も視野に入ってくる。

 今や感じぬはずの昂ぶりを・・・・抑えるようにテオティオは狙撃に集中する。


「――次だ」


 左手に握る紫水晶から力を吸い上げ、体内で戦気として練り込んだそれを右手の親指に集中させる。

それがふいに霧散した。


「?!」


 自分でも何が気に障ったのか分からない。

 勘としか云いようがない。だがその感覚に救われた。

 何気に落とした視線の先――太い幹の中途で、まるで枝が張り出すように、樹幹に対し垂直に立つ・・・・・人影が目に映った。


「――ほう。気付かれたか」


 小柄な身から洩れる男の声。

 云うほど驚きの響きはなく、幹に足裏のみで張り付く姿が正常であるかのように、平静そのものでっている・・・・


 いつの間に――?!


 感情の薄れたテオティオに動揺はない。だが脳裏に浮かぶ疑念を切り捨て、人外の膂力を用いて右手に摘まんだ玉石を投げつけた。



 ビュッ



 手首のスナップだけで当たれば額を陥没させる威力を叩き出す。それを小柄な身をさらに折り曲げて躱した男が前に・・――駆け上がってくる!



 た、


 た、


 た、


 錯覚しているのは自分じゃないかと思う自然さで、男が素早く駆け上がり、テオティオは幹の反対側へ・・・・・・跳び跳ねていた。


(ならばオレも――)


 そのまま頭から落下しながらテオティオは短剣を抜き、幹に突き立てる。さらに逆さまであった身体を反転させつつ、幹に手指を食い込ませ、樹木をぐるりと回り込まんとする。

 男のいる側へ辿り着く前に、向こうから幹を歩きながら現れた。


 先ほどと上下関係が真逆となる――


 加えて移動力は向こうが上。

 圧倒的不利な状況にも関わらず、テオティオは自信に口端を歪める。


「こいよ――」


 渾身の力で爪先を幹に叩きつけて食い込ませ両手を自由にし。

 紫水晶を口に放り込んで迎え討つ。

 必然的に天上を仰ぐ形になったテオティオのローブがはらりとめくれる。

 闇夜に比べれば十分に明るい中、その瞳にゆらめく蒼き燐光がさらされた。

 一瞬、男の動きが止まる。

 鬱々と言葉を洩らすのはテオティオの挙動のすべてに合点がいったからだろう。


「……出鱈目な怪物め」

「それは褒め言葉だ」


 玉石を弾いた。

 射程の範囲であれば通常弾とはいえ威力が違う。

そして手首のスナップに比べれば速さの差異は明らかだ。


「――っ」


 むしろこの至近距離で躱す男が尋常でなかった。

 掠り傷を気にも留めず、落下の勢いを乗せて迫り来る。


(真人の瞳力に勝てるかよ――)


 絶対の自負を込めてテオティオが短剣を閃かせた。

 寸前でビタリと止まった男の鼻先を刃が掠め、間合い外で振るわれた右手に「届くものか」とテオティオが嘲笑すれば、その指先で何かが煌めいた。


「――ちぃ」


 人外の動体視力はそれすら見極め、回避と同時にカウンターの指弾を放たせる。

 確実にヒット!

