第76話 忍び寄る魔手(一)

公都キルグスタン

 北街区『ソヨンの宿』――



「結果はご覧のとおり。やはり価値あるものはこの三つ――まあ、初依頼クエストの付帯報酬と考えりゃ、破格と云っていいだろ」


 鬼灯や扇間の二人を前にして、トッドが簡素な丸テーブルに置いてみせたのは、数枚の貨幣と大振りのナイフが一本、それにネックレスの計三品だ。

 いずれも意匠に優れた逸品物には違いなく、ただトッドが言うには、それだけでない“秘めた力”を宿している場合もあるという。

 それが少しばかりの幸運をもたらす効能なのか、毒気を薄める効能なのかは運次第であるが、少なくとも、常に危険と隣り合わせの探索者にとって非常に有用な効能であることは間違いない。その上、希少性から資産的価値まで付くことになるから一攫千金の夢がある――「どうにも職業柄、わくわくしちまうんだ」と教えるトッドの顔は綻んでいた。

 事実、この世界に疎い鬼灯達に知る由もなかったが、逸品物を専門的に狙う探索者もおり、危険な遺跡に潜るだけでなく、表や裏の市場を巡り歩き幾つもの掘り出し物を探り当て、ついには大商人に成り上がった実在の人物も世にはいた。

 そうした“力ある逸品”を判別するには、豊富な専門知識や手掛かりとなる貴重な蔵書物を有するだけでなく、力の種別を感得する異能もしくは魔術が時に必須となってくる。

 それ故、鬼灯達はトッドを通して“倉の地下”で入手した貴族の遺産を『幽界の探求者ソーサリアン』の支部に持ち込み鑑定を依頼していたのだが、今宵、その結果がようやく報告されたわけである。


「貨幣の方は“古代金貨アンティーク・コイン”だな。その筋では年代が新しいらしく、それでも一枚につき金貨三枚程度の価値はあるそうだ」

「つまり、三枚で金貨九枚に?」


 扇間が物珍しげに、現在のものより大振りな金貨を手に持ち眺めれば「物好きコレクターに売ればな」とトッドが注意する。


「この宿で支払いに使ったら一枚は一枚だ」

「……なるほどね」


 むしろまともな商人ならきちんと比重換算してくれるので、ひとまわり大きい分、厳密には一対一でも損するくらいだが、いずれにしても、取り扱いに気をつけるべき貨幣だということだ。


「で、こっちの曰くありげなナイフだが――そのまんま“嫌な気配を感じる”と不機嫌なツラで言われたよ。お前さん達から聞いた話を伝えたら、恐らく、『脅威の部屋ヴァンダー・カンマー』の呪詛構築に一役買った呪物の類いじゃないかとさ」


 他にも口にしない何かを鑑定士に云われたのか、トッドは不快そうに眉根を寄せている。

 一般に、“呪物”の多くは生き物の血や命を奪い続けることで、奪ったものの魂の片鱗が怨念となってこびりつき・・・・・負の効能ネガティブ・エフェクト”を有するに至ったものと考えられていた。いわゆる“呪い”というものであり“穢れし逸品”とも呼ばれる所以である。

 それだけに、目の前にある肉厚なナイフが、貴族の歪んだ嗜好を満たすためにどれほどの生き血を吸ってきたのか想像すれば、鑑定士やトッドならずとも忌み嫌うのは当然であったろう。

 どちらかといえば買い手うんぬん以前に、まともな神経の持ち主ならば、すぐにでも放り捨てる代物ということだ。

 見た目からしてそれらしい雰囲気・・・・・・・・を醸し出すナイフであったが、しかし鬼灯からすれば、“手段”としてとられた唾棄すべき行為よりも、成した“結果”の方に強く興味がそそられるらしい。


「ということは、これで死者を蘇らすことも・・・・・・・・・?」

「あほか――いや悪い」


 トッドがすぐさま謝罪し「今のはナシだ」と慌てて片手をふる。ただ、突拍子もないことを口にするお前もお前だ――そんな抗議が込められた視線を向けるが当の鬼灯に気にした風はない。

 トッドも苦笑交じりに首をゆるく振る。


「分かるだろ、それはさすがに無理な話しだ。ガルフとやらの一件は例外中の例外だし、実際にその目で見たんだろ――本気で蘇ったと言える代物だったか? ん?」


 そう諭されれば、表情が抜け落ち壊れた人形を思わすぎこちない動きで暴れるガルフの姿を思い出したのだろう。鬼灯は少しだけ眉をひそめて「いいえ」と否定する。


「俺もよくは知らんが、『儀式』とは高度に専門的な知識と技術の集大成だと聞いている。構成要素のひとつにすぎないナイフが一本あったところで、どうなるものじゃねえ」

「それはまた、残念至極」

「おいおい、おかしなこと云うなよ。まさか試してみたいってわけじゃないだろ…………ぇ?」

「……」

「ぇ?」


 その沈黙を意味深に捉えたのはトッドだけではない。

 思わず「お前の相棒大丈夫か?」とトッドが扇間へ目線で強く訴えれば、「いいから無視してっ」と全力の目力で押し返される。

 そんな二人の“静かなる暗闘”を知らぬげに、当の本人は“穢れしナイフ”を無造作に手づかみ、しげしげと眺めていた。

 鑑定士の基準で類別すれば、それは【古びたナイフ+1 追加効果:負の効能ネガティブ・エフェクト】という無味無臭の表記で表される。

 しかし粗悪品というわけではない。

 手に馴染むように少し婉曲した独特の握り形状、その流線からS字を描くように厚みのある刃がゆるく反り上がり――儀式用の単なるお飾りかと思いきや、実戦に耐えられる見事な造りに意表を突かれる。

 紛うことなき一流の職人が丹精込めて拵えた逸品物。ただし、握り部に滲んだ赤黒いシミや抜き身の刃から感じられる背筋を寒くする“何か”がせっかくの好印象を台無しにしていたのだが。


