第16話 諏訪の白百合
大蜘蛛の襲来から二刻――東の空が薄らぐには今少し早く、未だ夜の静寂が城中を支配している頃。
とある一室から女が一人出てきたところで、声を掛ける者がいた。
「靜音様」
低いがよく通る声。
一見、女性かと見紛うほど線の細い顔立ちに柳眉、血の気の引いた薄い唇――その若侍――月ノ丞を目にしただけで城内の女子ならば誰もが頬を朱に染めるところを、だが、女――靜音は顔色一つ変えることなく小首を動かした。
「これは支倉様。――夜も空けぬというに、いつもこのような時分に?」
お目ざめか、と質してるのだろう。
理知的な光を宿す瞳がまっすぐに月ノ丞へ向けられる。
目力がもう少し和らげば、と乳母が惜しむだけの器量を持ちながら、靜音は口調にも人を寄せ付けぬ刺を含ませる。
惜しい、ではなく無念と言ったのは靜音の父であったか。
切れ長の目は十歳の頃から将来の嫁にと声が掛かるほど城内外の男衆を魅了し、今も質素な小袖姿でありながら白百合のごとき美しさを見る者に感じさせるというのに。
“諏訪の宝”と讃えられながら、嫁ぎ先が定まらぬ不思議の原因が
そんな靜音の
「なに、少々寝付けませなんだ」
語尾に含まれた“憂い”を靜音ならば気づいたはずだが、その事に触れることなく「それはいけませんね」と話を続ける。
「先ほど、お堀に落ちた十三様を身を挺してお救いくだすったばかり。お身体の具合は元より、気も昂ぶって寝付けなくなるのも当然でございましょう」
「如何にも――昂ぶってはおりますな。何しろ、肝心の“物の怪退治”を逃しました故」
「部下達に大役を負わせ、その上片桐を死なせたとあっては、隊の長として立つ瀬がござらん。それに――貴女様も哀しまれよう」
誰もいない周囲にさえ気遣って、付け加えられた言葉を小さく呟く。
月ノ丞の視線が、先ほど自身が出てきた一室へと向けられていることを踏まえれば、付された言葉の意味するところに気づかぬはずもあるまいが、靜音は動揺も見せずにさらりと聞き流す。
「片桐様のことならば、もう案ずることはありませぬ。ご容態も落ち着かれ、今は穏やかに眠られております。――すべては、支倉様のお働きあってのこと」
そこで初めて、靜音の言葉に含まれる棘が和らぐ。
だが慈しみに縁取られた面差しは月ノ丞に向けられたものではない。
なぜなら澄んだ黒瞳は月ノ丞へ向けられているのに、合わぬ焦点が“別の誰かを見ている”と気づかせてしまうが故に。
こうもあからさまに無下にされると、相手が美しいほどに男の矜持が傷つくというものだが、若くして抜刀隊の頂きにたどり着いた者の精神は異なる境地に達するのか、月ノ丞は黙して見つめるのみ。
「兄上には私からも申し添えておきますから。今度は貴方様が、しっかりとお休み頂く番ですよ」
「……お心遣い、ありがたく」
「隊の役付が二人とも倒れられては一大事でございますれば……療養も勤めとお思いくださりませ」
「しかと、この胸に」
手を胸に添える仕草さえ絵になる若侍に、しかし、靜音はなんの感慨も示さずただ小さく頷く。
「では、私はこれで」
「貴女様も――」
「はい?」
「あまりに大変な一日でござった――ごゆるりとお休みなさりませ」
靜音のゆるめた口元に浮かんだのは笑みだったろうか。
無言の会釈に、とても成人したばかりとは思えぬ艶然さをみせて靜音が背を向けた。
その後ろ姿を月ノ丞は黙って見送る。
月ノ丞が城勤めが間もない若輩の身であったならば、狐につまされた顔をしていたかもしれない。
だが乱世に生きる女なれば、
何の不思議もない。
再度、月ノ丞が先ほどの一室を一瞥すると、去りゆく靜音の足が止められた。
ふと、何かを思い出したかのように。
「――十三様をお助け頂き、感謝いたします」
小さくもはっきりと耳に届く声。