 ぐらつく隙を逃さず追撃を――


「ぐぬっ?!」


 何かに腕を取られたと気付いた時には、片足も同じように巻き取られ、強く引っ張られていた。

 縄だ。

 男との激しいせめぎ合いに周囲への注意がどうしても疎かになっていた。その隙を敵の仲間に突かれたのだ。

 問題は、この乱戦の最中でどうして狙い撃ちのようなことができたのかだが、そこまで考える余裕はテオティオになかった。

 抗う間もなく強烈な力で引っ張られ、テオティオは為す術もなく宙に舞う。そこへ男が跳びかかり、テオティオの顔面に蹴り足を叩きつける。


「――」


 視界が暗転する。

 感じるのは浮遊感。

 そのまま地べたへ叩き落とされていた。


「他愛もない」


 頭蓋を砕く感触に小柄な男は無感情に呟いた。

 それを歩み寄ってきた同輩らしき影が窘める。


「不覚を取っておきながら何を云う。手助けせねばどうなっていことか」

「そういうが。こやつ、人外であった」


 男の言い分に同輩が眉をひそめる。それで男も説明不足を感じたのだろう。


「瞳がまるで鬼火のように、な」

「鬼火……?」


 そう聞き返すのはもうひとつの影。

 長身痩躯と見えて筋肉の量は並ではない。

 鬼火という単語に思うところがあったのか、長身は横たわる遺骸に近づき、潰れた顔をじっと見る。


「何か……?」

「うむ」


 人相を確かめ、顔色をじっくりと見回し、さらに両眼を覗きこまんと腰をかがめたところでさっと飛び退いた。


「秋水様?!」

「いかん、離れろっ」


 その切迫した警告を耳にするまでもなく、二人は気付く。すでに遺骸となっていたはずの敵の身体がびくびくと震え出していることに。

 さしもの手練れ達も、奇想天外な状況に度肝を抜かれ、軽く後退るだけが手一杯。


「なん、だ……?」

「おい、動いて――」

「いいから、離れろと云うているっ」


 長身の叱咤に今度こそ二人が飛び退けば、震えていた遺骸がむくりと上半身を起こし、立ち上がりはじめる。

 歪に陥没した顔のままで。

 だが、仔細に見ていれば抜け落ちた歯が生え替わり、ぐちぐちゅと頭蓋が波打って形が変わり始めているのに気付いただろう。

 ただし、鼻や口から滴る血糊が胸元を濡らす凄愴さに目を奪われていては無理であろうが。


「……確か『吸血鬼』だったか」


 長身が苦々しくある記憶を掘り起こす。

 不死身だとか、通常の武器では傷つけられないとか。魑魅魍魎が跋扈する異境の地に相応しき妖の物。

「秋水様。これがあの不死身という……」

「だろうな」


 うんざりしたように。

 長身の声はさらに苦みを帯びていた。


         *****


同時刻

ギドワ属領境界

  境界守備隊――



「おい、聞こえるか――?」

「ああ、間違いない」


 ひとりが街道から外れた森奥へ視線を投げると、他にも数名顔を向けているのに気が付いた。

 この封鎖された街道に訪れる者はなく、それ故に森奥から流れてくる剣戟の音がやけにはっきりと聞き取れるのだ。


「誰か隊長をお呼びしろっ」


 腰の剣に手をかけるほどではないが、緊張帯びる面差しでひとりが急報の要ありと判断した。そのまま駆け去る守備隊員には目もくれず、茂みを透かし見るように凝視する。

 今や誰一人封鎖した街道の先を監視する者はおらず、全員の視線が緑のベールに閉ざされた激戦の地へ注がれていた。

 伝わってくるのは物音だけではない。

 戦場ならではの殺気立つ緊迫感がひしひしと肌に感じられる。

 間違いなく、あの先で敵味方が入り乱れる熾烈なる戦いが繰り広げられているのだ。

 だとすれば、呑気に構えてはいられない。この地はたかだか二百メートル程度の幅しかない山間だ。戦いの場とはさほど離れていない。決して他人事ではいられまい。


「どうする――?」


 当然の質問に、なぜか当然の答えが返されることはない。それでもしばしの沈黙の後、意を決して口を開く者が現れる。


行くしかない・・・・・・

「そうだ。はじめから向こうが本命だ。我らが敵の真横を突ければ一気に戦いを終わらせられる」

「我らの手で終止符を」


 勢い込む「支援すべし」の声に、しかし、待ったをかける者がいた。


「待て、ヨーンティ様の部隊だぞ? 下手に介入なんかしてみろ――」


 皆まで云わずとも分かる。だからこうして迷い、躊躇もしているのだ。それでも辺境伯あっての『俗物軍団グレムリン』――それを失念する団員ではない。


「けど、ここは大事な局面だ。勝利を確実にすべきなら、ヨーンティ様だって分かってくれるはずだ」

「それに武勲を挙げるチャンスはそうあるもんじゃねえ」


 男嫌いな女王に対する恐怖もあれば私欲の混じる責務に野心が混じり、いずれの意見も無下にはできず、話し合いは迷走する。


「なあ、あんたはどう思う?」

「ん?」


 だしぬけに意見を求められ、一人岩場に腰掛けていた最年長者が皆の視線を集めた。

 正規軍の規律でいえば引退間近の四十代。

 顎から左頬にかけて皮膚が引き攣れた傷痕を残すベテラン戦士は団でも一目置かれる存在だ。


「あんたはどっちがいいと思うんだ?」

「尋ねる相手が間違ってるだろ」


 当人も困ったように頭を掻く。

 一兵卒が額を付き合わせたところで、部隊の方針を決めるのは隊長だ。あまりに不毛な会話に年長者は顔を顰めるが、期待に満ちた若手の・・・眼差しにため息をつく。


「……俺たちが加勢すれば、ヨーンティ様のプライドが傷つくだろうな」


 その言葉で「だよな」と全員が深々と首肯する。


「確かに大勢で男に寄りつかれでもしたら、それだけでキレちまうかもしれねえ」

「ああ。やっぱ止めた方がよさそうだ」

「あの方は“守られるタイプ”じゃないからな」


 口々に勝手な見解を述べる者達は、年長者が相変わらずしかめっ面でいる理由に気付くことはあるまい。


(男嫌い、ね……)


 彼はヨーンティの幼少期を知っている。

 彼女が辺境の女にありがちな不幸に塗れて育っていることを同じ小さな街の出身者として、話しに聞き目にしていたからだ。

 母親が三度も男をつくり、三度も捨てられたこともよくある話し。

 はじめの父親が「纏わりついて面倒だ」と子供の相手に嫌気が差して出ていった話しも。それを幼くして察した彼女が、二番目や三番目の父親にも必至で愛想良くして好かれようと努力していたのも街角でよく見かける光景であった。