「この刃が妙に赤みがかっているのも、いかにも曰くありげでいいですね」

「何が“いい”のか理解できんがね……」


 ナイフよりも鬼灯の方を引き気味に見るトッドが皮肉げに応じて。


「専門家でない俺たちにとっては、買い手もつかないクズアイテムだぜ。いや、死霊をさいなむのにも使われたというから、いっそ護身用としての価値があるかもな」

「死霊を苛む……?」

「ああ。自分で殺しておいて、その怨念にしっぺ返しを喰らわないように、あるいは、なお追い込むた・・・・・に使うんだと」


 胸くそ悪いだろ、と。

 刃に怨念がこびりつくことで死霊さえも傷つけられる呪物となる――実に業の深い品物ではあるが、諏訪切っての変人に掛かれば、真逆の感想・価値が見出せるものらしい。


「……これ、私がいただいても?」

「はあ?」


 思わず間の抜けた声を上げ、トッドが再び扇間へ視線を向ければ、「いや、もういいんじゃない?」ともはや諦観した表情で返される。

 常に相棒の奇行奇想に付き合わされてきた彼からすれば、いちいち反応していられない、ということか。

 それを自身も見習うべきと得心したか、ふいに肩の力を抜いたトッドが、軽い咳払いで自分の気持ちを切り替え、同時に場の仕切り直しの合図ともする。この件はもう終わりだと。


「んんっ――じゃあ最後になるが」


 トッドが残りの品に視線を移し、銀の鎖に幾つもの銀の細工物を繋ぎ込んだ、落ち着きのある品の良いネックレスを指し示した。

 もちろん、それが単なるネックレスであるはずがない。鬼灯達がどう評価するにせよ、今回の三品でまぎれもない桁違いの逸品物なのだから。見る者が見れば、ネックレスからうっすらと漂う蒼白い魔力光を目にしたはずだ。

 トッドも少し勿体つけた調子で最後の品を紹介する。


「これこそが、術士系統職なら一度は手にしたいと願ってやまない『銀若な聡明のネックレス』――その背景から、魔術師よりも製作者側の関心事として錬金術師達の間で有名であり、数々の書物にて頻繁に散見されるほどの『魔術工芸品マジック・クラフト』らしくてな。

 遙か昔の魔術全盛の時代に、魔術師達がこぞって量産したもののひとつだって話しだ」

「ふむ。何やら大層な代物のようですが……つまりあれですか、“聡明”というからには頭がよくなる効能とやらが?」

「ざっくり云えばな」


 だが、誰もが安易に知力を高められるようになれば、努力もなしに弟子が師を越え、商人の子息が狭き学術の門に列を為し、大仰に云えば社会全体に知力の平準化をもたらすことになる。

 当時、“聡明系のネックレス”と同種のアイテムが世に溢れたことで、魔術師人口もかつてないほど膨れ上がり、盛り上がる一方で、それに伴い魔術師の稀少価値が下がり、引いては存在価値まで下げることになったのは誰もが予測し得ぬ、そして何よりも痛烈な皮肉となった。

 その自虐的な結果に気付き、見る影もなくなったはずの“魔術師としての矜持”が、再び鎌首をもたげさせたのは、やはり必然であったのだろう。


「――やがて“真の魔術師は紛いものの知力は持たない”という風潮が生まれるに至り、一時は狂乱したアイテム騒動も終息に向かい、流布されたものは刈り尽くされ、すべて破棄されたということだ。あくまで記録の上では、な」


 いつの時代でも惜しむ者あるいは面倒くさがりという者はいるもので、一度世に出たものを完全に消し去ることなどできようはずもない。

 そうしていまだ現存している生き残りが目の前にある逸品だとトッドは語る。すべて鑑定士の受け売りであったろうが。

 

「もしかして、辣腕を振るったクレイトン当主の首下には、常にこのネックレスがあったのかもしれねえな」

「それなら商人の首に下げれば、大もうけできるんじゃ?」


 扇間が思いつきを愉しげに述べれば、鬼灯も「政に関わる文官にとっても価値は高いでしょう。いえ、頭を使って戦うと思えば軍師や兵法者であっても使い道はありますか……」と考え深げにネックレスの有用性を説いてゆく。そうして考えてゆけば、確かに貴族であるクレイトンが重宝したのも頷けようというもの。あるいは彼が追放された真の要因も、所有する秘具を狙われてのことと解釈することも可能だろう。


「今なら相当価値は高いぜ。なにしろ鑑定した魔術師が金貨三百枚で譲ってくれと云ってたからな」 

「「三百?!」」


 それは都の一般市民が二十年以上は働かねば稼げぬ金額であり、そこまで知らずとも、仕事を通して金銭感覚を掴み始めていた二人が実感し驚くだけの金額ではあった。

 探索者に例えるなら、どれほど危険な依頼であったとしても、見習いの依頼レベルで提示される金額ではない。トッドがはじめに破格だとうそぶくわけである。


「ま、売る売らないは別にして」


 あらためてテーブル上の戦利品を指し示しながら、トッドは探索者の先輩らしく生真面目に告げる。


「正直、うまくいきすぎの感もあるが、お宅らが身体を張った成果だ。胸を張って受け取ればいい。もちろん協力費用として、金貨の方はきっちり“山分け”させてもらうがな」

「むしろ、本当にそれでいいので? 先日、私に使ってくれた秘薬なぞは貴重なものだったでしょう」


 もっと要求しても構わないと鬼灯が促すのは、先の一件で深手を負った彼に秘薬を提供したのがトッドだからである。

 その場で傷が癒やされた奇蹟に二人が愕然となるのを「最後のひとつだ。残っててよかったぜ」と心から安堵してくれるトッドの厚意にただただ頭が下がるばかりであった。だからこそ、二人はネックレスを譲っても構わないというのだが。


