第75話 湖畔のほとりで

公都キルグスタン

 西の湖ブラグナード――



 公都で消費される建築資材のほとんどは、都を大きく取り囲む大輪山の主に東側で産出されている。それは時の為政者達が西側の深い原生林に別の重要な役目を見出し、保護に努めてきたからでもある。

 すなわち水源涵養としての役目を。

 原生林に降った雨はたっぷりと滋養を含んで土中深くに浸み入り、やがてすり鉢状になっている山の麓に集まるように湧き出で、大きな湖となる――文字通り公都を潤す“源泉”を生み出し育んでいるのだ。

 その源泉の名はブラグナード――“蒼の恵み”を意味する呼び名は、古くからこの地に棲む土着民の伝承からきているとも、都を築いた大公家の祖が口にしたのが始まりであったとも云われているが、真実は定かではない。

 だが、誰が名付け親でもいいだろう。

 その呼び名に相応しき風光明媚な地所であるならば。

 湖に寄り添う街に生まれながら、堅牢なる街壁の内に閉じ籠もるようにして長き年月を過ごし、良くも悪くも“暮らしの垢”にまみれてしまった者ならば、一歩“外”へと足を踏み出し、その輝く蒼き湖面を目にするだけで、抱いていた疑念を薄め、“蒼の恵み”という名の由来に、ただ、深く感得するはずだ。


 それ以外にあるまい、と。


 そして、澄み切った蒼い水面に魅せられて、今あるすべての雑念を一時なりと忘れ去れれば。



「――――……」



 そう。

 ここに来て、この景色をただ眺めて、心地よさに身を任せればそれでいい。

 湖面の上をそよぐ涼風が身体を吹き抜けてゆく・・・・・・・ような感覚に、ほうっとその身を弛ませて。

 優しい陽射しにぬくもりを感じて。

 ゆるりと、身も心も、ただ自然に任せればいい。

 ただゆったりと――


「……バルデアか」


 湖のほとりで、ひとり静かに佇むルストランが振り返ることなくそう口にしたのには理由があった。

 共の者なら“待機の命”に背くはずがなく、そうでなくとも、こちらに気配を感じさせる前に一声断りを入れるもの。そして何より――人気ひとけのないこの場所へと近づくひづめの音を耳にしていれば。

 さらに付け加えるなら、今や大公代理となったルストランの意に反し、あえて足を向ける者など幾人いると言えようか。

 少なくとも、来訪者の正体が腹心の騎士であるならば、その用件をないがしろにするつもりはルストランにはなかった。


「待たせたな」


 あらためて労いの言葉を掛ければ。


「……むしろ貴重なご休息中に、それも大切な場へ踏み入ってしまい、ご容赦願いたく」


 無骨な言葉遣いではあったが、その嗄れた声に含まれる心からの謝意をルストランは受け止める。


「十分時間はとれた。それに、このくらいで気に障るほど小さくはない。私も――妻子あれらもな」


 ルストランが蹄の音を耳にしてからそれなりに刻が経っている。バルデアなりに気遣い、間を取った上での接見である以上、咎める理由などあるはずもない。

 それでも最後の台詞を耳にして、騎士の空気が変わったのを背中越しに感じ取る。

 気拙きまずさと悼み――この場所がルストランにとって、いかなる意味を有するか承知していればこその反応だ。

 傍目はためにはルストランの佇まいに悲壮感や寂寥せきりょう感など微塵も感じられないはずであったが、だとすれば、言葉に含まれた重みを忠義の騎士なりに受け止めたのかもしれなかった。


