第80話 忍び寄る魔手(五)

『北街区』とある路地

      追跡者達――



 狭い路地裏をひた走る複数の人影。

 手に手に斧や長剣の牙を持ち、獲物を狙う鋭い眼光はイグスの狼か斑山猫の群れを彷彿とさせる。

 しかし鍛え抜かれたはずの人影が、心なしか息を乱し、足下の空箱を蹴散らして雑に駆ける姿にわずかな焦りを感じさせるのはなぜなのか。

 路地の出口を何かの願望すら瞳に滲ませ睨むのが、その答えであったのかもしれない。


「どっちだ?!」


 路地を抜けるや否や、人影達が夢中で首を振り、何かの姿を追い求める。すぐに別の方角からやってきた数名の影を捉えたが、その目には失望しか現れなかった。


「やつは、どうした?」


 やってきた連中に問われて、人影の一人が不機嫌を隠さず邪険に応じる。


「こっちが聞きたい。俺たちはやつを追い込んできただけだ。そっちの方が見えてるはずだろ?」

「見てたら聞くものかっ」


 即座に返されたところで、追い込み班の間に困惑や戸惑いが広がる。実は同じ問答を先の路地でもやっていたからだ。


「……どういうことだ?」


 追い込み班の呟きは、真っ先に考えるべき失態を頭に過ぎらせたためでもある。それを察した班内の一人が断固と否定する。


「隠れる場所などなかった」

「そうだ、間違いなくやつを追い立ててるはずだ」


 確かだと云いながら、“はずだ”と口にする言葉遣いに人影の不安が表れていた。それでも、己の失態云々を抜きにしても、“やり過ごし”を考えられないのは本音でもある。

 狭い路地の連続に、破られた跡のない戸口。

 確かに隠れられるような場所などなく、ほんの少し先を行かれていただけのはずであった。


「上は?」

「いや、そのような報告はない。見逃しなど考えられないっ」

「ならば先行されてるだけだ」


 追い込み班の一人が決断するように言い放つ。


「向こうは必死で逃げている。俺たちがそれについて行けてないだけだ。無駄口を叩かず、すぐに追いかけるぞっ」


 力強いその言葉に、全員が気を取り直したように大きく頷く。“追い込み漁”の策自体、迅速な行動が求められるものだ。ここで自分達がまごついて、作戦に綻びをつくれば、本当に獲物を逃がしてしまうことにもなりかねない。


「しかし、誰にも見られず先行するなんて」


 思わず洩れた誰かの疑念は、一斉に駆けだした集団のざわめきに掻き消されてしまう。あまりに重要なその疑念を検討するどろか情報共有されることもなく。

 それでも何名かは同じ疑念を抱いていたはずだ。

 獲物を誘い込むように行動する彼らに姿を見咎められず動くには、“こちらで狙っているルート”を先取りしなければなら・・・・・・・・・・ない・・からだ。


(まさか、俺たちの策を読んでいるのか?)


 必然、出てくる解釈を苦笑ひとつで誰もが否定する。


(ならばなぜ、自ら追い込まれようとする? どこかで強行突破を図るのが唯一の対応策だろうが)


 現時点でトラブルの報せはなく、すべては己の不安が勝手に描かせた可能性にすぎぬと首を振る。

 なのに、どういうわけなのか。

 それこそあり得ぬ妄想を、彼らはどうしても頭から追い払うことができなかった。


         *****


『北街区』別の路地

    逃走の秋水――



「ここが終着の地・・・・――か」


 路地を抜けた先で立ち止まり、長身痩躯の影が低く呟いた。

 秋水である。

 仲間の逃走を支援すべく、強敵と死闘を演じて外へ誘き出し、新たに加わる追っ手を多数引き連れ回して、十二分に囮役をこなして今に至る。

 だが、すべて秋水の思惑通りかといえば、そうとも言い切れない。今し方、“逃走劇の終わり”を秋水ははっきりと口にしたものの、ここが彼の目指した本来の逃亡先ではないからだ。


 あくまで招かれた・・・・場所であり、承知で受けた・・・・・・場所であった。


 そこは石組みの建物に囲まれた小さな広場――奥の方は建物の陰になり、月明かりが遮られて漆黒の闇に呑まれているものの、両側に別の路地と繋がっているのが辛うじて判別でき、袋小路でないことだけはすぐにでも分かる。

 それでも、この広場に逃げ場がないことを秋水は察していた。

 一度だけゆっくり瞬きしたところで、その双眸には明瞭な“確信”が宿っていた。技を使うまでもない。五感のうち視覚を閉ざすことで高めた聴力が、三方向から押し寄せる追っ手のざわめき・・・・をはっきりと捉えたからだ。

 それともうひとつ。


「気は済んだかな? そうでなくとも、ここで腹をくくってもらうことにはなるのだが」


 広場の奥から届いた聞き覚えのある声に、秋水はわずかに唇を引き締め足を進めた。

 今さら引き返すという選択肢はない。

 ここまでくれば、へたに彷徨うろつくよりもひと所に留まる方が打開の手も見出せようというもの。

 進むほどに奥の闇が薄まり、そこにひそんでいるものが次第に浮かび上がる。ただし声の主を視界に捉えるには、広場の中央まで進まねばならなかったが。それも相手の狙いであったろう。

 広場の中央で水音を立てるのは、公都の象徴である“清らかな乙女”の胸像であった。誰もが眠りにつく中、彼女だけは不眠不休で差し伸べた手から水を流し続け、周回する枠に “蒼の恵みブラグナード”の清水を満たし続けている。

 日中は水汲みに近隣住人が集まり、他愛のない世間話に華を咲かせるのだろうが、今は水の流れ落ちる音だけがやけに耳に付くのみだ。

 秋水の足が止まる。

 正面奥――ようやく、闇の中に佇む複数の人影が露わになっていた。その真ん中に闇と同化するような布地を頭からすっぽり被るフォルムの姿が。

 まるで身支度でも整えていたかのように、部下であろう者から差し出された二本の偃月刀を受け取る姿を目にして、秋水の眼がわずかに細められた。


「……霧の身体とやらも万能ではなさそうだな」

「それが分かったところで何が変わる?」


 秋水の呟きを拾い上げ、袖裾の中に偃月刀を呑み終えたフォルムが前に進み出た。他の人影が動かないのはその必要がないとみているからか。


「じきにここは封鎖される。逃げ場はない」

「ああ、そのようだ」

「万一、私を倒せれば、動揺した部下に隙が生まれ逃げられるかもしれない」

「だといいが」


 そこで布地の奥で訝しむ気配が漂う。いや、言葉を切った微妙な“間”も含めて勝手に推察しただけにすぎない。


「たいした度胸だ。まだ望みを持てる秘策でもあるのかな?」

「何も」


 秋水の声に揺らぎはなかった。続く言葉も太々しく吐き出される。


「ただ、ここで終わるつもりがないだけさ」


 フォルムが片手を高々と挙げた。

 それに応じて、建物の屋根上で蠢く人影が沸き上がるのに秋水は気付く。同時に建物の窓が開け放たれて、弓を構える者達も姿を現した。ここへ招いたのが彼らであるなら、このくらいの準備はむしろ当然というべきか。