「いらん。斥候スカウトの知力アップなんて笑い話にもならねーよ」

「別に使わなくても所持するだけで資産価値があるのでしょう?」

「俺を誰だと思ってる? 薬瓶ポーションのひとつやふたつ、後で買い足せばいいだけだ。金を持ってないお前達の方こそ、人の心配なんてしてないで稼げるときに稼いでおけ」

 

 片手をひらひらと振ってトッドは金など無用と言い放つ。確かに見習いとして探索者の活動をはじめたことで『五翼』の凄さは二人にも分かるようになってきた。

 昇格するための苦労を知り、探索者達の織りなす悲喜こもごもを聞かされれば、トッドがどれほどの苦労を経て高みに上り詰めているのかにも実感が湧いてくる。だからこそ、相応の財を持つという言葉には説得力もあるのだが。


「それより、本来の任務をさっさと進めなけりゃなんねーぞ? 拠点じゃ姫さんたちが俺たちからの朗報を待ってるんだからな」

「確かに、あちらの動き・・・・・・が予想外に早すぎます。もちろん、拠点に詰める者達の人選にも驚かされはしましたが……我らもあまり慎重にすぎては期を逸するかもしれません」


 トッドに同意する鬼灯の隣で扇間も「うむうむ」と深く頷いている。

 実は捨丸・拾丸からの伝達で、小鬼達が手筈通りに拠点をきっちり構えたこと、そこへ諏訪家当主の弦矢が少数とはいえ、側近だけでなく『席付』含めた『抜刀隊』の面々を引き連れ参陣したこと、何より公女のエルネ姫一行も帯同したことが知るところとなっていた。

 ここで、当主の参陣に懸念を示すどころか心勇躍させるのは鬼灯達だ。


「『幽玄の一族』に『抜刀隊』の席付上位も参戦ですか。まさに諏訪が誇る少数精鋭、やりようによっては出城すら落とせる戦力――若も思い切った動員をするものです」

「実際、公国のお殿様がいる城内深くまで侵入するのが目的だからね」


 むしろ妥当な判断だと扇間は平然と受け入れる。

 だが本来なら、城から拠点までの道中を思い、当主の身を案じるのが家臣家来というもの。それを、お伽噺上の怪異が現実に出没するこの世界の脅威を脅威としてみなしていないのは、抜刀隊である同朋の力量を信じているからこそなのか。


「だから問題なのは、それがし達がまだ“秘密の王道”の現状を一度も調べていないということだろうね」

「それに城内の状況把握もまだだしな」


 トッドも苦り切った声で話しに混ざれば「それどころか」と扇間が苦笑交じりに話しを繋げる。


「下手すれば、“秘密の王道”までの道程さえクレイトン一家に閉ざされてしまいそうな状況だからなあ。ははは」

「そう卑下したものでもないですよ」


 乾いた笑い声を上げる扇間へちゃっかりナイフを懐にしまいこんだ鬼灯が「我らには“その閉ざされかけた王道までの道程を死守した実績”がありますから」と胸を張る。


「“死守した”ね」

「私は死にかけました」

「いやそうだけど……たまたま一家と争っただけだし、一家の勢いを殺して道程の確保に繋がったのも偶然に偶然が重なって、しかも他に協力者がいたからで」


 考えれば考えるほど、偶然の産物にすぎない結果を成果と言い張る苦しさに扇間の顔も半笑いになる。少なくとも、いつ閉ざされてもおかしくない王道までの道程をはっきり確保するくらいでなければ、報告すらできない内容であることは相棒も承知のはず。


「分かってるよね? その成果とやらが大勢に影響を与えるほどじゃないって」

「ええ。なので、歴とした成果とすべくその根源を断つしかありません」

「おい――」


 思わず非難の声を上げたのは扇間に非ずトッドの方だ。鬼灯のいつもと違った抑揚のない冷徹な声音に、何をしでかすつもりか察したからだ。

 この男は公都を血の海に沈めるつもりだと――。


「ご安心を」

 

 顔色を変えるトッドに、言葉だけは優しく鬼灯が冷ややかに応じる。


「やるとなれば『抜刀隊』の出番です。そして我ら・・が事に当たれば、速く静かに終わらせますので」


 この者達ならそうできるだろう。

 どこか忌々しげに鬼灯を見るトッドの記憶には、紅葉と名乗った女剣士の鮮烈な一刀が全身を突き抜ける寒気と共に刻みつけられている。

 だが、と一方で思うところもある。

 相手の黒幕バックには『俗物軍団グレムリン』がいるということを忘れていないか?

 あんたが遊ばれた・・・・という化け物じみた幹部を中心に、実戦主義の猛者達が敵にいることを勘定にきちんと入れているのか?

 場合によっては軍団ひとつを敵に回す状況を、この異人達は本当に理解しているのだろうか、と。

 ただ、頭に浮かんだその言葉をトッドが口にすることはなかった。彼にできることは開きかけた口を黙って閉じることのみ。

 どのみち、周囲の情勢はこちらの思惑など無視して意外な展開を見せている。

 時と場合によっては“流れ”に乗った方がよく転がることもあり、ならば、ここで異論を唱えることにどれほどの意味があろうか。


必要ならば・・・・・、王道までの道程を力尽くででも確保する――そういうことだな?」

「ええ。今やそういう情勢です」


 あえてトッドが引いたデッドラインを承知したとばかりに鬼灯が大きく頷く。必要となる状況を招かなければ、災厄・・は発生しない。だがそれには、状況が悪化する前にエルネ姫を無事に城へ送り届ける必要がある。何だか振り出しに戻った感は否めない。


