第5話 『白狐』の鬼手


夜半

羽倉城周縁の森

 同盟軍『別働隊』――





「大変だ、かしらぁ――うっ」


 断りもなく顔を出したかと思えば、急ぎであろう知らせを口にすることもなく、露骨に顔をしかめる手下に男――犬童いぬどう るいは不機嫌を露わにした。


「おい、せっかくの余韻・・を邪魔するな――」


 暗がりの中、むしろの上で気だるげに裸の上半身を起こし、塁は視界の隅で横たわる白い肉をむんずと掴む。

 「ん……」と艶めかしく耳朶をくすぐる女の呻きと、手の中でかすかに身動みじろぐまだ熱い肉の柔らかさ。

 塁が思わず唇の端をゆるませ、手下の視線が豊かな女の尻に吸い付いてしまうのも無理はない。

 戦のたびに塁が連れてくる女は、顔立ちよりも肉付きの良さに重きを置いたかのような、震い付きたくなる上玉ばかり。

 その上、枝葉で組んだ簡素な小屋には、えたような男女の臭い・・・・・が熱を持って絡み合い、むせ返るほどに立ち籠めている。

 どれほど性情の乱れがあったかと連想させずにはいられず、手下の股間を猛烈に刺激する。


「頭……あ、あっしも・・・・……」

「用があったんだろ?」


 望とした表情で欲求に耐えかねた手下を塁の声が遮った。

 ごつい顎に太い首。そこから発せられる太くて重いよく響く声には、塁の強烈な意志が圧力となって込められている。

 その力強さは、塁の見事な体躯にも表れていた。

 ただの百姓暮らしでは決して発達することのない胸の筋肉が、分厚い粘土を貼り付けたように盛り上がり、木の根のごとく背を這う広背筋と共に、惚れ惚れするような逆三角形を造り上げていた。