 たかが一人のために産み出された圧巻の光景に、しかし、秋水は口元を綻ばせる。


「戦うのはあんた一人だろ?」

「逃げ場がないことを、今一度はっきりさせたかっただけだよ」


 それは本音でもあったろう。この後に及んでなお、悲壮感も諦観も見せぬ異人に、どちらが優勢かを思い知らせたいと望むのは当然だ。

 己の死をまったく受け入れていない泰然自若たる態度が癇に障り、人外とて忌々しさのひとつ感じたところで不思議ではない。――そうした言動が、秋水によって誘導されたものでさえなければ。


 策に嵌めたという優位性。

 “己の力”に対する強い自負。

 そして『呪法戦士オプシディアン』なる者との直接対決を望む強い念い。


 それらを踏まえて会話の中でさりげなく刺激することで、実質的に一対一の対決を明言させられたのだとフォルムが気付いたかどうかは分からない。

 少なくとも、この短いやりとりで小さな戦果を挙げたのは秋水であることは間違いなかった。


(まずはひとつ――)


 それが欠片であっても無下にせず、生き延びる可能性をひとつひとつ拾ってゆく。丁寧に拾い集め、小石ほどの可能性を“確かな希望”と言えるまでに大きく育て上げてゆく――地道な労苦なくして打開の策など生み出せるはずもない。

 肝心なのは、焦りで状況を悪化させることのない堪え凌げる精神力。それを熟知すればこそ、秋水はもうひと粘りする。


「不安だな。そいつら・・・・はあんた直属の配下なんだろう」

「違うが、それがどうしたと?」

「いやなに、途中であんたを守ろうと茶々を入れられたらかなわんと思ってな」

「いらぬ心配だ。そんな興醒めするマネはさせないし、第一、私が護られる側に立つことはない」


 秋水が頷く。納得したのは、現時点でこの場にはフォルム以外の強者がいないという事実。そして建物の屋根上と窓に弓で狙う者達がいるものの、あくまで秋水を寄せ付けぬための牽制であり、広場へ射かけるものでないことも、あらためて確信を得る。

 秋水が屋根上をちらり・・・と確認するのを目敏く気付いたのだろう。


にも周りにも逃げ場はない。可能性があるとすれば私を倒すこと。もう一度云おう――気は済んだかな?」


 いつの間にか、声は近くで聞き取れた。

 近づいていたフォルムに、しかし、秋水はわずかな違和感を覚える。それが何かと考える間もなく、秋水が水場の周りをゆるりと歩き始めた。すでにフォルムは目の前にいる。考えるよりもまずは行動が先だ。


「何のつもりだ?」

「何だと思う?」


 秋水の動きにフォルムは疑念を抱いたらしい。

 警戒心が湧いたのか、フォルムは秋水との距離をそれ以上詰めることはせず、間合いを保ったまま水場を大きく回り込む。

 半周を無為に描いたところで。


「愚かしい行為だ。これで路地を完全に塞いだぞ」


 フォルムの宣言を裏付けるように、三方の路地から追っ手が溢れ出た。事前の申し合わせがあったのか、各班で短い指示が飛び、半円に防御陣を敷いて出入口に蓋をかけるに留め、乱りに広場へ入り込むようなマネはしない。

 徹底された動きで広場の包囲は瞬く間に隙間なく仕上げられた。フォルム側からすれば、後は秋水を速やかに処理するだけとなる。


「ひとつ解せないことがある」


 見事に敷かれた包囲陣に関心すら示さず、秋水が口にしたのは疑念の声。


「あんたらハグレもの・・・・・でも国の軍だろう。ここまでするのは少し大げさすぎやしないか?」

「そうでもない。実際、“追い込み漁”をしなければ君は逃げおおせていただろう」


 フォルムは自信を持って反論する。


「先ほどの手並みといい、ここに来るまでの“追っ手の捌き方”も報告通りならば……君は逃げ切れていたのに、わざとここに来た節がある」

「……」

「云いたいのは、それだけの相手と思えばこそ、我らの想定訓練には丁度よい、と選んだことだ」


 今もこの結果に満足していると告げるフォルムの説明に、秋水は引っ掛かりを覚える。


「訓練? 街中でやるのがか・・・・・・・・? あんたら一体、何を想定しているんだ?」


 秋水の問いに、初めてフォルムは口を噤んだ。

 公国が他国と事を構える話しは秋水も耳にしていない。そのような兆しがあるとも噂でさえ耳にしない。では敵国の城攻め、街攻めでなければ彼らは何を想定し訓練に励むというのか。

 単なる言葉のあやでないことは、フォルムの沈黙が迂闊にも教えてしまっていた。それだけ意表を突く指摘だったのだろう。


「あんたら――」

「愚かだな。無駄口を叩いて完全に逃げ道を塞がれ、今またさらなる無駄口で体調コンディションまで悪化させるつもりか? 例えばその脇腹の傷――」

「!」


 眉筋の微細な動きだけであったが、フォルムならば秋水の受けた動揺を見抜いただろう。『弾き』によって与えられた傷は熱を帯び始めて、少しづつであったが、秋水の戦闘力を確実に削ぎ落としていた。


「鈍った動きでどこまで戦える? 悪戯に状況を悪化させずさっさと掛かってくるといい」

掛かってこい・・・・・・、だと?」


 今度こそはっきりと不審な目をした秋水がにやりと笑う。


「らしくない、な。そんなことを口にする前に、手を出すのがあんただろうに」

「そうかな? ではその通りに」


 フォルムが憤然と地を蹴った。そうとしか思えぬ強引さで前に出てくる。そして偃月刀を振り回すような横殴りの一撃も、反撃を受けることを享受した強引なまでの攻め方であった。



 ブ、ブン――ッ



 一撃目は上半身を反らして躱し、残った腰を二撃目が襲うも秋水は跳び退って避ける。どちらも斬りつけるよりは力任せに叩きつける一撃に、フォルムに対する違和感は強まるばかりだ。


「そっちこそ何のつもりだ?」

「何がだ?」


 何を問われたかなどフォルムも承知のはず。その上で惚ける態度に、水場に沿って後退る秋水が探るように目を細ませる。

 己の側面あるいは背後に必ず水場を添わせた秋水の戦い方は、一対一というよりも複数相手を想定したやり方だ。

 現時点では意味不明な秋水の行動であったが、同様に、フォルムの取った攻撃も水場から秋水を引き剥がそうとする意図が透けて見えるもの。一見して秋水の戦い方に乗った形だが、しかし、そもそもそんなマネをする必要はフォルムにはないはずだ。なのになぜ?