「それで肝心の“城内把握”ですが――」

「悪いが高貴なツテ・・・・・は俺にはねえ。だからケンプファー家次第ってところだな」


 鬼灯を遮るようにして、トッドが胸を張り堂々と人任せを宣言した。それこそ誰よりも彼自身が腐心して打開せねばならない点なのに。


「ちょっと――」

「だって当然だろ? 基本、公城なんて探索者おれたちに縁が無いんだよ。

 城内の揉めごとは、専属の警護で対応するから依頼が出されることもない。衣食住についても住み込みがいるから、人手のいる大型修繕でも入らない限り城外発注なんてするはずもねえ。

 まあ、資材等を卸す出入りの商人くらいが外との繋がりを持つ唯一の存在かもな」

「商人、ね……」


 労役の一人として潜り込む――その考えは二人も理解できたろうが肝心なのは商人の伝手つてだ。

 無論、この地に来たばかりの彼らにそんな都合のいいツテなどあるはずもない。すべてはトッドと『協会ギルド』が頼みの綱なのだ。


「……結局ケンプファー家からの良い報せを待つしかありませんか」

「仕方ないさ。今は地道にやれるこをやるしかねえ。それだって何かの足し・・にはなる……だろ?」


 至らぬ自分にばつの悪さも感じているのだろう。慰めの言葉を口にするトッドの視線が同意を促すように壁板向こうの隣室へ向けられ、鬼灯と扇間の視線も自然と追随する。そこではまさに、“今できる地道な作業”が秋水の手により進められているはずであった。いや“作業”というのもはばかられる、あくまで小細工程度の取るに足らぬ手仕事にすぎなかったが。ただそれだけに、秋水が戻ってきてもよさそうな時間は経っているはずだ。


「……少し遅くねえか」


 何気ないトッドの言葉に不安は感じられない。だが口にした事実が胸中の曇りを教えてくれる。


「我々が在室しているように見せかける・・・・・わけですから……細工に多少の時間を取られるのでしょう」

「そうかも、な」

「それになにかあったときの“符丁”も秋水殿と取り決めたはず。ここはいらぬ邪魔立てをせず、大人しく待つべきです」


 トッドと鬼灯のやりとりを耳にしながら扇間が軽く開けられていた窓外へ視線を移した。

 外からは冷たい夜気に混じってどこぞの酒宴の喧噪が届いてくるのはいつものとおり。生ゴミや汚物の入り交じった嫌な臭いが室内に入り込んでくるのも馴れねばなるまい。

 ここは、北街区にある安宿『ソヨンの宿』の二階にある狭苦しい一室。

 宿の手配は任せろというトッドの厚意をあえて固辞して、見習いとはいえ手にした依頼料で泊まれる宿を鬼灯と扇間が捜した成果である。

 さすがに安いだけあって貧民街たる東街区にほど近い立地条件となったが、建物自体は元商人の住まいだったらしく、石組み二階建ての骨格は安宿らしからぬ破格の頑丈さがある。まあ、寝泊まりする宿にそうした“頼もしさ”が必要かどうかは別として。


「まあ、確かにいい宿だ」


 壁板から視線を外し、扇間と同じように宿の外を窺うトッドの口元に皮肉は見られない。


「人通りはなく、泊まり客もちらほら。目立たず隠れ潜むにはうってつけの宿――それも選んだ理由だろ?」

「時々、盗みに入り込む奴がいて煩わしいけどね」

「それもきっちり痛めつけて以来、誰も来なくなりましたが」


 扇間の言葉を鬼灯が締めれば、トッドは苦笑を漏らしただけだ。近隣同業者に知れ渡るほどのしっぺ返しがどんなものかと想像してだろうか?


「それが原因かもよ」

「「?」」

「さっき秋水の旦那が言ってた話しさ。先の一件であんたらはクレイトン一家の不興を買っている。奴らが血眼になって捜している遺産を横取り・・・・・・した・・ってな。そんな状況で、連中が昨日あたりから、にわかに人集めをはじめた理由――案外、あんたらの居場所を知ったからかもしれないな」


 つまり、同業者繋がりで“凄腕の異人がいる”という噂が広まれば、一家の連中なら全員が鬼灯達を思い浮かべるだろうと。

 噂を耳にして「見つけた」とほくそ笑んだに違いない。これで意趣返しができるぞと。


「もしかしたら、部屋に忍び込んだヤツも盗みじゃなくて誰が泊まっているかを調べてたのかもしれねえな。あそこじゃチンケな犯罪者が『裏街』の目や耳になる」

「ふん――今さらですね」

「ああ、今さらな話しだ」 


 勝手知ったる地元の街区と違って人海戦術にも限度はあるが、こちらからボロを出せばまた別の話だ。そして真実がどうであれ、連中は襲撃の準備としか思えぬ動きを見せ始め、その不穏な動きの情報が、先ほど秋水によってもたらされることになったのだ。

 現状、秋水が本来の部屋に《・・・・・・》赴き細工を施すのも、自分達が留守であった隣室で・・・・・・・・・臨時の密談を勝手に開かせてもらっているのも、すべては用心のためである。


「なあ、やっぱり――」


 どうしても嫌な予感が拭えないのか、トッドがあらためて翻意を口にしかけたところで。



 ト、トン

 ト、トン



 ふいに、建物の軋みと明らかに異なる人為的で軽妙な打突音が壁板で鳴らされ、三人の身に緊張が走る。

 噂をすれば影――それが“来客”を示す警告の符丁であることは、三人の顔に張り付く緊張感を見れば明らかだ。

 すぐさまトッドが戸口の脇に滑り寄り、扇間は窓横に張り付いて、不用意に顔を晒さぬよう注意を払いながら外の様子を窺う。そして鬼灯だけはゆったりした足取りで隣室とを隔てる壁板のそばへ。