「――近頃、計画の進みが遅いことをメルヴェーヌ殿が案じているようで」

「……」

「無論、ルストラン様を信じている以上、では焦りからくるのかといえば、実はそうでもなく――」

「珍しく回りくどいな、バルデア」


 切っ掛けを掴みかねているような騎士の話しぶりに、苦笑を紛らせて、ルストランは強く背中を押してやる。

 城を離れ、わざわざここまで追ってきた以上、緊急の用件でなくとも折り入った話しがあるのは察せられる。

 肝心なのはその内容だ。

 まさか反りの合わない・・・・・・・政務官の心情を本気で代弁しにきたとも思えない。


「メルヴェーヌの懸念はメルヴェーヌと直に話して対応を決めることにする。それより、お前自身の懸念があるのだろう?」

「私が?」

「そうだ」


 断言するルストランにバルデアは重く口を閉ざす。それが明瞭な“肯定”であることは確認するまでもない。

 もう一度、背中を押す。


「何が気掛かりだ?」

「――貴方様のことが」


 一瞬、間が空いた。

 言われた当人はその意味するところが理解できず、云った方は断崖から飛び降りる気持ちで口にしたのだろう――ルストランは背中越しに、騎士が放つ極度の緊張感を感じ取る。

 振り向けば、自分を凝視する思い詰めた騎士の視線とかち合うに違いない。


「私が――何だと?」


 当惑気味に疑問を口にするルストランへ騎士はもはや躊躇うことなく、あくまで真剣な面持ちで言葉を返してくる。


「正直申し上げて、派遣団からの報告を受けて以来、政務全般に精彩を欠いているのは明らか。ならばその理由はただひとつ――エルネ様のことが、気掛かりなのではと」

「無論だ」


 そこで即答するのは当然。次の台詞も考えるまでもなくルストランの口をついて出る。


「だが今は、“公国の未来”が何よりも先んじる」

「しかしそれは、本意ではない・・・・・・

「――」


 痛烈ともいえる騎士の返しに他意はあるまい。

 だが、その場に再び訪れた“間”は、先ほどの一瞬に比べれば体感的には非常に長く続いたのは確かだ。それも耳が痛くなるほどの沈黙を伴って。



 “国の未来”より気掛かりなことがある――



 口にした騎士の真意がどうであれ、そう指摘したも同然の文脈ではあったのだ。

 国政よりも身内への情に天秤を傾けていると。

 あまりに不穏すぎるその内容に、しかし、血色の悪い唇を真横に引き結ぶ騎士が撤回し謝意を示す素振りはない。それを背中で受け止めるルストランもまた、不敬だと叱責することもなければ、図星を突かれたような動揺をみせることもなく。

 やがてぽつりと、ルストランが口を開く。


「……国の未来を憂う気持ちは、誰よりも強いと自負している」

「それは周知の事実」

「そこに大義あればこそ、皆も賛同してくれていると信じている」

「疑う余地もなく」

だが・・――」


 そこで揺るぎない信念に裏打ちされた言葉がふつりと途切れた。続けるべき言葉は、ルストランの今の立場からすれば、決して口にできるものではないだけに。


 だが、二度も・・・大事なものを失いたくはない――


 呑み込んだ言葉は、報告を受けたあの日から頭を離れたことがない、ルストランの切なる想い。

 大義を掲げるのも、あえて実兄にあだ為すのもすべては何のためであるか、あらためて初志を思い返すたびに、ルストランの手のひらは握り込んだ爪に傷つき血を流す。

 突きつけられる選択肢の非情さに胸中苦悶して。

 取るべき道は“血で継がれる使命”か、あるいは“血で繋がる情愛”か。


(アナスタシア、ロイエル。私はまた――)


 脳裏に浮かぶ妻子の笑顔が、失うことの恐怖と今また届かぬ己の非力さを、より一層思い知らしめる。

 また繰り返すのか・・・・・・、と。

 反省し活かすこともできないのかと。

 『鬼謀』の策に抗うことも、実兄の信頼を得ることもできなかったあの日から、十年経ってなお、己は未熟であるのかと。

 あの時できなかった覚悟を、とれなかった行動を、今度こそ遂げるのではなかったか――。


(今やその手段を御しきれず、振り回され始めている体たらく――)