 それは“男”が理想とする肉体像のひとつ。

 そして“女”が惚れずにはおかない野性の造形美。


 強さの象徴を体現する塁の声に、手下は顔面を叩かれた途端、夢から目覚めたようにはっとする。

 「何やってんだ、おれぁっ」と眠気を吹っ切るように首を振り、こびりついた情欲を払い落として。


「大変なんです、頭っ。やつら、とんでもねえモンを仕掛けてやしてっ」


 口にしながら、つい先ほどまで抱えていた感情が蘇ってきたのだろう。手下の表情が険しくなり、息を荒げ始める。


「佐吉も正三も殺られやした。早く何とかしねえと、もっと殺されちまうっ」

「わかった」

「――ぇ、へ?」


 藪から棒に騒ぎはじめた手下の報告を、塁はろくに聞きもせず、あっさり頷いた。あまりにあっさり応じられて、逆に手下の方がマヌけた声をあげてしまう。


「か、頭……?」

「この森はやつらの巣だ・・・・・・。何があっても不思議じゃない」


 表情ひとつ変えることなく、塁は脱ぎ捨ててあった薄衣を引っ掴み、おもむろに立ち上がった。

 彼ら『犬童隊』が密命を帯びて送り出されたのは、敵の本城を取り囲む広大な森林における西の林野。

 敵にとっては最後の防衛線であり、当然、林野戦に秀でた奴らのこと、森には様々な罠が仕掛けられているとみるべきだ。

 すべて承知のことと塁は受け止める。

 「それでも」と発する塁の体躯に見えない圧力が漲った。


「俺たちは、“狩猟の民”だ」

「!」

「例え今は山を下り、『犬童』の名を冠する侍となろうとも、森で平地の奴らに後れは取れん――違うか?」

「……っ」


 違わないっ、もちろんでさ。声も発せず手下が夢中で首を振る。それに、隊頭が何を云わんとしているのかを気付いたこともある。


「お、俺たちぁドジは踏んでねえ。本当でっ」


 手下が唾飛ばしながら必死に訴える。

 一族の誰もが狩猟の民としての矜持を持って、任務には細心の注意を払って取り組んでいたのだと。

 なのに、罠にかかった。 

 しかも、死者が増え続けているとのこと。

 塁が眉間に皺を寄せたのは、不甲斐なしと憤るよりも、対処し切れていない事実に疑念を抱いたがため。なぜなら――


「犬千代はどうした。あいつが俺を呼ぶなんて、それほどの仕掛けか?」

「いえ、頭に報せようと思ったのは、あっしらの判断で」


 その返事に塁の眉間の皺がさらに深くなる。


「犬千代の旦那なら、無事とは思いやすが……正直なとこ、あっしらにも分かりやせん」

「無事? 分からない? 一体何を云っている」


 予想だにしない返答の連続に、塁の語気も強くなる。

 そもそも、副官である犬千代に陣頭指揮を任せているからこそ、このような場所でも塁は女としけこ・・・める・・のだ。それがどうして部隊とはぐれてしまうのか。


「とにかく――」

「待て、はじめからだ・・・・・・。はじめから、分かるように話せ」


 このままでは話しが見えぬと塁が説明のやり直しを命じる。有無を言わせぬ迫力に、手下が顔を強張らせながらも、何とか伝えようと努力する。


「はじめからってぇと……ま、まず、頭に言われたとおり、“諏訪の隠し通路”ってのを必死に捜しやした」

「ああ」

「したら、旦那がそれらしいもん・・・・・・・を見つけたとかって話しで」

「ほう」


 そこで塁が一段低めで相づちを打ったのは、それが値千金の情報であったがため。これで戦局の天秤は同盟軍へ大きく傾くことになる――だが塁は、喜悦を呑み込んで、聞き役に徹する。


「早速、人数集めて調べることになりやして。そんで、旦那が先頭切って踏み込んだら……」

「罠に掛かったのか」

「へいっ――いや、その」


 一端頷いた手下が、慌てて首と両腕を振るう。


「違いやした、すいやせんっ。そうじゃなくって、靄が出たんでさ。こう、ぶぁーっと!!」


 腕一杯に広げた勢いで顔を突き出す手下が、辺りを見回すふりをする。また話しが反れてしまったかと思わせるが、塁は辛抱強く口を閉ざし、手下の話に耳を傾ける。


「なんだって、突然。すっげぇ靄がわき出して、そらぁもう、なんにも見えなくなっちまって……」


 動くなと犬千代からの指示が放たれ、手下達は足を止めた。

 自然、身を屈めたのは本能的な防御反応にすぎない。 

 むせ返るほどの濃霧は、手下達の鼻腔や耳から体内に入り込み、胃の腑や肺を満たして体中をくまなく犯し尽くすかに思わせた。

 それでも、誰も呻き声すら発さない。

 まるで聞かれてはいけない・・・・・・・・・何か・・に警戒するかのように。

 じっと息を潜めて。

 獣であれば、目視を諦め、耳や鼻に頼る。

 狩猟の民である彼らも、物音に耳を澄ませ、気配を感じ取ろうと意識を集中させた。

 幸いにも、隠し通路らしき森の回廊は、天上が開けているために、月明かりが十分に採れている。

 だから、しばらくして靄が薄れはじめ、それに併せて前方に大きな影が揺らめくのを、そこから後方にいたほぼ全員が目にすることになった。



「「「――な?!」」」



 つい今し方まで、前にいたはずの仲間の姿がなくなっていることに気付いた者はいない。ただ目の前に突然現れた、不気味な影絵に誰もが息を呑む。

 目線を上げねばならぬその偉容――誰もが本能的に危機を感じ取る。

 影が揺れた。

 いや、こちらに向かって動いたのだ。

 そう理解した時には、一番近くにいた仲間の頭がぼとりと落ちていた。


「あ――」

「佐吉?!」


 唐突な仲間の死に、目を奪われる者。

 その死を強制した、禍々しき影の正体に顔色を失う者。

 そう。それは――


「――化け物だと・・・・・?」

「へいっ」


 神妙な面で頷く手下を塁はじっと睨みつける。

 作り話めいた手下のそれを、戯言と蹴飛ばすか否か考えているように見えなくもない。手下が額に浮かべる汗の珠が増えてゆき、「そりゃもちろん」と早口で付け加える。


ほんまもん・・・・・だなんて、云いやせん。もしかしたら、図体ずうたいのでけぇ“番兵”だったかも。だ、だからあっしは、“仕掛け”と云ったんで。ええ、そうですよっ。諏訪の奴らぁ、化け物みてぇに強ぇ、隠し通路を護る門番を置いてたんでさ!!」