 鮮やかな身のこなしで、三人は予め決めていた配置につき、己の役目に専念する。

 トッドと鬼灯が沈黙を維持する中、まずは外の動向に注視する扇間から第一報が告げられた。


「こっちの路地裏だけで四、五人――おそらく囲まれているね」


 それは想定された状況であったのか、トッドや鬼灯の表情に驚きは見られない。むしろ次に何が起きるか予測しているように、その予兆を少しでも早く捉えようと身動ぎひとつすることなく神経を研ぎ澄ます。

 遠く聞こえてくる野犬の鳴き声や酔っ払いの喧嘩を意識から排除して、衣擦れや呼吸の乱れ、わずかな振動で鞘が音を立て、小声とはいえ鋭い叱責が放たれる――そうしたかすかなざわめきが窓下から這い上り、探りを入れる扇間の耳にだけ辛うじて聞き取れる。


「そろそろかな……?」


 外の動きから何を読み取ったのか。

 意味深に問いかける扇間の視線に、扉脇で顔を俯かせ目を閉じるトッドが人差し指を立て「捉えた」ことを告げた。それが三本、いや四本に変わって廊下に潜んでいるであろう“来客”の人数を正確に示す。

 『聞き耳』の『陰技シャドウ・スキル』を駆使するトッドならではの芸当だが、その仕事ぶりを誇ることなく、なぜか二人の方へ向けて不細工な渋面をつくった。唇が動く――「こらあかん」と。



 バンッ



 隣室から、扉を蹴り破るド派手な音が響いてきた。続いて怒気を孕む蛮声と共に雪崩れ込む複数の足音が。

 襲撃だ。それも宿を囲い込むほどの大がかりなヤクザの喧嘩でいり――それに相対するのは不運にも、秋水ただ一人。



 ――っ

 !

 ……!

    !!



 だが猛り狂った嬌声や吠え声は一瞬で消え去る。

 荒々しい息づかいと苦鳴ともとれるくぐもった声の後、どたどたり・・・・・と立て続けに床を叩いたのは誰が倒れた音であったのか。

 無論、「でしょうね」と肩をすくめる鬼灯は、仲間が返り討ちにした証と当然のように受け止める。


「まだだ――」


 楽観を許さぬ否定の声は、意味深に二本指を立てるトッドのもの。それが一定間隔で突き出される仕草は、まさか“増援”を意味する行為なのか?


「第二波、三波……まだまだ来やがるっ」


 指の振りに合わせて、一語ごとに焦燥を募らせるトッドの実況。

 今や廊下側からも荒々しい息づかいに乱れる足音が明瞭に聴き取れ、これが単なる襲撃でないことを思い知らされる。


「ちょ――一体何人いるんだ?」

「さすがに拙い。加勢に行きましょう」


 引き攣れた扇間の声に鬼灯が壁から耳を離し、策の切り替えを宣言する。そもそも襲撃者を空振りさせるのが狙いだったのに、秋水一人が閉じ込められた状況は、最悪もいいところ。しかも、いかに実力差があろうとも数で押されれば脱出さえままなるまい。

 秋水の対処が破綻を来す前に、打開の一手が必要であった。

 迷わず行動に出る二人に、「外にはまだまだいるぞ?!」とトッドが両手で制すが。


「だからこそ、です」

「はい、どいてどいて」


 躊躇いなく扉の把手に手を掛け、鬼灯がもう一方の手に刀を下げた。扇間は両手に手裏剣を挟み込んで軽く肩を回して身体をほぐす。

 決死の覚悟というよりは、戦いに赴く喜びに満ちた二人の双眸に、トッドが思わず身を避けた。すぐに忌々しげに唇を歪めて。


「……殿しんがりくらいは務めてやるよ」

「? 誰もいないけど」

「いいから行けっ」


 聞き咎めた扇間にトッドは顔を赤らめて声を荒げた。敵がいないのは承知の上だ。勢いで云っただけだから、彼とすれば気概を汲んでほしかったろう。


「では――」


 鬼灯がいつもと変わらぬ調子で扉を開けようとしたとき、ギシリと床板が放つ苦鳴のような軋み音が鼓膜を震わした。

 それはおそらく、重量物が移動するときの音であったろう。載せられた想定外の重量に耐えられず、それ・・の動きに合わせて必要以上にたわみ押し潰された床板の苦鳴がゆっくりと動いている。

 階下から――二階へと。

 一定間隔で刻まれる床板の苦鳴はまぎれもない何者かの足音だ・・・。その重量感から想像する姿は成人男性の三倍から四倍――それは人種というより『怪物』と同種の体躯を有する大振りの影。

 これは召喚術か?

 侵入者達はこの公都に、住宅ひしめく狭苦しい居住区に一体何を・・喚び寄せたのだ?



 ギシリ、ギシリ――と。



 思わず動きを止めたのは三人だけではなかった。

 隣室の騒乱も水を打ったような静けさに包まれ、固唾を呑んでそれ・・の動きを見守っているようだ。

 やがて重量感たっぷりの足音が、すでにそれなりの人数を呑み込んでいる隣室へと移動できたのが不思議なくらいであった。

 それ・・が何であるかは分からない。だが、戦力として喚び寄せたならば、あの重量感からくる破壊力など推して知るべし。


「――これ、拙くない?」

「ええ、かなり拙いです」


 珍しく真剣な声音で鬼灯が応じ、間髪置かずに廊下の外へ滑り出た。一瞬の遅れもなく扇間も後に続く。

 誰が置いたのか、廊下の隅に明かりを灯す油差しが。それがほんの少し廊下の闇を薄めさせ、訓練された鬼灯達に辛うじて視認可能な状態をもたらしてくれる。

 廊下で待っていたのは異様な光景だ。

 三間先(5.4メートル)に小剣や手斧を持った連中が廊下の奥まで埋め尽くし、殺気立つ空気と絡んで妙な圧迫感を放っていた。気弱な大人なら軽い引きつけを起こしても不思議じゃない。