 そう歯噛みする主の心痛をいかほどでも察したからなのか。


「ルストラン様――」


 迷いなき声がルストランに呼びかける。軽い嫉妬さえ覚えるほどの、決して揺らぐことのない剛直なる意志を感じさせる声で。


「私は政治に疎く、剣を振るだけの騎士。それも“公国の騎士”である前に、貴方様に剣を捧げた一介の騎士にすぎない――ただ、だからこそ、云わずにはおれない」

「……」

「ルストラン様――命じていただければ、すぐにで・・・・


 その言葉にルストランの背がわずかに震えた。

 何を? そう問うまでもなく、騎士の云いたいことを十全に理解したからだ。


 それは、あまりにも今さらな話しだ。


 何がどう間に合うとも思えない。

 期待を抱かせるだけの、それでも非常に誘惑的で逆らいがたい、悪魔的な訴えでもある。

 これが他の者が口にしたのなら、ルストランは無言の内に抜剣し、躊躇いなく斬り捨てていただろう。だが発言者は己に剣を捧ぐ、唯一無二の騎士バルデアなのだ。

 むしろ、なぜそのような思わせぶりなこと・・・・・・・・を今さら口にするのか疑念が尽きない。

 分かっているはずだ。それを口にすればどうなるかなど。

 当然ルストランが尋ねるべきはただひとつ。


エルネが・・・・……どうしたと?」


 初めて、騎士に向き直る。

 過去の甘い感傷や求めた癒やしに背を向けて。

 さいなんでいた苦悶などなかったかのような揺るぎない双眸に、力強い意志の光を漲らせて。

 ルストランは躊躇うことなく、胸の奥の奥に押し込めていた“一縷の希望”に力強く手を伸ばし、何よりも優先すべき気持ちに己を向き合わせていた。

 もはや、自身を失望させる言葉の存在など許さぬ迫力で眼前の騎士を見据える。

 後戻りなどできぬとばかりに一言一句に力を込めて。


「バルデア、何を掴んだ・・・・・……?」

「まだ裏の取れていない、情報です」

「構わん」


 ルストランの気迫というより熱意に促され、騎士が重々しく口を開いた。どのみち覚悟を決めていたはずの“流れ”だ。


「エルネ様が……公都ここへ来るかもしれないと」

「――生きているのか」


 上擦りかけた声を抑えて。

 信じたい気持ちを大公代理としての最後の理性がルストランに制動を掛けさせる。それへ当然持つべき疑念だと騎士もまた、同意を示す。


「そこが不明瞭だからこそ、迷い、不安もある――あの方の傍にいるのがエンセイであれば、なおのこと」

「?」


 “三剣士”の名に不釣り合いな騎士の感想を訝しむも、ルストランはそれ以上の疑念に意識の集中を余儀なくされる。


「それよりどうやって、鬼共の巣から逃げ延びた? “魔境”を抜けるのも容易ではない。怪我は、病は? エルネは今、どこでどのように――」

「懸念はご尤も」


 一度口にすれば、歯止めの掛からぬ疑念の洪水がルストランの胸中を露わにする。それを落ち着きのあるただ一言で騎士はぴしりと抑えて「まずは情報の裏取りを」と堅実に対案を打ち出し、主の気持ちと思考をひとつの方向へ導き落ち着かせてゆく。

 だが、堰を切った感情はそう容易に収まるものではない。


「悠長すぎる。私も手を貸そう」

「しかし、目立てばエルネ様を危険にさらすかと」

「だが時間はかけられんぞ?」

「故に効果的な一手を打つ必要がある」


 そう自信を覗かせられれば、ルストランも任せぬわけにはいかない。


宛て・・があるのだな……?」

「頼みの綱はケンプファー家に」


 そもそもの情報源が何かと考えれば、それしかあるまいとルストランも納得するしかない。むっつりと黙り込む姿に、一握りの者にしか伝わらぬもどか・・・しさ・・を感じさせながら、ルストランは別の疑念を口にする。


「だが、どういうわけだ? この話しが情報網にかからないということは秘密裏に帰還することを意味している。ならばエルネの目的は何だ? それとも本当に、兄の病を治す秘薬を求め、手に入れたとでも……」


 しかし、一時は適切と思われた仮説を騎士が「それは考えられぬ」とはっきり否定する。


「エルネ様はスタン家に相応しき聡い方。この状況を適切に理解しているものかと」

「それに付き従う者達も愚鈍ではない」


 捕捉するルストランに騎士も同意する。


「ある程度でも、状況を承知しているからこそ、秘密裏に帰還しようとするのでは」

「ならば秘薬を求めたのではあるまいな。私もそう思えばこそ、その理由が気になるというのだ」


 仮説のひとつを除外できても、話しが振り出しに戻っただけにすぎない。言葉を吐き捨てるルストランに軽い苛立ちが紛れるのは当然だ。

 危地であるはずの公都。そこへあえてエルネが戻る理由は何なのか。


「ケンプファー家が監視下にあるのは承知しているはずだ。やはりルブランに接触を――?」


 静かに自問自答をはじめるルストランに騎士が手助けのつもりか要点を整理してくれる。


「何をするにせよ、エルネ様の立場に変わりなく、我々がすべきことも変わりないかと。恐らく、優しきあの方のこと、貴方様との対決を避けるのは確実、ならば取るべき手段として、直接の対面を計るのは間違いないのでは」

「ならば招くか? いやそれでは“罠”かと勘繰るだろうな」


 苦笑するルストランが「待つのが無難か」と思い直す。そうして視線を向ければ、自身への問いかけと騎士は受け止めたようだ。


「帰還の情報が正しいならば、エルネ様に“魔境”を抜ける力が備わったことを意味する。一見不可能に思える道行きを乗り越え、貴方様の前に立つことも決して希望のない話しではない」

「お前がいるのにか――?」


 それはエルネを試せという意味か?