「それでお前らは、その門番によって隊を分断されたというわけか」

「そ、そうですっ。そういうことでさぁ!」


 やっと分かってもらえたと、手下が嬉しげに何度も首を振る。


「そっからすぐ正三も殺られちまって、とにかく手が付けられねえんで……そんで、犬千代の旦那はと思ったら、門番よりもっと奥にいたはずだ。こらもう話しができねぇってんで、頭に報せるしかねえと、こうなったわけでして」

「だから犬千代の安否が分からぬと」

「そうですっ」


 手下の返事を背越しに聞きながら、塁は腰に鉈と小剣を挟み込み、手早く身支度を整えた。

 急がねばならない。

 “隠し通路”を見つけた逸る気持ちはあるものの、それ以上に塁を突き動かすのは、すぐに騒ぎを収めねば敵の後手を踏むとの焦り。

 だが、そもそも化け物じみた相手を速やかに排除できるのか? 塁の頬にかすかな緊張が差しているのは、その正体に思うところがあるためだ。


(まさか、万雷くそじじいじゃあるまい……)


 塁でさえ、戦場で、真っ正面から立ち向かいたくないと思わせる巨漢の老将。それこそ化け物じみた武力が立ちはだかるとすれば、連れてきた人数ではどうにもならない。


 ――塁が命を賭けなければ。


 塁が何気に視線を落とす。

 白くやわらかな女の肌が、かすかに波打っている。

 この騒ぎにあって、女はぐっすりと眠りこけていた。激しい情事のあとは、いつもそうだ。

 女が寝入っているうちに、塁は戦いに赴く。

 戦い終われば、内にてくすぶる火を消し込むようにもう一度、女を抱く。

 それもいつものとおり。


(そう。いつものとおりだ――)


 表情から緊張がほぐれた塁は、手近に置いた矢筒を肩掛けにして、立て掛けてある愛弓を手にとった。

 通常の弓ではあり得ない――製法の観点から見ても明らかに常識の埒外らちがいにある――鉄の細板を束ねて生み出された特別製の剛弓を。

 その一撃は、生きた鎧とも呼べよう熊の背中から心臓を撃ち抜き、また、硬い眉間をも貫く。当然ながら、大人二人掛かりでも弦を引くことなど不可能な化け物弓であった。

 だが塁はこれと瓜二つの試弓を用いて、一睡もせず、丸一日かけて不動の構えをとり続ける荒行を己に課している。

 それも季節ごとに一度づつ。

 その“行”が成し得なくなった時こそ、弓士としての退き時と胸に秘めながら。

 そんな彼にしか扱えぬ、見た目にも重量感を感じさせる鋼の弓を軽々と扱う姿に、手下が恐る恐る声を掛ける。


「頭……?」

「俺も出る」


 塁にとっては何気ない一言でも、手下にとっては有無を言わさぬ迫力に、思わず身を避ける。その脇をすり抜けて、塁が小屋の外へ出た。


「どっちだ?」

「へ?」


 一瞬戸惑った手下が、すぐに我に返って力強く指を差す。


「こ、この奥にちっせぇ丘がありやして。その向こう側へ廻ったところに」


 手下が指差す方は、いかほどの距離も見通せず樹林の壁に阻まれる。その上、月明かりは枝葉の合間から零れてくる程度で、視界があまりにも悪すぎた。

 なのに塁は案内までは求めず、手下から得られたわずかな情報を頼りに走り出した。


「ちょ、待って――」


 慌てて追いかける手下も、なかなかのものだ。

 顔に当たる枝葉を時に避け、腕で払い、息も切らせず二人は、深夜の林中を駆け抜ける。

 それは、彼らが一族ごと『犬豪』の傘下に降る前、人が踏み入らぬ『白山』の山中で、猟を中心に暮らしていたからこその特技でもある。

 この特技を現犬豪当主に買われ、“犬”の一字を与えられると共に、武家として迎え入れられたのだ。

 あれから四年。

 気づけば、犬豪が誇る八人の武将『四爪しそう四牙しが』のひとりとして塁が位置づけられたのは、つい昨日のことのように思われる。

 ならばこそ、“諏訪の伐り倒し”と呼ばれた此度の戦に参戦するのは必定であり、本任務で諏訪の急所を突くのは塁達『犬童隊』しかいなかった。


(だが、奴らの仕掛け・・・にしてはおかしい……)


 言い得ぬ不審感が塁の胸中に沸くものの、だからどうすればよいとも考えがつかない。

 当たってみるしかあるまい、そう腹を決めたところでくだんの丘に辿り着いた。


「頭……」

「黙ってろ――」


 前に出ようとする手下を制して、塁は目を閉じ耳に意識を集中させた。すぐに。




「――!!」




 誰かの叫び声を捉え、塁の目をわずかに細めさせた。すぐに耳を疑いたくなる絶叫が丘の向こうから響いてくる。

 聞き違い?