「……」

「……」


 戦術自体の意味は分かるのに、それを選択した理由が分からない――思わぬ相手の出方に、二人は互いにその秘められし意図を探り合う。

 そうなれば、百年分の戦闘経験を積んだフォルムの方が秋水よりも先に相手の秘事を暴き出すのは当然のこと。

 再び秋水に水場を背負わせる形でフォルムが位置取りを変えところで。


「……やはり君は何かを待っている」

「……」

「水場を巡りながら、さりげなく周囲を観察しているね。何が狙いだ、包囲の隙か? ――いや違う」


 そこでひとつ探るような間を空けて。


「合図だな。合図を待っている? それとも捜しているのか――合図サインを」

「あんた、やっぱりやりにくい相手だな」


 苦笑いを声に滲ませて。

 フォルムの無駄口を止めさせようとするように、意表を突いて水場から離れた秋水が、大胆に素早く詰め寄った。

 そこは偃月刀の間合いぎりぎり――絶体安全圏から振るわれる秋水の鋭い一刀! それを読み切っていたフォルムが、絶妙のタイミングで半歩踏み込み偃月刀を届かせる。


「む!」


 和刀は虚しく空を切り、狙い澄ましの一刀が秋水の首筋へ――避けきれぬ死の偃月を、しかし、秋水が革鎧のみを切らせて躱してのけた。初撃はただの誘い――腰の入らぬ腕振りだけ・・・・・の虚撃にすぎぬ。つまりは次撃こそがっ。



 ――ギ

    キッ――



 満を持した秋水の和刀を二本目の偃月刀が迎え討ち、それどころか弾き飛ばして一歩退けさせ、秋水が気力を奮い立たせて再び和刀を振るわんとするのへ、さらなる追撃が襲い掛かった。


 二撃、三撃――


 火花散り、膂力で勝るフォルムが秋水を猛然と追い込み、辛うじて態勢を崩すことはなくとも、眉間に深い皺を寄せる秋水が状況の優劣を如実に表す。


(これがこいつの本気か――)


 剛の者相手にこれまで後れを取った覚えはない。

 余人の想像を絶する修練により、その肉体に強靱な筋力が練り込まれているためだ。

 だが、その秋水をして互角に斬り合えず、弾かれ踏みとどまることさえ許されない。それどころか。


「くっ……」


 攻守は変えれず防戦一方のまま、秋水の頬は引き攣れる。ちらつかせる虚撃も二度目は効かず打開の一手となることさえ叶わず。

 じりじりと後退させられる劣勢が秋水をさらなる悪状況に追い落とす。


「――?!」


 ふいに何かに躓いたか――あるいは膝に利ていても不思議はない――秋水の身体ががくりと平衡を崩し、間髪入れずにフォルムが必殺の間合いに深く踏み込んだ。

 その瞬間、フォルムの双眸に灯る蒼き燐光が強烈な光を放つのを秋水は見た。同時にフォルムもまた、秋水の双眸から戦意が消え、そこに清廉な水を湛えた碧き水面を目にしていた。

 それは古今東西あらゆる対戦の場で幾度と繰り返されてきた“勝利の確信”と“深い諦観”の対峙であったろうか――?


 むしろ優美さを伴わせて。

 死を振る舞う偃月が左右に閃き、それをゆるやかにしか見えない手の動きが押さえ止めるなど、一体誰が想像し得たのか。


 感情の希薄なフォルムの身体から放たれた波動は、まぎれもない“驚愕”の二字。それを涼しげにやり過ごす秋水は、仏像のごとき例えられぬ面立ちのまま。

 死者のごとき冷たい手首に、秋水の熱き血潮を感じる掌がびたりと添えられていた。それも添えた位置から寸分も押し込まれることはなく。それこそが、フォルムを驚愕させた一事であった。


 『死転生握』――

 文字通り、死に際に転じて生を掴み取る術理は、秋水が会得するまで『失伝』しており、実在さえ疑われていた幻の術理であった。

 それは走馬燈の事例にみられるように、生死の境を彷徨うほどの極限状態に追い込まれた人間が、異常な集中力を発揮し、以て爆発的な能力を発現させるのを意識的に行う・・・・・・術なのだが、これまで会得した者は創始者を除き皆無であった。

 それも当然――まず、人に教えられるほどの記録がなく、修行を積む手法も確立されていない。そして何よりも生死の境に己を追い込む時点で、生還など覚束ないからだ。

 挑んだ者のほとんどがこの修行のはじめで命を落とし、奇跡的に生還できた者は心身を欠損し陰師の道を断念せざるを得なくなる――当然すぎる結果であり、誰も会得しようと思わぬのは道理であろう。

 それ故に、秋水が挑んだ理由は気になるところであったが、とにもかくにも彼は史上二人目の修得者となり、今し方その秘術を行使して見せたわけである。

 ちなみに、彼が為してみせた術理はふたつに絞られる。

 即ち、生死の境に身を置くことは勿論、五感のうち四つを意識的に断ち切り、脳機能のすべてを視覚のみに集中させること。無論、雑念を払うのは前提の上で。

 あやつの死は神のみが定める――存在の抹消を組織の長に断念させるほどの不世出の才人が秋水という男であった。


 二人が凝固した時間は一瞬であった。いや、正しくは“驚愕”に身を強張らせたフォルムの体感が。

 フォルムが次に認識したのは、秋水の右足が己の胴に当てられ、押されたことであったろう。認識していなかったため、踏ん張りが利かずに軽くよろめいてしまう。その反動で秋水は後方に跳び、水場に突っ込み派手な水飛沫を上げていた。


今の動き・・・・――」


 低い呟きが布地の奥から洩れ落ちる。

 結果から見れば、無様に水場に手をつく秋水と悠然とさえ見せて佇むフォルムの姿に攻防の優劣は明らかだ。

 だがその真実を知るフォルムは、真逆の判断をしたようだ。そうでなければ、すぐさま猛然と地を蹴り強襲する必要もないからだ。



 ズシャッ



 いつもと違う地面を深々と抉るほどの蹴り足で、猛獣が獲物に食らい付くかのごとく跳びかかる。今し方味わった底知れぬ秋水の実力に、“不傷不倒”の人外が畏怖を覚えたせいであると当人も気付かぬまま。