 ルストランの真意を図りかねて、いや、騎士は迷うことなく己の役目を承知する。


「余計な虫がついても面倒――こちらでできる限り、エルネ様の身の回りを清めることに・・・・・・


 提示された対案にルストランは適否を発しない。

 彼を満足させるに足る内容であったからだ。

 その安否と動向が不安視されていたエルネの現状が知れ渡れば、この期に乗じたはかりごとを画策する者も現れてくるだろう。特にルブラン伯と接触させることは避けねばならぬ命題だ。それともうひとつの勢力も。


「『俗物軍団グレムリン』の動きは? 奴らの先兵が打撃を受けたとは聞いたが」

「『協会ギルド』に有力な新人が入ったのは確かかと。おかげで、あのフォルムの実力を一端とはいえ垣間見ることができた」

「それほどの手練れが……?」


 新人という言葉に似つかわしくない讃辞に、ルストランが興味をそそられれば、剣にて至高の位置に座す騎士は、ただ静かに事実と認めた。


「『真紅』の次には異人の遣い手――次々と新たな強者が台頭してくる。『探索者』とは非情に面白い存在だ」

「それは強者おまえたちだけの感覚だ。私としては国に益をもたらすだけでなく、こちらの敵にならなければそれでいい。……傷はいいのか?」


 相手が強くなるほどに戦いによる味方の負傷は酷くなってゆく。気遣うルストランに、騎士は無表情なまま「支障なく」と首を軽く縦に振った。


「『クレイトン一家』は確実に戦力ダウンし、奴らの野望が停滞したのは明らか。しかしながら、奴らの動きが何やら慌ただしくなっているとの報告も」

「まさかエルネの件を奴らも?」

「そこまでは」


 掴めていないと騎士は首をふる。


「『幹部』級が動けば、直接私が対応することに」

「“駒”の不足が痛いな。許せ。これも日頃の人徳不足というものだ」


 自嘲してわずかに目線を下へ向けるルストランに騎士は「否」と明瞭に意志を示す。


「ただ相応しき人物がいないだけ。公国の人材不足・・・・・・・の窮状を、貴方様の責として背負わせるのは筋違いかと」

「云うな。お前に剣だけでなく口まで使わせては、まずます人材不足が露呈する」

「失言を」


 生真面目に陳謝する騎士に「よい」と手を振りルストランは冗談であることを伝える。もう少し砕ければ、接して心地よい者ではあるのだが。

 主の内心を知ることもなく、騎士はすぐに話題の舵を『俗物軍団グレムリン』の件へと切り直す。


「奴らの動きにエルネ様が絡んでいなくとも、今度の一件――もしかすれば、正式に外軍を弾劾できる材料が手に入る機会になるやも」

「ならば慎重にな。団長と副団長のフォルム――あの二人に本気で暴れられては、お前一人で抑え込むことはさすがに難しかろう」

「第三軍団にも、豊富な人材がいることをお忘れなく」

「彼らがどちら側に転ぶか不明瞭では、な」


 またも自虐的なルストランの言葉に「当然ルストラン様に従うべきかと」そう騎士は憤然と訴える。


「気持ちはありがたいが、それはお前の考えであって、彼らのものではない」

「そのようなことは――」

「どのような大義を掲げても、中身が簒奪である以上、真に皆の忠義を得るまでには時間がかかるのも致し方あるまい」


 それに大義ばかりではない。

 堕ちたりとはいえ、明確な証拠でもないかぎり、“救国の英雄”を慕い信じる騎士や兵は少なくないということだ。

 国民よりも、むしろ戦士であればこそ、彼らの純然たる“強さ”に憧れるものだから。

 戦場経験のあるルストランにも、当然その気持ちが分かろうというもの。


「こちら側へエンセイ殿を引き込むのが、ひとつの策でもあろうな」

「ご冗談を」


 即座の否定にルストランは眉をひそめる。


「嫌か? そういえば同じ“三剣士”でありながら、仲良さげな思い出話しのひとつすら、聞かされたことがなかったな」


 そう記憶を手繰るルストランに「挨拶以上に言葉を交わした記憶など」と騎士は不快感を隠すことことなく露わにする。そのような感情表現はバルデアにしては珍しく、自尊心の強い強者ならではの感性かとルストランも深くは追求しない。