 いや違う。

 狩猟者ならではの研ぎ澄まされた聴覚にも、判別不能なギチギチと耳障りな音が。


「――なんだ、今のは」

「へ?」


 あの猛将ではない。

 そう確信するも、塁の胸中に安堵は湧き上がらない。むしろ、背筋を寒くする何かに駆り立てられるように、塁は丘の麓を廻らず、丘をやや登り気味に足を踏み出した。その思わぬ行動に、反応遅れた手下が、一瞬で置いて行かれる。


「ちょっ、待って下さいっ。頭!!」

「お前は丘を回り込め」


 出遅れた手下を構っている暇はない。

 丘は枝葉が密集して月明かりが洩れず、ほぼ闇の中を塁は手探りでありながら、早足と言える速さで移動する。

 登るほどに争う声が明瞭になってゆく。


「ぐぎぃっ」

「ごお?!」

「無闇に突っ込むな、囲め――!!」


 次々と上がる断末魔と思しき苦鳴に切迫した声が重なる。

 手下が戦っているのは違いないが、先ほどから耳に届く音が、人間以外の相手を想像させる。


(まさか“人食い熊”でも放ったか――)


 それは以前、塁自身が諏訪軍に仕掛けた奇策でもある。

 容易に真似などできるはずもないが、あの時の意趣返しをやってのけたと考えれば、なくはない。


「――舐めた真似してくれる」


 塁は内心の焦りを押し殺して前へ進む。

 起伏に息を切らすことも下草に足を取られることもなく、塁は音を頼りに着実に近づいてゆく。


「刃が通らねえ――」

「止まるな、動き続けろ!」

「ギチギチキチ!!」


 感じる争いの気配は激しさを増し、手下の叫びに身の毛もよだつ金切り声が混じり合うのを耳にして、塁の相貌に厳しさが増す。

 今のが熊か?

 奴らは一体、何を招き寄せた――。

 何故か、ふと塁の脳裏に過ぎるのは、共に参戦した同輩の武将が耳にしたという風聞だ。


 曰く、易占を得手とする犬豪家子飼いの軍師殿が「類い希なる凶兆につき、日を改めるべし」と侵攻の延期を具申したとかしないとか。


 こうして塁達が諏訪の地に踏み込んでいる以上、その具申は棄却されたのは間違いないが、今になってその噂話が妙に気になって仕方がない。

 凶兆とはどういう意味であったのか?

 軍師殿のまなこには、はっきりと血生臭い未来さきが視えたのではなかったか?


 だが、事ここに至っては――。


 気付けば眼下に争う影達の姿を塁は捉えていた。

 どうやら靄は晴れたらしい。 

 ざ、と枯れ草を踏みならし、塁は丘の中腹で足を止める。

 周囲に人気がないのは当然だ。遠距離主体の弓士として、のこのこ・・・・争いの場に顔を出すはずもない。

 塁の場合、猟師としての本能が敵の牙が届く危地を避け、それでいて、己の牙が確実に撃ち込める場へとこの身を誘ってくれる。

 塁は片膝立ちで身を潜め、争乱の舞台を静かに見分する。


(あれか――)


 数体の大きな影とそれを取り囲むように位置取る小さな人影の群れ。

 森の中でも機敏な動きを見せる人影の群れは、疑うことなく自身の手下達だが、問題はそれに劣らぬ敏捷さを見せる大きな影達の方だ。


 あれが熊か……?