 その本能的な直感は確かに正しかった。

 これまでも、そしてこれから先までのすべてが、秋水の誘い・・・・・なのだと見抜いたのだから。


「GAaa!!」

「ちいっ」


 宙を飛び、斬りつけてくるフォルムに、秋水は慌てたように横へ身を翻し、猛然と放たれた二撃目を左手の刀で辛うじて反らした。

 猛々しいが隙もある。

 その隙を捉えた一瞬に、秋水は水枠に浸けていた手を抜き取り、手首をしならせる要領で鋭く少量の水を放っていた。


「――っ」


 袖を翻し、顔面を護るフォルム。その好機を逃さず秋水の前蹴りがフォルムの腹部にぶち込まれた。

 強烈な一撃にフォルムの身体がくの字に折れ曲がり、続く電光石火の後ろ回し蹴りで、秋水はフォルムの身体を水場に叩きつけていた。

 派手に飛沫が上がり、力なく水枠に腰を浸けるフォルム。そこへ悪ふざけでもするように秋水が両腕で水を掬ってざぶりとかけてやった。


「……?!」

「おい、水浴びを手伝ってやる」


 子供のように意地悪げに言い放ち、ざぶざぶとフォルムがずぶ濡れになるまで両腕を振るう。突然の奇行に面食らったのはフォルムの方だ。


「やめろっ」

「うはは!」

「何の、まねだ?!」

「どうだ――俺より動きが、鈍るだろ?」

「!」

 

 それで気付かされる。

 たっぷりと水を含んだ布地はフォルムの身体に張り付き動きを阻害する。常識外の膂力を有するフォルムにとっても、秋水相手の戦いで、些末事と無視できるものではないはずだ。

 膂力の均衡を崩したフォルムに対し、敏捷さの均衡を崩しにかかる秋水の策。

 嵌められたと知ったフォルムの様子を、だが秋水は気にも掛けずあっさり背を向けた。既視感を覚えるその行動は、もしや――?


「できれば二度と会いたくないな」

「むぅ……待て」


 フォルムの唸り声を耳にしながら、秋水は躊躇いなく駆けはじめた。まさか、この後に及んでなお逃走を図るとは。

 だが広場のどこに逃げ場がある――?

 それは初めに秋水自身がはっきり確認したことであり、見出せぬからこその“一騎打ち”ではなかったか。いや、目指すは三つある路地のいずれでもなく、弓兵が潜伏する開け放たれた窓のひとつ。その理由は明らかだ。


「やはり動かぬか――」


 殺意だけが矢となりて秋水の身に突き刺さる。

 しかし持ち場を死守する軍としての統率が、皮肉にも秋水の逃走を阻むことなくその経路を保持してくれるとは。それを苛立たしげに見守りつつも、なお、彼らは案じていなかったはずだ。最後には秋水が射殺されるものと確信していただけに。

 それが根拠のない確信であったと彼らはすぐに知ることとなる。

 確かに屋根上からは矢が放たれた。

 しかし、それを見越したかのように秋水の速力が上がって難なく切り抜けられ、何よりも肝心の窓から放たれるべき矢は、ついぞ一本もなかったのである。

 その姿が無傷で窓に飛び込んだ後、最後まで見守ってしまった自分達の愚かさに歯噛みしつつ、周囲の兵達が吠え立てた。


「何だ、どういうことだ?!」

秘具アイテムだ。それしかないっ」

「そんなもの使った様子はなかったぞ?」


 憶測がいくつも飛び交い、すぐに誰かの目撃証言で叩き落とされる。あり得ぬ事態に場が騒然となる中、別の誰かの恐怖に滲んだ声が、混乱する兵達全員の頬を鋭く平手打ちした。


「それより追うんだ、逃げられるぞ・・・・・・!」


 逃亡を許せば自分達がどうなるか。

 殺されるならまだいい・・・・・・・・・・。万一、幹部達による私刑に処せられれば。

 戦いで傷つく痛みならば耐えられる。

 だが、あのような痛み・・・・・・・は――。

 顔面に氷水をぶちまけられたように兵の動揺、困惑の感情が一瞬で凍り付き、全員の双眸から精気すら消え去る。


「ぉおお!!」

「急げっ」


 ふいに誰かが喚いて走り出し、即座に雪崩を打ったように全員が動き出した。戦場で馴らしたはずの猛者達が恐怖に背中を叩かれて死に物狂いで走り出す。

 狂騒ともとれる殺気をまき散らし、問題の窓へ我先にと詰めかける。そこで、先ほど動揺していた自分達が恥ずかしく思えるほど、種明かしは実に簡単なものであったと気付かされる。


「やられてるっ」

「仲間だっ。他にも仲間がいたんだ!」


 倒れている弓兵を発見し兵達は一目で状況を把握した。

 例の宿・・・にいた全員が標的であり、野放しになるとは考えられない。ならば、はじめから宿にいない仲間・・・・・・・がいたとするのが妥当な線だ。

 ただし、統制する立場の者なら気付いたはずだ。そんなことは今の状況を・・・・・予期していないと・・・・・・・・できない・・・・手法だと。

 クレイトン一家だけではない。

 『俗物軍団おれたち』が参戦することまで分かっていたのか?

 そうなれば、先ほどの作戦中も、ヤツを追い込んでいる手応えがあまりに希薄であったと、今さらながらに思い起こされる。

 すべて承知の上で応じたわけか。


「囮のつもりか……」

「それしかない」


 班長の一人が歯ぎしりする。状況を深く把握した者すべてが一様に屈辱と同時にわずかな感嘆を滲ませていた。そして明瞭な怖れも。

 これは単純に、力で打ち破るものとは次元が異なる。これだけの人数を相手取り、己の望むままに敵を動かし、無傷で切り抜けるなど、もはや人外の所業。

 このような敵は、彼らにとって初めて見聞きすることであった。あるいは団長達が英雄と謳われることになった帝国の『鬼諜』であれば、同じ事を為せるのか。

 ならば逆説的に、今、自分達が相手にしている者はそれほどの・・・・・――。

 しかし相手の力に畏怖する気持ちはすぐに霧散させられる。


「まだ逃げられてはいない」


 ことさら“逃げる”を強調するフォルムの声が各班長の沈みかけた意識を引き戻す。


「屋内を抜けるだけでも時間は掛かる。二班は先回りして逃走経路を潰し、獲物を篭から逃さぬよう素早く行動しろ」

「それでは獲物が」


 思わず不安の声を上げる班長へ「見失ってもいい」とフォルムは大胆に応じる。


「囲い込んでしまえば、後は同じ要領で追い詰めるだけだ。追い詰める先はどこかの建物でも路地でも構わない」

「聞いたな? 1ブロック先まで一気に走るぞ!」

「俺たちは窓から追跡だ」

「なら脇目も振らずに追いかけろ。取りこぼしがないかは俺らの班がチェックしていく」


 副団長の方針に応じ、次々と班長達による自主的な決断が為されて、指揮官の手をあまり患わせることなく部隊全員が動き出す。

 屋根上や窓の人影が速やかに消え、ふたつの路地へ各班が雪崩れ込んだ。混み合いも見せずにうまく譲り合うのはさすがというべきか。


「申し訳ありません、副団長」


 囲い込みの指揮官が足早に近づいてきて、深々と頭を垂れた。宿の対応で離れていたフォルムの代わりに、全隊の指揮を任されていた彼が立て直すべき状況であったからだ。逃げられた責も考えれば、震える肩が悔恨よりも怯えが先であることを周りの連中だけは気付いていた。