 だが貧しき暮らしは彼女の努力を踏みにじる。

 貧しさへの対処は盗みか子売りか売春だ。

 小さな町村レベルでは大抵一番目か二番目が選ばれるが、彼女の新しい父親達はいずれも三つ目を選択した。さらに年離れた実の兄や新しい兄弟までも彼女にそれを強要した。

 彼女は素直に応じた。

 逆らえる状況ではなかったろう。

 結局は捨てられ、それでも新しい家族ができるたび、彼女は懲りもせず父や兄弟の無体な要求に応じ続けた。

 周りは頭がおかしいと蔑み、あるいは憐れんだが彼だけは違うと感じていた。

 何度も信じ、何度も裏切られ続けるその姿に。


(いや、あれは信じてるんじゃない。ただ寂しいだけだ……)


 寂しくて飢えている。

 彼女のそばに残るのはいつも擦り切れ疲れ果てた母親だけ。

 母親の腕に抱かれたことはあっても父親の背の温もりを感じたことはない。兄に手を引かれ、弟の手を引く安心感や責任感を感じたこともない。

 彼女の暮らしには常に欠けているものがあった。

 それを彼女は――。


「――よし、隊長にはここに留まることを皆で進言しよう」


 追想が断たれ、年長者は我に返る。

 この場にいる者の考えはまとまったらしい。まったくの無駄としか思えなかったが。


「異議無しだ」

「俺たちが行っても『異性過敏症』とやらのおかげで逆ギレされたら敵わんからな」

「異常だぜ、アレは」

「おいっ――」


 さすがに言い過ぎだと血相を変える仲間の指摘に云った当人も慌てて口を抑える。先日も口の軽さが災いし下腹部を切り取られた者がいたからだ。そんな若手の浅はかさなど年長者はいつもなら放っておくのだが。


「――そうじゃないだろ」


 云ってから自分で驚く。

 腹の底に溜まっている苛立ちに気付いて。

 不審げにこちらを見てくる若手を目にして、さらに語気を荒げてしまう。


「あの娘に――俺たちはヨーンティ様に手を差し伸べるべきじゃないのか?」

「「「……は?」」」

「いや――だから、な」


 言葉のチョイスを完全に誤った。

 呆けたような顔を見せられ、年長者もさすがに馬鹿云ったと動揺する。それでも一度言い出したことを止めようとは思わなかった。


「考えてもみろ。男嫌いというわりに、『幹部』の連中とは妙に仲が良い。いや、むしろ愉しそうじゃないか?」

「そら――」

「趣味が合う? 違うだろ。それで許せるなら男嫌いなんて云わねーぜ」

「けど『異性過敏症』はどうなんだ?」

「それだよ」


 年長者はそろりと低く呟く。

 本当に嫌いという理由だけで発症しているのかと。

 思わぬ問題提起に誰もが困惑の色を浮かべるのへ。


「男嫌いになるほど、ヨーンティ様に何かがあったのは確かだ。だがおかしな意味じゃなく、男を求める気持ちも強烈に秘めているからこそ、その酷いジレンマで心のバランスが崩れちまい、ぐちゃぐちゃになっちまった挙げ句、過敏症なんて出鱈目な症状が出ちまった――そんな風には思えねえか」


 男に対する不信感や猜疑心、それとは真逆の温もりを求める気持ち。

 彼女の過去を知らねば到底理解し得ない話しだ。いや、知ったところで理解できるはずもない。

 同じ絶望を味わい、それでも求める強い気持ちを持たなければ。それは今の年長者と彼らとの差に似ているだろう。


「~~~~」


 伝わらぬもどかしさに年長者はまたも頭髪を掻き毟り、ふいに大きく息を吐いた。

 そもそもこれは確かめた話しではない。彼の妄想と云えばそれまでのこと。

 真実など、彼女当人にしか分からないのだ。

 そう思うしかない。

 それに何より――知ったことではない・・・・・・・・・

 自分に良心なんてものがあるのなら、昔、あの時あの街角で何かをしてやれたはずだから。


「すまん。今のは――」


 忘れてくれ。

 シラケた空気に気づき、年長者が場を取り繕おうとしたところで、思わぬ助け船が入る。


「状況は聞いた――」


 駆けつけた隊長に皆が姿勢を正した。

 安堵を浮かべる年長者もこれではっきりと指針が決まると胸を撫で下ろす。


「マグルア、辺境伯に状況を知らせろ」

「ハッ」

「他の者は敵襲に備えろ」


 その言葉で全員が隊長の意図を察する。当然続く言葉は想定の範囲内。


「俺たちはヨーンティ様の快勝を信じ、持ち場を堅守する。それが期待された役目だからな」

「「ハッ」」


 『俗物軍団グレムリン』としては正しき判断であったろう。例え味方であってもクセの強い『幹部』を相手に慎重にすぎるということはない。その用心深さで自身の命が左右されるともなればなおさらだ。 


「――ワイアット。何かあるか?」

「――いいえ」


 隊長にまでそう問われたが、年長者ははっきり問題ないと告げた。偽らざる本音だ。

 ヨーンティ様は快勝する。その一点に賛意を示せば結論は同じなのだから。


(何でもいい。あの娘について、おれたちが何かを信じてやる。それで十分だ)


 軍団内でただひとり、彼女を気に掛ける者がいることを誰も知らない。

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