 大岩を三つ四つ組み上げた胴より、細長い幾つもの棒状の何かが伸びている。どこかで見覚えのある姿影に眉をひそめてしばし。


「――まさか」


 思わず口に出したのは、馬鹿げた妄想が浮かんだため。

 だが似ている。

 地べたに長い行列をつくり、時に自らの倍以上もあるエサを懸命に運ぶ、子供の時分によく見たあの光景――あの虫に。



 ギチギチギチ……



 威嚇するように、頭部と思しき部分から生えた牙を擦り合わせて。

 手下より頭ふたつ高いそれ――巨大な蟻が・・・・・、素早く抱きつくなり地べたに押し倒す。


「くそっ、この――が?!」


 骨を断つ鈍い音がして、手下の首が転がった。

 だが戦い慣れした者達が、やられっぱなしでいるはずもない。


「今だっ」

「野郎!!」

「喰らいやがれっ」


 遺骸に抱きつく黒光りするその背に、隙ありと手下達が武器を振るうもしかし、硬く跳ね返され、逆に手首を押さえて呻く始末。さらに。


「……おがぁああああ?!」


 何をされたのか、今ひとりが突然顔を押さえて仰け反った。そのまま受け身も取らずに倒れ込み、身も世もない苦鳴をあげて、のたうち回る。


「何か飛ばしたぞ?!」

「分かんねえが、絶対当たるなっ」

「ち、ちくしょう。これじゃ近づけねえ」

「ギチギチギ……」


 手下が怯んで及び腰になろうとも、巨大蟻の方は容赦なく襲い掛かってくる。その動きは巨体に似ず素早い。平地ならばともかく、林内で走り勝てるとは思えなかった。


「どうせ逃げれねえ。殺るしかねえぞ?!」

「この、くそったれ――」

「おらあああっっ」


 悲愴感漂う決意も虚しく、手下達は巨大蟻による暴威に抗うこともできず、ただ蹂躙されるのみ。

 ひとり、またひとり。

 その誰もが、飛び道具もなしに猪一頭仕留められる腕自慢であり、さらに戦場で兵として叩き上げた強者だ。

 それが、あまりに一方的に倒されてゆく展開に塁の唇が怒りで引き攣れた。


「やってくれるじゃねえか――」


 云うなり、形など崩れることはないと思われた鋼の弓を、まるで通常のそれと等しく鮮やかにしならせていた。

 ぴりりと張った強靱な弦が、太い塁の指により高強度の緊張を保つ。 

 大の大人三人掛かりでやっと絞れる弦力を、純粋なる力で容易くねじ伏せながら、塁が操る弓にはわずかな震えも見られない。

 そして息ひとつ乱さぬ肉体が、狙撃に影響を及ぼす拍動を極限まで抑え込めれば、“必中”は彼の掌の中にあるも同然であった。


 それでも、絞りはあくまで三割程度――。


 通常の矢では、全力で放つと耐えられずにまともに飛ばすこともできないからだ。

 だが、それでも十分。



 きぁ――――っ!!!!