 戦地なら首を落とされる失態だが、しかし思わぬ言葉がかけられる。


「一歩も動くなと命じていたのは私だ。逃がすつもりもなかったからね……少し我が儘が過ぎたかもしれない」


 一切の悔恨も自省もみせずに淡々とフォルムが告げる。おそらく顔面蒼白であろう指揮官は頭を下げたまま、沙汰を待つ。それとこれとは別、というのも聞き慣れた台詞であるだけに。だがまたしても、周囲の予想に反した言葉がかけられた。


「今回の目的はあくまで訓練だ。追い込んだと思ってもなお、敵に裏をかかれる場合もある――いい教訓になったじゃないか?」

「はっ――」


 それに彼という貴重な存在も知ることができたしね、と呟くフォルムの言葉など誰の耳にも届いていない。戸惑いの方が大きいためだ。追跡を促されて無罪放免となっても指揮官の表情から困惑が消えることはなかった。


「あの、副団長――」


 去り際に、足を止めた指揮官が「これだけは」と思い切った感じで言葉を発した。


「実はここに追い込むまで、あいつ・・・に一度ならず二度までも、我らの“追い込み”を透かされました・・・・・・・。もしかしてあいつ……」


 観えている・・・・・のではないかと。

 少しばかり深刻げな面持ちで指揮官は己の所感を口にする。


「そう捉えれば、屋根に上がったり地上へ降りたリするのも我らに対する“揺さぶり”であったかとも思えまして」

「なら“強度”を確かめたのかもしれない」

「強度?」

「“追い込み漁”の策がどの程度かを、あえて確かめたのさ。包囲網に綻びが出るのか、弱点はないのか」


 淡々とした口調になぜか“喜び”を感じて指揮官が訝しむ。フォルムの口調は変わらず。


「つまりあの男には“盤面・・が観えている・・・・・・――なるほど、やはりこれ以上のない獲物だ」

「副団長、この先もあいつには――」


 意欲を燃やすフォルムとは真逆に指揮官は深刻さを増していく。翻弄される自分達の苦い未来を感じ取ってのことだろう。


「それでもここへ追い込んだということが、何よりも大事だ」

「はっ」

「誇るといい。君は『鬼謀』が考案した複雑な策を己の中に落とし込み、見事に指揮してみせた。今日の訓練でさらに磨きを掛け、本番でも確実な成果をあげてくれることを期待している」

「お任せ下さいっ。これほど貴重な実戦的訓練を決して無駄には致しません!」


 今度こそ、威勢良く駆け去る指揮官を見送ることなく、フォルムは肌に張り付く布地を忌々しげにつまんだ。


「――不愉快だ。替わりをくれ」


 すでにはじめの集団のみを残して、人影はとうに絶えている。

 水を含み重くなったローブを脱ぎ捨て、偃月刀まで放り捨てたフォルムの手に新たな品物が渡された。着替える際、さりげなく周囲を班員達が覆うのを気にする者は無論誰もいない。手渡しの際も目を閉じて行われている。

 この世にフォルムの姿を見た者はいない。

 偶然でも目にしてしまった者は、すべて彼の手で斬り捨てられたからだ。

 乞食も貴族も子供も今際いまわの際の老人でさえも、誰一人分け隔てることはなく、偃月刀の一振りで無に帰した。

 



「――気付いたかもしれないな、あの男なら」


 ぼそりと洩らされた声が愉しげに聞こえたのは、きっと気のせいであろう。そこに昏い喜びがあるなどとあるはずもなく。


「抜け目のない男だ。仲間に仕掛けさせるために、あえてここに留まったな。一対一を誘うのも、全体の動きに制約をもたらすためか――」


 フォルムは秋水の動きをひとつひとつ吟味する。侮れない敵であるならば、その考えを読み、己に落とし込んでおかねば足下を掬われかねない。これまでの経験がフォルムに慢心を許さないためだ。

 一戦毎に相手を丸裸にしてゆき、勝利を手繰り寄せる手法は身に染みたもの。悠然と身支度を整え終える頃には、秋水にとってさらに手強さを増したフォルムがいた。


「二度も焦らされるとは思わなかったが、それも一興か――」


 再び追跡を開始したフォルムを含めて、誰もがすぐにでも秋水と対峙するものと確信していた。

 しかし、長身痩躯の姿をそれきり見ることは誰一人叶わなかったのである。後に指揮所より撤退命令が出されてもなお、執拗に捜索を続行させたフォルムの執念を嘲笑うように、包囲したブロック内の建物すべてをくまなく調べ尽くしても、痕跡ひとつ見つけることはできなかった。それは勿論、地下の下水道においても。

 秋水とその仲間の姿は、忽然と夜気に溶けたかのように消え去っていた。


         *****


『北街区』

 地下の下水道――



 トッドが非常用に所持していた『月明かりのペンダント』を頼りに、二人は息苦しい地下の水路に沿った管理用通路を慎重に進んでいた。

 もしや追っ手が気付いて追いかけてくるのでは、との不安や緊張感も今では薄まり、意識は自然と街の地下に張り巡らされた広大な水路網そのものに向けられるようになる。

 何しろ素掘りではない、アーチ型の石組みで構築された大規模な下水道施設だ。しかも迷路のごとく枝分かれした構造は、そのきつい異臭さえなければ『遺跡』を彷彿とさせる赴きすらあった。

 石畳を踏む感触。

 石壁に反射する硬い足音。

 これで巧妙な罠仕掛けや隠し扉の奥に宝箱でも発見すれば、立派な遺跡の探索気分を味わえることだろう。

 勿論、世の下水道には“腐り病”を発症させる『灰毛大鼠』や排泄物を糧とする『汚物喰らい』などの危険生物が巣くっている場合もある。運が良ければ(?)探索に付き物の“怪物との戦い”だって体験できる可能性もあるわけだ。