 唐突なこの接見もそろそろ頃合いというもの。


「バルデアよ」

「いかなりと」


 空気を読み、頭を垂れる騎士へルストランはあらためて命じる。


「エルネの身柄確保を何よりも優先しろ。奴らの件は二の次でいい」

「メルヴェーヌ殿には?」

「私から伝える」


 それが接見最後の言葉。

 素早く辞去する騎士の背に、ルストランは念を押すかのごとく再び声を掛けた。

 万一、心残りとなるのを恐れて。

 やるべきことをやらなかったことの後悔ほど、耐え難いものはない――それが恐怖となって、云わずにはおれない衝動がルストランを突き上げてきたのだ。

 どうしても、付け加えておくべき条件であろうと。


「――いざとなれば、表沙汰になっても構わん」

「御意」


 今度こそ、己の使命を携えて去る者を見送りながら、ルストランの胸中には、もはや一片の悔いも残されてはいなかった。


         *****


公都キルグスタン郊外

 廃止された監獄にて――



 はじめからナイフの使用を放棄して炙り肉にかぶりつく若者が、満足げな表情を浮かべながら気分の向くまま対面の女に話を振る。


「ようやく、団長が戻ったね」

「もっと早く帰るかと思ってたわ」


 遠征の戦果を報告しに、団長が拠点である辺境へと出向いてから数日が経過していた。

 はじめは幹部を除く遠征計画に異論の声は大きかったが、蓋を開ければ同盟国への支援成果は期待以上、軍内では新たな『一級戦士』が誕生し久しぶりの活気に湧いている。ただ、それももう、過去の出来事に過ぎなかったが。

 とはいえ、不安視された団長の容態もすこぶるいいようだ。北部で入手したらしい土産・・を人目にさらせぬ点と吟味する意図もあり、拠点へ戻ったことは『幹部クアドリ』なら全員が承知している裏話しでもあった。


「それだけ『北魔』の土産・・が気に入ったのかもね」


 邪気のない口調とは裏腹に、若者の声に下劣さを嗅ぎ取ったらしい女が片眼だけ細めさせる。もう片方は半顔を覆わんばかりに下ろした前髪に隠れたままだ。


「女は女じゃない」

「団長にとっては“北部の女”だよ」


 「それの何が違うと?」そんな風に困惑し、ますます片眼を細める女に若者は顎まわりを走る傷痕を大きく引き攣らせて笑みをつくった。


「北国の女は血が熱い・・・・というだろ?」

冷たい・・・じゃなく?」

「一年の大半を、肌切るような寒気に晒されるからこそ、その地で生き抜く女の血は、南部の者よりも熱く滾っているんだよ」


 低くひそませるその声に、別種の熱が帯びるのを感じたか「ばっかじゃない」と逆に女の声はすっかり冷え切っている。


「勝手にモーソーしないでくれる? それより私が誘導した女の方がダンゼン極上ゴクジョーよ」

「ああ、流れの・・・荒事師か」

「“深沈の”よ。勝手に手柄の価値を下げないでちょーだい」


 憤然とする女に若者は「悪かったよヨーンティ」と小さく肩を竦めた。


「確かにあれ・・の発見は奇跡的な手柄だ。団長がそのために急いで戻ったとしても不思議じゃない」

「ゼッタイそーでしょ。エルフの血縁・・・・・・なんて、そう簡単に手に入ってたまるかってものよ」


 ヨーンティが興奮気味に肉の刺さったフォークを振り回すせいで、飛び散る肉汁を受けた若者が、苦笑いで賛同を示す。

 ここ数日で寂しくなった食堂の空席を思えばこそ、同輩との他愛のない会話を大切にしたいという気持ちが忍耐を促すのかもしれなかった。

 

「君の手柄は団長も承知しているよ」

「でも部屋に閉じ籠もったきりね」


 ちょっぴり拗ねてみせるヨーンティを若者は仕方ないと慰める。


「まあ、旅の疲れもとらなきゃだし」

「食事の邪魔をするわけにもいかないし、ね」


 そこでさりげなく、異常な嗜好を有する二人が、忌避を示すかのように会話を合わせるのは不思議な光景であった。逆にいえば、同席を避けさせるだけの何かが団長の食事にあるというのだろうか?