「これなら目を瞑っても外しませんね」

「ていうか、さっきのアレどうやってここを通ったんだろ」


 さすがに気圧されるような二人ではない。

 扇間の素朴な疑問に誰かが答えるのを待つことはなく、鬼灯が先手必勝と無謀にも飛び込んでゆく。


「なんだ?」

「おい、余計な」


 自分達に向かってくる黒い影を先頭にいた連中はまともに判別することなく、あっさり咽や眼を刺し貫かれて即死していた。


「てめ――」

「やれらた?!」


 続く二列目の者も脅しの文句や驚きを露わにするその半ばで、同様に急所を貫かれ、ごとりと廊下に倒れ込む。

 瞬く間に四人を失ったところで、ようやく全員が異常事態に気がついた。


「敵だぞ、しゃきっとしやがれ!」

「くそっ、めったやたらに強ぇぞ」

「ヴォルがあっさり……」


 下手に場馴れしているせいで鬼灯の異常な強さを感じ取った連中が、殺気立ちあるいは及び腰になり混濁した状況を生み出してしまう。

 だが狼狽える前列の背中を蹴り飛ばす者がいた。


「馬鹿野郎、やり方ぁ変えろ」

「クレイトン一家の喧嘩いくさを奴らに教えてやるんだよっ」


 気炎を上げ、後方から仲間を押し退け進み出るのは屈強な二人の男。

 片手に手斧を弄ぶ細身の男は、仲間を安心させ鼓舞するためにわざと威圧的に歩き、それらしい雰囲気をつくっているのかもしれない。おかげで浮き足立っていた空気がしっかり引き締まる。

 今一人のガタイのいい男も同様に、胸を反らして悠然と歩み、手近の仲間を抱き寄せるや「根性見せろ」と前へ突き出した。

 背中を押された男が慌てて得物を構え直し、「誰に云ってやがるっ」と気を吐いた。


「おう、いくぞオラッ」

「俺らも続くぜ」


 ガタイのいい男が細身の相棒を促し、倒れた死体を抱え起こす。何をするかと思えば、仲間の骸を盾にして獣のような雄叫びと共に突っ込んできた。


「ぅぐらあああ!!」

「行け行けっ」

「怯むな、押し込めっ」


 先頭は顔面蒼白の男。それを後ろから押し出すように“骸の盾”を抱えたガタイのいい男と細身の男が駆け出し、それに続くように人の列がぞろぞろと動き出す。

 作戦もへったくれもない勢い任せの無茶苦茶なやり方に、「何なんです、この人達」とさすがの鬼灯も唇の端を心なしか引き攣らせる。



 おごらぁああああああ!!!!!!



 床板が地響きのような音を立て、廊下が揺れ動くのは錯覚ではない。

 奇しくも秋水が受けているのと同じ数の圧力に襲われ、鬼灯達の命運まで暗雲が垂れ込めるかと思われたその時。



 ――――ぼっ!!!!



 鬼灯の金髪が空気を抉り抜く何かに引き寄せられ、暗がりを白光が刺し貫いたように見えたのは、さすがに気のせいであったろう。

 だが、その閃光の軌跡上にあった敵の頭や腕、あらゆるものが貫かれ、幾人も頽れたのはまぎれもない現実であった。


「扇間流手裏剣術――『死穿しせん』改め」


 鬼灯の耳朶を打つ扇間の声は、己が武を誇るようですらあった。その絶大な効果を表すかのように、突然産み出された複数の死体に流れを阻害され、人垣の列が乱れて勢いまでが見る間に減退する。


「威力が上がってますね」

「鬼灯さんの助言に従ったまでさ。まだまだだけどね」


 それは数日前の出来事にすぎない。なのにもう修正を加えてこれほど威力を高めてきたというのか。しかも当人曰く「まだまだ」とは。

 気付けば鬼灯の口元にあった焦燥がきれいに消し去られていた。


「次は私の番ですね」

「喰らいやがれっ」


 先頭の男が剣を振り上げ、細身の男が手斧を投げつけてくる。そのいずれも躱したところで、“骸の盾”が鬼灯を捉えるのは必至であった。

 まさか壁を蹴り上がり、身体を真横に倒して躱すとは。

 『猿身』が可能とする信じられぬ曲芸に、ガタイのいい男と細身の男が認識だけは追いつき、両眼を思い切り見開いた。

 その片方を鬼灯の振るった刀が貫き、もう片方を扇間の手裏剣が貫いた。「悪いね」と先頭の男をすれ違いざまに仕留めたのはトッドの短剣だ。


「……ぁ……ぅ」

「……なんなんだ、こいつら」


 後にはすっかり毒気を抜かれ、呆然と佇む男達が。

 たった今の今まで、どんな強敵だろうといつも通りに押し潰すだけの展開だったはずを、気付けば前列の皆殺しに終わっていたのだ。相手に傷のひとつも与えられないままで。想像だにしない展開に、誰もが困惑し自失してしまうのも当然であったろう。

 だが廊下の敵がやる気を失ったところで、鬼灯達としても勝ち誇っている場合ではない。


「さあ、残りを――」


 軽やかに廊下に降り立ち、鬼灯が残敵に眼を向けたところで、メキャァと木材がひしゃげ壊れる音が背中越しに聞こえた。


「――つあ!!」

「――っ」


 鬼灯が反射的に飛び退きながら振り返る。そこで目にしたのは、金色の閃光が宙に美しい斬線を描く光景だ。

 そして、腕を十字に構えた扇間が、廊下の壁にめり込む勢いで――いや文字通り浅くめり込ませながら叩きつけられた無残な姿であった。

 何が起きた?