 少なくとも、そんな妄想を邪魔せぬくらいには割ときれいな施設だと言えるだろう。時折、のろ・・だか糞溜めだかも分からぬものを踏みつけ進むのは覚悟の内として。


「もっとひどい臭いがするかと思いましたが」

「十分臭いだろ。まあ、上流の“蒼の恵みブラグナード”から大量に水を引いてるから、それなりに薄まってはいるんだろうけどな」

「“蒼の恵みブラグナード”?」

「湖だ。俺たちの生活を守り、公城の護りも堅めてくれる貴重な水源だ」 


 トッドの説明がくぐもって聞こえるのは、顔前に布を巻いているためだ。斥候らしく五感の鋭い彼にとって、薄められても汚物臭を常人の倍する強さで嗅ぎ取ってしまうらしく、口調もどこか不機嫌なものになっている。

 そんな彼とは正反対に、臭気を気にせぬ鬼灯は「それにしても」と感心したように云う。


「街の地下に湖の水を引くだなんて……凄いことを考えますね」

「公都ともなればそんくらいはな。ただまあ、人間おれたちにゃできない発想なのは確かだ」


 その微妙なニュアンスに「どういう意味です?」と鬼灯は疑念を抱いたようだ。


「……ああ、“地面の下を掘り抜いて糞尿を水で流しちまえ”なんて壮大な絡繰りを考えるのは岩窟族ドワーフくらいしかいねえからな。実際、計画の言い出しっぺは連中だという話しだぜ?」

岩窟族ドワーフ……洞窟生まれの精霊でしたか?」

「また半端に云いやがったな。色々云いたいことはあるが、まあ、とりあえずはそれでいいか」


 うろ覚えの知識を口にする鬼灯にトッドは半ば呆れながら聞き流すことにしたようだ。


 岩窟族ドワーフ――。

 男女ともに体毛が濃く、短躯で力持ち。そして酒を好む特徴は有名であったが、それ以上に彼らを彼らたらしめる重要な特徴がある。

 それは鉱物を愛するということ。

 岩窟族ドワーフは日がな一日“鉱物と語る”のが好きであり、“鉱物と戯れる”ことをライフワークとしている。

 単純な穴掘りから鉱物の精製、加工それらを用いた構造物の建築造形――果ては絡繰り細工まで趣味が高じた才人も多く輩出してきた。伝説の“絡繰り城砦”などはその最たる事例と云えるだろう。

 そんな彼らが、都市の衛生管理に頭を悩ませる権力者達の問題を得意の“掘り物”で解決してみせるのはごく自然な流れであった。


「ここの下水道は“清浄水路”に合流するだけだが、世の中には地下の大亀裂に流れ込むおっかねえ下水道もあるそうだ。落ちたが最後、這い上がれない奈落を死刑の手段にも使っている、とかな」

「なんともはや……そんなものが寝床の下にあるかと思うと、寝付きが悪くなりそうですね」


 そう云う割に、どこか愉しげな感じの鬼灯に「世の中、酔狂なヤツもいるからな」とトッドは前置きしながら与太話を追加する。


「底知れない奈落の底を観てみたい、なんて馬鹿な好奇心を持っちまう『探索者』なんかが当然現れたりするわけだ」


 名を挙げるには格好のネタであり、腕に覚えがあれば挑んでみたくなるネタでもある。

 当然、「挑む」と喧伝すれば瞬く間に噂が広まって、周りが勝手に盛り上がる。そうなれば話しはトントン拍子。

 道楽好きな貴族の支援がつき、速やかに後方支援の班体制が構築され、登攀専用の道具だけでなく役立ちそうな秘具も揃えて、万全の準備で臨んだはずの彼らは、しかし、二度と戻ることはなかった。

 “奈落の底には恐るべき怪物がいる”との噂が加わるようになったのは、そうした事例からの賜だ。

 それから大がかりな挑戦が行われるたび、下水道の逸話が増えることを幾度も繰り返されることになる。今またこうしている間にも、新たな探索の名乗り手が現れているだろう。


「……まだ“大亀裂”の奥が明らかになったという話しは聞かないから、今も謎のままなんだろう。どうだ、いつか挑んでみちゃ?」

「ずいぶんと飛躍しましたね。正直、穴蔵に興味はありません。臭いはともかく息が詰まりそうで」

「“臭い”はいいのかよ……」


 トッドが呆れた声を上げたところで、いよいよ水の流れる音が大きくなってきた。前方の闇は深いままだが、奥から届いてくる水音は“清浄水路”への合流部が近いことを伝えている。


「もうすぐだ。“清浄水路”に合流できれば『北街区』を抜けたも同然だ」

「扇間さんもうまく抜けられればいいのですが」


 そこで初めて声音を低める鬼灯を「大丈夫だ」と安心させるようにトッドが保証する。


「ペンダントは渡したし、水の流れに注視すれば自ずと“清浄水路”に辿り着く。厄介な鼠もペンダントの明かりで逃げちまうはずだ。俺たちは支援するためにも、速いとこ奴らの背後に回り込もう」

「ええ、そうですね。だいぶ馴れてきましたし、まずは先を急ぎましょう」


 やがて前方にうっすらとアーチ型に輝く出口が見えてきた。月明かりに揺れる“清浄水路”の水面まで判別できるほど近づくにつれ、通路が行き止まりであることに二人は気付く。

 危険生物だけでなく盗人など悪漢が出入りできぬよう安全対策の一環でもあったろう。下水道内と外界とを隔つ鉄格子をトッドが強く揺すって、微動だにせぬと理解するや思い切り蹴飛ばした。


「くっそ、こんなのがあるなんて聞いてないぞ!」

「得意の便利な小道具はないのですか?」

「探索の支度をしてるわけじゃないんだ、そんなホイホイ出てくるもんかよ」


 項垂れつつも、未練たらしく鉄格子を揺さぶり続けるトッドに鬼灯は軽いため息をつく。


「仕方ありません、戻りますか」

「ここまできて……」

「先ほどのような梯子が近くにありませんか? そこまで戻ればいいだけでしょう。それとも、そこを潜る手もあるにはありますが」


 鬼灯が見つめるそこ・・は汚物臭を放つ水路の中。よく見れば、鉄格子が塞いでいるのは水面あたりまでで、それ以外は流れを阻害させないためなのか、忌々しい鉄格子がなさそうであった。

 だが、あの中を?

 薄められていても糞尿の臭いを放つ汚水には変わりない。それに時折、何かの残骸が浮きつ沈みつ流れてゆくのを眺めていると、躊躇いや嫌悪感が胸の中で徐々に大きくなってゆく。こんなものに一度でも装備を浸せば、二度と洗い落とすことなどできないのではないか?