 事実、欠員となった三人の『幹部クアドリ』に哀悼の意を示すがごとく、料理と食器が三人分用意されているにも関わらず、帰還したはずの団長を迎えるべき豪奢な料理や酒類のひとつも用意されぬテーブルは異常な光景と云わざるを得ない。

 それは明らかに、互いに了知されたことなのだ。

 自分達で話題に上げておきながら、少し気まずくなった空気の中で。


「……まあ、副団長だけは、そう思わないみたいだけど」


 場の空気を紛らわせるように若者が何気に口にすれば、ヨーンティも取り繕うように「そういえば」とわざとらしく新たな話題に乗っかる。


「出かけていた副団長も、ちょうど戻ったところだったわね」

「バルデア卿のところだっけ?」

「一足違いで解放されたと聞いたから、東の山へ追っかけたんじゃない?」


 №2の実力者が何をしに出向いたかは二人も承知している。当然、帰還したということは、その所用が済んだことを物語る。


「早い遅いの前に手際が良すぎる・・・・・・・。……ヨーンティなら、どう?」

「もちろん、できるわよ」

「相手が俺でも?」

「誰が相手でも」


 平坦な声で答えるヨーンティが血も滴るような炙り肉レアをしばらく見つめた後、ふいに興味を失ったように投げ出した。

 むしろ、食欲が失せたように見えたが定かではない。

 同じように肉を皿に戻す若者も、嘆息をこぼして乱雑にナプキンを手に取り口を拭う。


「団長が帰還し、副団長も所用を片付けた」

「なら準備万端、そろそろ“魔境”へ“獣狩り”に向かうってことかしら?」

「クノールみたいなこと云うね」

「それが何? カワイイわよ、屈折してるところがね。あなたと同じで、あまり痒くならないの」

「はん? ……男としては、複雑だなー」


 大げさに天井を仰ぐ若者にヨーンティは「素直に喜びなさい」と笑みを浮かべる。


「ともかく、団長には私からの土産で精をつけてもらって、とっとと姫様を奪い返しにいきたいわ」

「それに『俗物軍団グレムリン』の旗に泥を塗られた“借り”も、きっちり返してもらわないといけないし、ね」

 

 賛同を示す若者も、まだ見ぬ魔境の蛮族に敵意を静かに燃え上がらせる。仲間への関心は塵ほどもない。あるのは軍団の名を汚した者への悪意だけ。


「でも、ひとつ気になることがある」


 続けて人差し指を立てる若者に、ヨーンティがかわゆく小首を傾げれば。


「根城との連絡が途絶えているのを忘れたかい?」

「ついにクノールが……?」

「……どうしてそう思うのかは、興味がそそられるところだけれど、恐らく違うだろーね」


 探るような若者の目をヨーンティは平然と受け止めて。


「なら『真紅』のりべんじ・・・・?」

「ああ、彼女は俺がもらうよ……?」


 うっとりと目を蕩けさせる若者にヨーンティは意地悪く笑みをつくり、唇を舐めあげる。


「あら、“早い者勝ち”が唯一のルールでしょ?」

「“みんな公平に”も守るべきルールだ」


 それから二人で幾つものルールを取り上げて、どれもが勝手に口にしているだけだと気付いたところで「まあいいか」と不問にした。

 仕切り直しで若者が話しをまとめにかかる。


「いずれにせよ、“魔境”の攻略より先に、別の任務に取りかかる必要がありそうでね」

「そんな――」


 あからさまに気落ちするヨーンティへ「それだけじゃない」とさらに若者は意地悪返しで追い打ちを掛けてくる。


「こっちで仕込んでいた『クレイトン一家』がピンチでね。汚名返上のために、見習い探索者に闇討ちをかけるんだけど……手伝う必要がありそうで」

「はあ? 見習いってなによ? 何でそんなヘッポコを相手するのに、ウチらが手を貸す必要があるわけ?」


 先の憤りの裏返しで、キレ気味になるヨーンティの怒りを若者はにこやかな笑みで受け流す。


「それがとんでもなく“手練れの新人”でね」

「そんなの、あんたのヒキョーな狙撃で不意打ちすればいいだけじゃないっ」

「色々とはっきり云うね……」


 いっそ呆れてしまう若者を「ヒキョーは好きよ。むしろ相手に言わせてなんぼ・・・じゃない?」と彼女独自の感性を炸裂させる。


「まあ、そういうわけで……処理すべき事案があるから、辛抱が必要と云いたかったのさ」

「シンボウからいちばん無縁に感じれるあなたに、そう云われてもね……」


 ジト目を向けてくるヨーンティに「はは」と若者は空々しい笑い声を上げるだけだ。もちろん、その目は笑ってなどいない。


「……でもね。ここであたしたちがグダついても意味なくない? 決めるのはあの人達なんだから」

「まあね」


 何気なく二人の視線が、大回廊隅に見える石の階段へと向けられる。その先へ、食事をする二人に対して帰途の挨拶もそこそこに、ずた袋を肩に担いだ副団長が音もなく上がってゆくのを見送ったのはつい先ほどのことだ。