 自身の喉元が薄く朱色に切り裂かれている事にさえ気づかぬまま鬼灯は立ち尽くす。


「……がはっ」


 咳き込む扇間を目にするがその音は聞こえない。

 暗がりのせいで、黒い液体が扇間の口から吐き出されるのを鬼灯は呆然と目にするだけだ。そのままゆっくりと床へ滑り落ちる扇間の身体に手を差し伸べることなく見守り。



 ドクン――――



 自分の心臓が強く打った振動で、再び、音のある世界に鬼灯は引き戻された。

 ふと廊下の奥で、切っ先を斬り飛ばされた短剣を掲げ硬直していたトッドと視線が合う。


「……はは……」

「……」


 頬に朱線が入って男前が上がっているのに気付いているのだろうか。まあ偶然とはいえ、あれほど豪快な不意打ちを切り抜けた以上、さすがは高レベルの斥候職と褒めるべきなのかもしれないが。

 そんな二人の弛んだ空気に水を差す声が掛かる。


「――おう、いいのが入ったな」


 笑みを含む太い男の声は、扇間が叩きつけられた側と反対の壁から響いてくる。虚ろに視線を向ける鬼灯は、滅茶苦茶に壊された壁板の向こう側に獰猛な笑みを浮かべる巨漢の姿を目にした。

 人並み外れた長身に呆れるほどの筋肉の量は長躯族の特徴だ。そして童のごとき純粋な好奇の目が先日の一件を鬼灯に思い起こさせる。


「貴方は……ゼイレ?」

「そういうあんたを見たことあるぜ」


 返事したところでゼイレが腕を振るい、鉄と鉄がぶつかる金属音が響き渡る。「ちっ、邪魔すんなよ」と苛立つ相手は秋水なのだろう。


「“強い”って聞いたが、あン時は確認できなかったからな。けど、コイツ・・・といい、そのくたばらねえヤツといい……あんたら一体何モンだ? ワクワクが止まらねえぜ」

「ならそこで大人しく待ちなさい。そのまま心地よく逝かせてあげますから」

「うはっ……そんな勿体ねえマネはできねえな」


 巨漢のゼイレは秋水がいるであろう方へ顔を向けて、鉄の塊にしか見えない重戦斧バトル・アックスを軽々と構える。


「あんたが来るまでコイツ・・・と遊んでいるよ」

「遊びになりますか? 扇間さんを仕留めきれなかった貴方が」


 挑戦的に強く言い放つ鬼灯をゼイレが唇を深く吊り上げ応じた。大型の肉食獣が笑えばそんな顔になるのだろう。


「心配すんな。遊びたって、俺はいつでも全力だ。それが戦いの礼儀ってやつよ」


 壁板の裂け目からゼイレの姿が消える。力強い足踏みや空気が唸る重低音は室内の激しい戦いを想像させるものだ。

 どちらも並外れた力量の者だけに、生死を分かつは一瞬で事足り、そう長くは戦いも続くまい。だが、鬼灯はそこから目を反らす。


「行きましょう」

「ど、どこへだよっ」


 トッドが困惑するも鬼灯が声を掛けたのは彼にではない。視線の先にいる扇間が「……これは、さすがに」と喘ぎつつものっそりと立ち上がった。


「かすり傷、とは云わないよ……」

「いいえ、かすり傷です」


 力強く断言する鬼灯は、彼にしては珍しく切迫した表情で頬をひりつかせている。わざわざ巨漢と無駄話を交わしたのは、相棒に回復の時間を与えるためだったのだ。同じように、ゼイレを挑発するかに聞こえた言動は、秋水へこちらの窮状をそれとなく伝えるためのもの。

 立ち上がっただけで扇間の顔中に汗の珠が浮かびはじめ、その身を支える膝はかすかに震えており、重篤なのは明らかだ。

 手裏剣の防御と自らの跳躍――どれほど被害軽減に努めても、扇間の受けた傷が、胸部の深い裂傷と肋骨の骨折程度に済んだのであれば、奇跡的な幸運だというしかない。それだけに、普通なら意識を保つのが精一杯で動けるものではない。いや、立ち上がるなど以ての外。

 だが、廊下の奥には戦意を奪ったとはいえ敵はまだ残っており、巨漢の手強い敵も秋水がどこまで押さえられるか判断できない。

 もはや四の五の言わず、脱出に専念するしか道はないのだ。


「……なあ、手当てしねえと拙いぞ?」

「ですが、相手の戦力が不明です。今のうちに数減らしをするのが得策かも。いえ今なら突破できるかもしれません」


 難しい判断に迫られ、鬼灯の声にも苦渋が紛れる。少なくとも、“迷い”は最も避けねばならない思考であり、即断即決だけが道を切り開くとすれば。


「トッド殿。彼を頼みます」

「ああ。けど低級だが薬瓶ポーションはまだあるんだ。どっかのタイミングで呑ましてやるべきだ」

「もちろんです」


 低く応じて、鬼灯が猛然と駆けだした。いつも甘く微笑み、緩い空気を纏う彼の形相は寒気を覚える冷たい能面となりて、相対する者を思わず後退らせた。

 それを愛刀の一閃で容赦なく刺し貫いてゆく。

 色鮮やかに血飛沫かせることもなく、無色無音の一方的な殺戮が暗がりの廊下で繰り広げられる。

 それはたった一人の鬼人による所業であることは、畏怖で顔面を塗りつぶしたトッドだけが知ることであった。


         *****


『ソヨンの宿』二階

  秋水とゼイレ――



 二つの失態に秋水は内心歯噛みしていた。

 ひとつは巨漢を壁際に誘ったまではよかったが、“すきる”なる不可思議の術技によって同朋が深手を負わされたらしいということだ。

 まさか壁をぶち抜くほどの威力があるなど考えもしなければ、それを廊下の騒動を聞きつけて曲芸じみた不意打ちに用いるなど、もはや想像の埒外であった。むしろゼイレの戦闘巧者ぶりを褒めるべきであろうが、秋水はそう捉えない。

 救いは鬼灯の言葉から読み取れば一命までは取り留めたというところだが、窮地であることに違いはない。

 そして今ひとつは、窓外より“見えない刺客”に狙われ、脇腹に浅くはない一発を受けてしまったという痛恨の事実。

 はじめは矢が見当たらず、灼熱の痛みに思わず鉄砲かと思ったがそうではない。皮鎧の下から転がり落ちたのが石ころと分かって、秋水は即座に鬼灯達から聞いていた『弾き』の遣い手を思い起こしていた。

 ただ、秋水の知る礫の遣い手はある程度の距離しかまともな威力を保持できない。なのに窓から望める直近の射撃可能な二階建ては、三軒先にしか見当たらない。

 眼前の巨漢なら馬鹿げた指力を発揮しそうだが、耳にした遣い手の風体にそれほどの力があるとは思えないのだ。

 ならばいかにして、かような狙撃を可能と為さし得たのか――?