「……いや、さすがにな」

「私も同感です。では戻りましょうか」


 命が掛かっているのだから、とはいかぬのが不思議なところ。二人の意見が一致したところで、それでもトッドは悔しげに、鉄格子をもう一度蹴りつけた。


「ふざけんな、この野郎がっ」

   ガンッ!!

「聞こえたか?!」

「下だっ」


 どこからともなくそんな鋭い声が聞こえてきて、二人は思わず顔を見合わせる。にこやかに睨み付ける鬼灯に対し「やっちまった」という情けない半笑いを浮かべるのは当然トッドの方だ。


「間違いない。奴らが来たぞ!!」

「急げっ」


 今度こそ、出口の上方から男達の切迫した声が二人の耳に届き、大いに慌てさせることとなる。話し声からして、二人が下水道を使うことを予期していたような口ぶりだ。


「まずい、気付かれていたみたいだぞ」

「貴方が合図・・を送ったのが致命的ですけどね」

「だから悪いって!!」

「それより早く、戻りましょう。回り込まれたら厄介です」


 さっさと背を向ける鬼灯に、トッドは慌てて後を追う。下水道の外側に階段があるらしく、降りてくるような足音に急き立てられて、二人は夢中で駆けだした。


「あの明かりだ。奥に走って行く!」

「よし、先回りしろ。その方が速い」


 やはりそうくるか。

 後方から届く声に二人の顔は厳しいものになる。

できればすぐにでも地上へ出たいところだが、そうなれば状況は振り出しに戻るだけとなる。とはいえ、“清浄水路”から離れすぎるのもジリ貧だ。叶うなら奥へは進まず枝道に進みたいのだが。

 そうした願いを断ち切るように、前方に何かを擦る音共に光の柱が突き立った。地上と下水道を繋ぐ出入口の石蓋を開けた者がいるのだ。 


「やべえ、もっと速く走れ!!」

「分かってますっ」


 もしかしたら、挟み込まれる恐怖より水路に飛び込まねばならぬ恐怖の方が二人を突き動かしたのかもしれない。

 ペンダントの効果範囲が心許なくて、小走りしかできなかったものを、なりふり構わず走り出す。まるで闇の壁に飛び込んでいくような恐怖を懸命にねじ伏せて、鬼灯の歩速が一気に跳ね上がっていた。


「おい、今何かが――」


 上方からの言葉はすぐに喚きに変わり、それもほどなくして通路内の単なる反響音になる。だがその程度の距離を離したところで振り切れるとは思えない。思った以上に奴らの先回りが迅速だったためだ。だとすれば当然――

 予期したとおり、すぐに前方で擦り音と光の柱が。

 先ほどよりも遠い位置に、先回りする方が確実に速くなっていると気付かされる。この場を凌いでも次があるとは思えない。


「おいおい、本当に拙いぞっ」

「とにかく本道から反れないと……」


 そうは云ってもどれがいいのか見当も付かない。あまり狭い枝道では行き詰まる可能性もあるため、思い切った選択がとれないのが実状だ。


「貴方が先導してくれませんか?」

「時間を無駄にするだけだ! 俺だってここは初めてだ!」

「ですが!」

「同じだって!」


 走りながらの会話なため、どうしても怒鳴り合うような感じになる。初めての下水道に切迫した状況、走りながらの会話に体力が削られ、息を乱しはじめた二人にさらなる追い打ちが。


「追いかけてくるっ」

「聞こえてますっ」


 ついに下水道へ連中が降り立ったらしい。だいぶ後方ではあったが、激しい足音が怒鳴り合う二人の耳にもはっきりと聞き取れた。


「どこでもいいっ。曲がってみようぜ!」

「そんな場当たりでは!」

「時に己の運に賭けるのも探索者ってやつよ!」

「なら見習いの私には従う道理がありませんね!」

「あほか、そんな屁理屈云ってる場合じゃ――」


 そこで突然立ち止まった鬼灯の背に、トッドが反応しきれずぶつかってしまう。


「わっぷ!! ……おい、急に」

「しっ、聞こえませんでしたか?」


 トッドに背中にしがみつかれながら、鬼灯は構わず沈黙を要請してくる。何を云ってやがると喚く前に、さすがにトッドも一流探索者として、一時的な相棒が鋭く見つめる先を追った。


「俺は敵じゃない」


 目一杯怪しすぎる第一声に二人の雰囲気が引き締まる。

 水路を挟んだ向こう側。明かりも付けず暗闇にまぎれたまま、枝分かれする下水道のひとつから、その声は聞こえてきた。

 気配も感じとれるのは、その程度の技倆だからなのか、あるいは敵意の無さを示すためかは判断できない。


「いいか、俺は敵じゃない」


 もう一度、低い声と共にペンダントの効果範囲内に膝下が見える程度にそいつが進み出てくる。


「……もう少し、前へ出てもらえませんか?」

「そんな場合じゃないはずだ。すぐにでも奴らが来るぞ?」


 鬼灯の誘いを男の声はやんわりと拒絶する。姿を隠す理由があるともとれるし、単に事実を伝えているともとれる微妙な返事に鬼灯は黙り込む。

 だが、そうこうしている間も連中の足音はどんどん大きくなってくる。


「助けてくれるのか?」


 だしぬけにトッドが水路を飛び越えると、男は機敏に反応して膝下までしか見えぬ間合いを保つ。その動きを見る分に、気配を隠さぬ理由がひとつ解明されたことになる。


「――仕方ありませんね。助ける気があるなら、さっさと用件を仰って下さい」


 鬼灯も同様に水路を飛び越え、男に迫る。これ以上問答に時間をかければ奴らを引き攣れ逃げることになる。謎の救援者の策まで潰せば万事休すと思えば、目前の男に賭けるしかない。


「まずは明かりを消してくれ。追っ手に手掛かりを与えたくない」

「わかった」


 それでは動けなくなると疑念の声を上げるより早くトッドが素直にペンダントの力をオフにする。突然闇に呑まれた圧迫感と同時に後方で連中の動揺する声が二人の耳に届いた。

 距離感の掴めぬ下水道で目標を見失えば、枝道に入ったと推測できてもそれがどの辺りかなど見当もつけられまい。連中が慌てるのは当然だろう。

 だが、こちらも身動きはとれなくなるのだが。


「俺の背中に触れていろ。お前達も仲間の背中に触れるんだ」


 男の動く気配と手を取られ導かれるままに二人は従う。

 暗闇で男を先頭にした簡易隊列が組まれ、トッドは自分が真ん中におり、鬼灯は自分が最後尾になることを自覚する。

 その頃には、男はどうするのかという疑念も自然と解決されていた。

 視覚が強制的に閉ざされたことで、聴力はもちろん頬に触れる空気の流れや漂う異臭などに意識が向くようになり、それらを通じて下水道内をあらためて知覚するようになってきたからだ。