 あの袋の中身は何なのか――さすがの二人も肉を見るのが嫌になり、食事を下げろと騒ぐのに、そう時間がかかることはなかった。


         *****


同時刻

廃止された監獄

 元監獄長の部屋――



 最低限の補修をしただけで、あちこちから寒気が入り込む冷え切った廊下を、暗色のローブだけで防護するその者は足取りを早めることもなくゆるやかに目的地へと向かっていた。

 割れた石畳を覆う木片に細かい石粒。踏み締めれば立てるはずの足音を一度も耳にすることなくその者は静かに歩みゆく。

 まるで処刑された犯罪者の魂が、今なお監獄を彷徨う様に似た、異様に滑らかな足取りで。

 廊下の最奥――幅一杯に大きく造られた虚勢だけが目立つ大扉の前で、はじめて足を止める。

 そこに掛けられていた札はすでに朽ちていた。

 『団長室』と打たれるべき銘板の代わりに占めるのは、金縁の無記名表札――その異様さに、団員さえも目にすれば必ず息を呑む。

 だが、その者からは何の感慨も発せられることはない。

 初めて訪れたときから、ただの一度となく。

 しかしながら、この札はただの銘板ではない。

 部屋の主に呼びかけ、応じてもらえなければ決して開くことのない、魔術的措置が施された『呼応の霊扉』なのだ。

 それへ、その者は無言のまま・・・・・、ゆるやかに手を伸ばす。

 いつもの所作。

 いつもの反応。

 その理由は誰も知ることなく、魔術の扉は何の障害にもならずに怪しげなローブを室内へと勝手に招き入れる。

 それが団長との間に交わされた“約束事”なのか、はたまた副団長ならではの“技”あるいは“術”なのかは分からない。


「食事中に失礼を――」


 刻の残酷さに蝕まれ、廃墟の二字に侵された室外と異なり、埃一つ無い豪奢な部屋に男がひとり立ち尽くしていた。

 いや、女の亡骸・・・・と合わせれば二人と云うべきか。

 異常な光景に動じる素振りのないその者へ、むしろこの場に不似合いな、あまりに人間くさい不機嫌な声が返される。


「お前が俺の都合を気にしたことがあったか?」

「これは異な事を。それは昼も夜も、私が眠るまで――貴方に配慮せぬ刻などあるはずもない」


 どこか芝居がかった台詞を無視して、美女の亡骸を抱く男は別のものに興味を示す。


それ・・が用件か」

これも・・・用件ではあります」


 ローブの者――副団長フォルムが担いでいたズタ袋を下ろして中身を取り出した。


「まずは裏切り・・・の処罰を」


 無造作に掴み出したのは獣面の頭部らしきもの。

 血脂に汚れ、原型が大きく崩れた状態では元の相貌など想像できるものではない。

 頭部から濃い血臭が立ち上り、カッと見開かれた双眸が猛る戦意を生々しく固着させており、いまだに生きているのでは、と思わせる迫力があった。

 その凄絶な元仲間の死に様を見せつけられても、蒼白き団長の優面に感情の機微は一片も見受けられない。

 無感動に事実を受け入れる。それだけだ。

 いや血の臭いが不快だったか、すんと鼻を鳴らす。


数が合わん・・・・・。別の血もあるな?」

「処罰に抗うバゥムの同族がおりまして」


 それを返り討ちにしたと云うのだろう。

 暗色で目立たぬローブには、確かに所々に赤黒く乾ききった血の跡が着いていた。当然ながら、フォルム自身の血がついているわけではない。


「無闇に殺すなと禁じたはずだ」

「誤解を受ける言い方でしたか……私は軍規を示すべく、やむを得ず手に掛けたまで」


 それでも団長の不信感が拭えぬのは、圧倒的な戦闘力差があれば、殺すまでもない・・・・・・・とそれが容易いはずだと云いたいからに違いない。

 だが、それを承知でフォルムは答えている。そのこともまた、団長は理解しており、だからこそ一層、不機嫌さを増長させるのだ。

 あまりに不可解な二人の関係。それを知る者がいないからこそ、疑念に抱く者もいない。


「“無形”のいみなに胡座をかいたか……」

「どういう意味です」

俺がお前を殺せる・・・・・・・・と、忘れたのかと聞いている」