 空気にかぎ爪を掻き立てるかのような、金切る矢鳴りが走りぬけ、次の瞬間には、手下の攻撃を撥ね除けた蟻の背に矢身の三割までを突き立たせていた。



 ギチギチギチギチ――――ッ



 それでもまだ浅かったか。

 蟻の苦鳴とも憤怒ともつかぬ金切り音が鳴り響き、だが動きを止めたのを見るや、塁が命じる。


「今だっ。狙うなら四肢の関節、あるいは内側の胸や腹を狙え!!」

かしらぁ?!」

「馬鹿野郎っ。言われたようにやりやがれっ」 


 思わぬ援護に驚く手下達を叱り飛ばし、塁は動き始めた蟻の反応を見逃さず、続けて二度、三度と矢を放っていく。


 どっ

 がっ

 ごっ


 恐るべき勢いで矢が突き立てられてゆき、三撃目が頭部に突き立ったところで巨大蟻がびくりと動きを止め、ゆっくりと前のめりに倒れた。


「ぅおお?!」

「さすが、頭――」


 感嘆する手下を無視して「次――」と塁の愛弓が別の獲物を狙い定める。

 間髪置かずに頭部へ一撃。


「――またっ・・・


 手下の歓声に「否」と塁は胸中で否定した。

 巨大蟻は頭部に矢を受けながら、ぬか喜びした手下を前肢で突き飛ばし、下顎の挟みをがちがち鳴らす。


「ちいっ」


 手下の喉元に達する寸前で、塁の第二矢が巨大蟻の頭部を貫いた。そこでようやく絶命する。


「油断するなっ」


 塁が今一度、念を押す。

 化け物相手に一撃で決まるかと。


「俺の弓を足止めくらいに考え、自分で仕留めるつもりでやれっ」

「「「へいっ」」」

「次――」


 そこから手下達の気合いが俄然盛り上がった。

 塁が猛撃を浴びせ、絶命するなら良し、しなければ衝撃で動きを鈍らせる巨大蟻へ、今度こそ、手下達が襲い掛かっていく。

 前肢を、後ろ肢を切り飛ばし、柔らかい腹をめがけて身体ごと跳び込んでゆく。それでも、もがく巨大蟻を数名がかりで押し倒し、最後は頭部を力任せに断ち切った。


「おおしっ、やれるぞ!!」

「びびらせやがって、虫けらがっ」


 自ら留めを差した自信が、手下達に歓喜をもたらし、さらに士気を高める。そうなれば、形勢は一気に変わってゆく。


 頭部。

 背部。

 脇腹。


 重い音を響かせ、次々と巨大蟻に突き立つ矢。

 夜闇に躍動する人影。

 暴れる巨虫の姿は、もはや最後の足掻きにしか見えない。

 その戦況を生み出す射撃の手並みは、ある種異様な光景でさえあった。

 はじめから終わりまでの所作が流れるように、それでいて寸分違わぬ軌道を描いて繰り返される射撃術。

 一族の者でさえ驚嘆なしには目にできぬ、恐るべき精度で以て、塁は事を成し遂げる。

 一体。

 二体。

 着実に巨大蟻を葬り、または追い込んでゆく――たった一人の弓士による圧巻の制圧劇。その戦いは終わってみれば、実に呆気ないものであった。


「しかし、何なのだ、あれ・・は……?」


 仕事を終えた後も、塁の険しい相貌に安堵の気配が訪れることはない。

 少なくない犠牲を強いられたこともさることながら――巨大な蟻の姿影に畏怖すら抱く。


「まさか諏訪者め……。『大白山』の奥地に棲みつく物の怪でも、飼い慣らしてやがるのか?」


 あるいは尋常ならざる何かが起きている――それを何より痛感させられたのは、帰途についた塁が、荒され半壊したねぐらを目にし、情婦が消えたことを知ったときである。

 残された血だまりの量から判ずれば、女の生存は望めない。ならば。


「……何のために骸を持ち去った・・・・・・・?」


 塁の太い眉根を大きく歪ませたのは、先ほどの巨大蟻とは明らかに別種の足跡・・・・・を発見したためだ。


「化け物だらけか……」


 塁は思わず周囲へ首を巡らす。

 手下が初めて目にするような、神妙な面持ちで。


「まずいな」

「へ……?」

「これでは諏訪の喉頸に、刃を突きつけるどころではない。むしろ、無事に今宵を乗りきれるか……」


 ふと見上げた樹上――枝葉の隙間より見えた満月に、塁の双瞳がぎゅっと窄められる。

 そこには妖しく重なり合う・・・・・月の姿があった――。


         *****


同一時刻

異なる世界の同じ森



「下手に動くとマズくないか?」

「仕方ないだろ、あそこに留まっていたら奴ら・・に気付かれるかもしれないんだっ」


 大型戦斧グレート・アックスの重量物を盛り上がった肩の肉で悠々と受け止め担ぐ大柄な仲間――ゼオールの意見を正論と知りながらもルルンは抗弁した。

 鋭い声も低めに抑えているのは奴ら・・に居場所を知られないため。つい先ほど襲ってきた獰猛な四足獣に手傷を負わせ、その血に誘われてきた新手の『怪物モンスター』と凄惨な死闘をはじめたところを見計らい、辛うじて脱出してきたところだ。


(俺だって間違ったことは云ってない――)


 ルルンは己の判断を信じ、不安を表情に出してしまわないよう懸命に自分を鼓舞する。


「だが、このままだと……」


 大柄な身体の割には他の仲間達とはぐれた・・・・不安を口にする気弱な戦士に、ルルンは「分かってる」とだけ応じる。

 言われるまでもない。

 大陸でも有数の危険地帯であるこの森で、戦力を分断されることがどれほどヤバい状況なのかなど、班長リーダーとして皆を率いてきた自分が、誰よりもよく分かっている。

 当然、闇雲に進んでみたところで、はぐれた仲間との距離をさらに広げてしまい、下手すれば合流できなくなることも分かってはいた。


(それでも、こうするしかないんだ――)