 気付けば息苦しさも薄れ、代わりに連中がすぐそこまで迫ってきている実感が強まって焦りが沸き上がる。


「行くぞ――」


 低い低い男の声で二人は前方にひどくぼんやりと通路の輪郭を視てとることができることに初めて気付く。


「それも『月明かりのペンダント』か?」

「いや『星屑の時計』だ。錬金術が薬液の配合時間を計るのに使うらしい」


 それでは説明が足りぬと気付いてくれたのか、男はもう少し言葉を付け加えてくれる。


「こういう時に丁度いい明るさなんでね」


 だから利用としていると。どうやら通路の状況をぼんやりと見れるのは、その明るさのせいだということらしい。

 あとは鍛えた『夜目』の力で捕捉すれば、歩く分には支障なく、離れた追っ手から気付かれることはないというわけだ。

 耳を澄ませば、追っ手の迫る速さがゆるくなっている。枝道を確認しながら進んでいるせいかもしれない。このまま距離を稼げれば、撒ける可能性も出てきたということか?


「奴らが近い。俺がいいというまで、もう声を上げるなよ?」


 男の声を最後に三人はしばし沈黙に身を委ねることにした。


         *****


街壁北端

『北街区』警備詰所――



 宿屋の主人がどのような心境でいたのかをひげ面親父は骨の髄まで思い知らされていた。

 宿の主人は“親父の語り”を聞かされ続けたが、自分の場合は“耐え難い沈黙”。圧倒的強者がもたらすものは、語りであれ沈黙であれ、弱者にとって無害なものなどないということを脳裏に刻みつける体験であった。

 もう許してくれと喚き散らしたくなってくる。


「そのへんで止めた方がいいと思うがね」

「あ? ……ええ、気遣ってもらってすまねえ、です」


 対面に身動ぎひとつせず座している者に、ひげ面親父は何を云われたか気付いて、ぎこちなく礼を述べる。それでも無意識に手に持つ酒杯を口に付けてしまっていたのだが。


「ングング……ぷはっ」


 葡萄酒を口から溢れさせ濡れた髭を無造作に拭い、濃い酒気を帯びた息を吐き出すも一向に酔う気配がない。それもこれも、テーブル向こうに陣取る者のせいである。


「最後の追い込みに入ったという報せを受けている。もうすぐ終わるだろう」


 ひげ面親父の不安を作戦の動向にあると捉えたらしく、わざわざ慰めの言葉をかけてくれる。


「あの連中をね……大したもんだな、あんた方の力は」

「死人が出てないそうだ」

「……一人も?」


 さすがに濁った目を見開くのは自分の仲間がどんな目にあったかを知ればこそ。異人の実力は認めるだけに、無傷で目標を達成しようとする組織の力にひげ面親父が瞠目するのは当然であった。

 だが、対面の人物は別の意見を持っているらしい。


「つまり相手が手を隠しているとも読み取れる」

「本気じゃねえと?」

「さて。私は軍略家じゃないからな」


 そこまで推察できないということか。

 確かに軍略を嗜むにしても、見た目二十代と思しき人物は熟成が足りているとは思えない。ただし、『鬼謀』を倒した人物であることは間違いなく、しかもそれを為したのが十年前だとすれば額面通りに受け止めるのは愚かというべきだ。

 一昔前までは、“救国の英雄軍”と心の底から讃えられた『俗物軍団グレムリン』の団長という肩書きは、伊達や酔狂で付けられるものではないだけに。

 それだけに、ひげ面親父が言葉に悩んでいるところへ、扉の外から声が掛けられた。今の状況から推察すれば、用件は十中八九、戦況報告に違いない。

 先ほどの案内人が入室し、一瞬躊躇ったあとに団長へ紙片を手渡した。


「ゴーラン殿」

「お、おう。何か進展かい?」


 団長の病的なまでに蒼白い相貌からは、感情の機微を感じ取ることはできない。吉凶の予想もできずにひげ面親父は心臓を高鳴らせる。


「作戦はこれで終了だ」

「じゃあ――」

「すまないが貴方の求める物は入手できていない。これからの交渉次第ということになる」


 それはつまり、どういう状況だということだ?

 困惑するひげ面親父に団長は説明することなく一方的に宣言する。

 

「あとの処理は我々に任せていただこう。会えてよかった。立場上、我らは顔を合わせないのが得策だからな。こうした機会も今後はとれないだろう」

「なあ、俺の遺産はどうなる? 交渉って」


 それだけはと気色ばむひげ面親父を団長が正面から見据える。それだけで団長はひどい後悔を覚えてしまう。

 己の眼窩から冷気が侵入して脳髄を凍らせるような感覚に、視線を反らしたくても反らせぬ金縛りにあいながら、ひげ面親父は団長の言葉を耳にする。


「余計な心配はしなくていい。今後は一家の力を取り戻すことにだけ精力を傾けろ――よろしいか?」


 ひげ面親父の首がかくかくと縦に振られる。

 まるで自分の身体じゃないみたいに、こちらの意識を無視して勝手に頷き続ける。護衛役のロウアンが何もできずに見守る中、ひげ面親父の身体がゆらりと戸口へ向かった。


「約定通り、『裏街』をしっかり把握していただこう、ゴーラン殿」

「……わかった」

 

 突然の会談ははじまりと同じく唐突に終わりを告げ、誰が締めたのか、扉はひげ面親父の背後でゆるりと閉じられた。

 まるで現世とあの世を隔つかのように、扉が閉じられると同時に、何かの呪縛が解かれて肩の力が軽くなったような心持ちになる。

 無事に戻ってきたのか、自分は。

 薄暗い通路に漂う冷たい空気が筵心地よい。

 だが安堵しきる寸前でこらえ、ひげ面親父は懸命に足に力を込めた。一刻も早くここから離れるために。


「なんだってんだ、一体……?」


 それまで、一度として振り返ることなく沈黙を維持していたひげ面親父が重い言葉を吐き出したのは、詰所の影が視界から完全に見えなくなる頃である。

 だが、そばにいるはずのロウアンから返事はない。ひげ面親父自身、必要ともしていなかった。ただ、内奥に溜まる濃い疲労を吐き出したかっただけである。

 そうしてようやくひげ面親父は気がついた。

 軽い眩暈と嘔吐感。

 どうやら自分が酔っ払っているのだということに。

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