 途端に、びしりと部屋そのものが悲鳴を上げて室内の空気が凝固した。

 団長の身より放たれた鋭利な殺気を全身に浴びせられ、だが、フォルムはローブの裡で小刻みに身体を震わせた。

 それが“喜悦”であるとも団長は承知の上。


「……よしませんか。私を高揚させてどうするというのです」

「無闇な殺しを止めろと、命じている」


 ごりりと断固たる巌のごとき意志を擦り当てる団長に、「まったく――」一瞬、膨れ上がりかけたフォルムの裡の何かが、ふいにかき消えた。

 ゆっくりと息を吐き出しながら。


「悪くはないですが、最良とも言えない。手の内を知る貴方とでは、心から戦いを愉しむことはできませんから」

「お前がどう思おうが、知ったことじゃないっ」


 なし崩しにでも死闘を始めると告げる団長に、ようやくフォルムも降参だと肩を落とす。


「分かりました。もう少し、私にとっての“強者”の定義を高めておきましょう。それ以外は争いで命を奪うのをやめにします」


 「ですがね」と死より惨めな負傷もあるのだとフォルムの愚痴を団長は聞き流す。


「『俗物軍団われわれ』はね、欲こそが力の源泉なのです。それを団長もお忘れなきよう」

「だから“過度はよせ”と云っている」


 今度は殺意なく、静かに視線を交わし合う二人。すぐに時間の無駄だと団長が話題を変える。


「それで、本来の用件は何だ?」

「三つあります」


 臭う頭部を袋に詰め直し、フォルムは三本の指を立てた。


「ひとつは、裏社会への侵攻作戦が頓挫しかけています。思わぬ強敵を積極的に排斥してゆく必要があるでしょう」

「ふたつめは?」

「根城が堕ちたようで。詳しくは不明ですが、それなりの戦力を当て、一気に奪還を計る必要があるでしょう」

 

 そこに何があるかを考えれば、ひとつめより重要な事案であることは重苦しくなった団長の沈黙が伝えてくる。


「みっつめは、姫の居所が判明しました」


 その情報が団長の関心を強く引き付けたのは間違いない。明らかに空気が変わったのを感じさせて。


「どこだ?」

「“魔境”です。まさかルストラン卿が大公の地位簒奪を計り、姫が出奔することになろうとは思いもよらぬ幸運。貴方には“奇運”と呼ぶべき強烈な宿命が与えられていると見えます」

「つくられた宿命をそう呼ぶのならな」


 吐き捨てる団長が自虐的な笑みを浮かべる。


「故意であるか否かなど、意味のないことでは?」「その通りだ。俺は受け入れているし、彼女を手に入れなければならないのも、避けられぬ現実。いやむしろ――」


 そのまま団長は言葉を途切れさせる。

 やがて普段通りに指示を出す。


「一気にケリを付ける」

「ではどのように別けますか?」


 二手に分かれることを予期していたように、フォルムが応じれば「いや」と短く団長が否定する。


「先に強敵とやらへ皆で夜襲を掛ける」

「――それは」

「次に戦力を維持したまま、根城へ急行し奪還作戦を敢行する」

「最後に全兵力で・・・・“魔境”に侵攻し、蛮族を蹴散らして姫を手に入れる」


 心得たとフォルムが後を繋げば、団長はその通りと深く首肯した。

 持ち得る最大戦力により、課題の各個撃破を計る強攻策――だが一戦当たりの時間短縮を狙えるだけに、無謀な挑戦どころか現実的な良策と云うべきではなかろうか。


「やはり、見込んだだけの方ではありますね」


 フォルムのひそかな称賛を受ける団長は、だが、まともな人物かといえばそうでもない。

 少なくとも、片手で抱き留める女性の亡骸こそ、その最たるもので、しかも白蝋とした首筋に穿たれた豆粒大の傷痕は、ある怖ろしき物語を目にする者に彷彿とさせずにいられない。

 血にまみれた二つの丸い特徴的な傷痕――それは不死者ノスフェラトゥと畏怖され、夜王と崇められる伝説の怪物『吸血鬼ヴァンパイア』が交わす接吻の契約に相違なかった――。

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