振り返ることなく告げるや、今度こそ靜音は立ち去った。
“大蜘蛛の件”を考えれば寝所まで警護を申し出るべきだろうが、あれから城内は篝火や見廻りを増強し警備を厳にしている。
何よりも声を掛けることさえ
「――出直すとしよう」
誰にともなく呟くときびすを返す。
先だって、昏睡状態の片桐をその部屋に運び込んだのが他ならぬ月ノ丞であったことを知れば、何が目的であったかは考えるまでもない。
深夜の行水はさすがに堪え、湯浴みと着替えを済ませてから戻ったのは半刻ほど前。
先客の存在に気づき――それが誰であるかさえも――夜の冷気にさらされて待つ間、若侍は何を想っていたのだろうか。
去り際に呟いた月ノ丞の声に含まれる憂いが晴れることはなかった。
その日、『諏訪』にとって“あまりに長い一日”がようやく終わりを告げた。
不寝番を余儀なくされた者以外は、皆、泥のように深い眠りに陥り、そのうち、実に7割以上が熱に浮かされ陽が高くなるまで起き上がれなくなるという体たらくであった。
ただし――
「心労だけとは思えぬ」
禿頭である無庵の意見を聞くまでもなく、むしろ誰もが不審に思ったのは言うまでもない。
身体に溜まる“得も言われぬ倦怠感”を表現できぬもどかしさに煩悶しつつ、それが
特に目覚めたときのあまりの爽快さに、一時、城内で嬌声が飛び交ったほどだ。
「おお――なんぞ、羽根が生えたような心地ぞ」
「まさに。この身の軽さは何と表現したらよいものか」
「お主もか」
「かくいうお主も?」
老若男女の分け隔てなく、誰もが生まれ変わったかのような輝きに満ちている。
驚くのは、疲労感が抜けただけでなく負った傷も治りかけてる者がいたことだ。
「――無庵?」
「言うなれば“世渡り”のせいかもしれぬ」
「?」
「“あちら”と“こちら”――どちらがどちらにかは分からぬが、あり得ぬ事象が起きれば、必ず歪みとなってどこかにしわ寄せが押し寄せるもの」
「
「我らにとっては、良い影響を及ぼしたのかもしれぬ。いや、まったくの妄想――狂人の戯言とはこのことですな。忘れてくだされ」
「何を今更」
そんな風に、主と禿頭の家臣が密談を交わし合ったことは誰も知らない。
しかし、“忌み子”なればこその直感か、無庵の言葉を肯定するように、物見から知らせが届けられる。
森の様相が一変していると。
生い茂る草木に見知らぬ種類が混じっているだけでなく、明け方に立ちこめていた靄か霧が晴れると、城は広大な森林に囲まれていると気づいたらしい。
いっかな要領を得ず、目を血走らせる物見番に眉を顰ませつつも、さすがに無視できず自らの目で見聞することとした。が――
「――どう見ても“白山”には見えぬな」
呆然と眺める主に居並ぶ家臣達も言葉が出なかった。
右に左に果てなく広がっていく“白山”の山並みが見えるはずの西手に、何もなかったからだ。いや、冠雪を頂く雄壮な山がひとつきり。
だが、言葉通り天を突くほどの威容を何と表せばよいのか。
噂にだけ聞く“富士の山”を妄想し比べてみるも意味があるはずもない。
「……はっきりしましたな」
呟く禿頭に皆の視線が一斉に集まる。
「少なくとも、“我らの方が黄泉の国に迷い込んだ”ということよ」
城ごとな、と付け加えられる言葉をもはや誰も聞いてはいなかった。
とてもこの世のものとは思えぬ、山の圧倒的な存在感に、誰もが打ちひしがれていたからだ。
とんでもないことになった――
動揺。
混乱。
不安。
畏れ。
言い表せぬ感情が渦巻き、その圧倒的な質量に押し潰されそうになる。
「…………とにかく、評定の支度をせい」
主の言葉に力強さが戻ることはなかった。
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