 この世界に知見の乏しい秋水に答えなど出るはずもなく、また、出たところでこの状況が打破されるわけでもないのだが。


「――どうした、さっきから動きが悪いな?」

「思ったより二対一がきつくてな」


 秋水の皮肉をゼイレが「ちっ」と舌打ちしながら憎々しげに窓外へ視線を向ける。


「俺もうざったい・・・・・んだが、こう離れてちゃ止めさせることもできないしな。まあ戦いなんてこんなもんだろ」

「ならせめて、その敷布を取ってもらえないか? 窓に垂らせば水入らずで・・・・・戦えるぞ」

「なるほど……考えたな」

「どうだ?」


 水を向ける秋水に「悪くないが」とゼイレは首を振る。


「運が良いのも悪いのも、策がハマるのも見破られるのも……なんやかや・・・・・ぜんぶひっくるめて、戦いってのはこんなもんだ」


 軽く両腕を広げて「受け入れろ」とゼイレは告げる。今回のそれがあんたの立場だと。

 なぜか嫌味を感じない巨漢の考えに、秋水はふっと肩の力を抜いた。


「――そのとおりだな」


 窓から狙われる射撃の角度は、これまでの戦いで秋水の肉体が覚えている。その射線ぎりぎりのところに彼は立っている。

 その境界を秋水は無造作に踏み越えた。

 即座に二歩目を踏んだ時には、一歩目の空間を何かが貫いていた。長距離『弾き』の凶弾が反対側の壁に音を立ててめり込む。

 意識はゼイレに集中させたまま。

 ほんの一瞬でも長く同じ位置に留まれば、即座に死の礫が秋水の身を貫く危険地帯。その死に神の掌にあえて身を投じ、巨漢の獄卒を相手に秋水はひりつく戦いに自ら挑む。


「ぜあっ」


 首刈る軌道の斧撃をお辞儀するように躱し、続けて身体を仰向けに反転させて地面すれすれの仰け反り姿勢で凶弾をも避ける。

 同時に閃かせた秋水の剣撃がゼイレの太腿を切り裂いた。

 信じられない肉体の強さ・芸当にゼイレどころか不可視の狙撃手も絶句したに違いない。



 ズガッ!!!!



 真上から秋水を叩き潰す重戦斧バトル・アックスの一撃が、割られた無数の板切れで刺々しい華を咲かせる。

 すでに秋水はゼイレの懐に。肘を挙げて迎撃を試みるゼイレに柔らかく上半身をくねらせ・・・・躱し、その回転力を効かせてクナイを首筋に叩き込む。



「けぇっ」

 ――ギッ



 刃が皮一枚で止められていた。

 種族特性技能『剛体』――その技までは秋水の耳には届いていなかった。動きを止めた秋水の腕をゼイレがむんずと掴み、力任せに投げ捨てる。


「……っ」


 声にもならず床に叩きつけられ、一瞬間を置き、すぐに秋水は身体を転がし跳び退った。床上は射線が通らず凶弾の追撃を受けなかったのはせめてもの救いか。


「どこがきつい・・・って? すげえ動きすんじゃねえか」


 掛け値無しの感嘆を口にしながら、ゼイレの口端は急角度に吊り上がる。


「なんなんだ、ほんとにお前らは……他にも仲間がいるのか? いたらすげえ戦闘集団だな、おい」

「なんだ、お前も仲間に入りたいのか?」

「へ?」


 よほど意表を突かれた台詞だったらしい。

 思わずマヌケ顔で固まった表情はすぐに思案げな表情へと変わり、しばらく真剣に唸ったあと、ようやく破顔した。


「――悪いな」

「本気で考えたのか?」


 むしろそちらの方が驚きだと秋水が思わず尋ねてしまう。


「非常に魅力的なお誘いだけどよ……それだとあんたらと戦いずれえからな」


 勿体ないと。仲間になるのもそれはそれで面白そうだがと、本当に残念そうにゼイレは断る。何だか憎めない巨漢に秋水の殺意も揺らいでしまう。


「無遠慮に蹴ってくれるとやりやすいんだが」


 秋水はかすかに首を振り、懐から何かを取り出した。


「悪いがこっちも急ぐ都合がある。これ以上はお前の得意な場所で戦うつもりはない」

「で?」

「だから――こうだ!」


 秋水は全力で手に持つ紙袋をゼイレのいる天井に叩きつけた。ぱっと白い粉が広がり、まるで靄か煙のごとく一定の範囲を覆い隠してしまう。


「さて、どこから攻めようか?」

「……!」


 目くらまし程度で倒せる相手とは思っていない。

 故に言葉で巨漢を縛り付けて、秋水は音もなく部屋を後にする。

 時間稼ぎ――はじめからそれだけが目的であった以上、無駄な争いをするつもりは秋水にはない。いらぬ行動は思わぬ危険を呼び込むことにもなるからだ。

 すぐに白い靄は晴れる。

 だがその時には、長身痩躯の影も形もとうに見えなくなっていた。

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