 今は『探索者』として身に付けた生存術サバイバルの基本に則り、目先の安全確保を優先する。それだけをルルンは強く心がける。

 脳裏にかすかな後悔の記憶を蘇らせながら。


 斥候であろう公国軍の騎影をはじめに気付いたのは、見張りに立っていた陰者系『斥候職スカウト』のトッドであった。

 普通に考えれば、公国軍が乱りに国内をうろつく理由もない。ましてや北端の辺境であるコダール地方になど、いかなる理由で訪れるというのか。

 だからこそ・・・・・、雇い主の意見を伺うまでもなく、ルルンは身を潜めることを即断し、実際それは速やかに受け入れられた。

 ただし問題がひとつ。

 翌日の朝一で森に入ろうとしていたため、近くで身を隠す場所はこの森・・・しかなく、やむなく危険を承知で夜の森に踏み込んだのだが、結果的にそれが災いの始まりとなったのを、どう悔やめというのか。

 野営の焚き火が放つ明かりを斥候に見られた可能性もあり、実際、森を怖れず近づいてくる騎影にルルンはさらに森の奥へと皆を導いたが、その判断も間違っていたとは思えない。

 だが、それからいかほどもなく、あの靄・・・に巻き込まれてしまうことになったのだ。

 つい今し方まで、隣にいたはずの仲間が視界から外れた途端、声と共に気配まで忽然と消えて。

 慌てて走り出せば、他の仲間の気配も消え。

 初歩的なミスを悔やみつつ、辛うじて自分にぴたりとついてきたゼオールと互いに寄り合い、靄が晴れる頃には、すっかり皆とはぐれていた。


「ゼオール。あの靄・・・は何だったと思う?」


 苦い記憶を遡るルルンがふいに問いかけても、大柄な戦士は即座に「そうだな……」と真面目に考えてくれる。


「噂程度なら似た話があった」

「噂?」

「ああ。鼻が利く獣さえ惑わす“眩惑の靄”とかの話しさ」


 まるで閉じ込められたように同じ場所を何度も廻るハメになる話しとか、気付けば見知らぬ場所へ辿り着いていた話しとか、靄と共に移動する“決して抗ってはいけないモノ”の不気味な話しまで、およそ考えつく幻想を盛り込んだ数々の逸話にルルンは多少なりと辟易してしまう。

 実話が紛れていたにしても、話しに尾ひれや何やらが付いているのは間違いあるまい。だが、そうなる事情も分からぬでもない。

 なぜなら、森に入った者の生還率は非常に低く、『深淵の探求協会シーカーズ・ギルド』でも碌な情報を掴んでいないからだとゼオールは語って聞かせる。

 それはルルンなりに集めていた情報とも整合しており、特に異を唱えることもなく素直に聞き入れた。


「けど、そんな“遺跡”並のトラップが、この浅い領域で出るってことになるな……」

「先ほどの『怪物モンスター』だってレベル4の『庭園ガーデン』級だった。馬鹿馬鹿しいが、この森に関する噂を、もう疑ったりしない」


 野外における脅威度としては常識外のオンパレード。本来、森で『怪物』と遭遇することは稀であり、精々が『危険生物』と分類される生き物に注意をすればいいだけなのだ。

 当然、高レベルのルルン達であれば問題なく踏破できる。それが“遺跡”の探索を彷彿とさせる環境にたった二人きりで放り出されるとは。

 ゼオールが真顔で云っているだろうことは、振り返って確認するまでもなくルルンには分かる。信じがたい話しだが、自分もまた、同じ気持ちであったからだ。

 つまりそれこそが、この森を“魔境”と恐れ慄く所以ゆえんであろうと。

 そんな気落ちした場の空気を嫌ったか、ゼオールが強引に話題を変えてくる。


嬢ちゃん・・・・達は大丈夫だろうか……」

「あの人が一緒なら、問題ない――ていうか、お前不敬だぞ?」


 ゼオールの馴れ馴れしい言い草に、困ったもんだと顔をしかめるルルンを「わはは」と笑い飛ばしながら、大柄な戦士は気にも留めない。


「あの娘はそんなこと気にもしないさ。……まあ、雇い主様に対する敬意は俺だって持ってるぜ?」

「いや、そういうレベルの話しじゃ――」


 ルルンがどの当たりが問題かをこの際、たっぷり言って聞かせようとしたところで、周囲の樹林を揺さぶるような咆哮が響き渡り、二人の身体が硬直する。


 ――っ


 続いて耳に捉えた音は、短くも、確かな少女の悲鳴。

 二人が同時に顔を見合わせ、一言も発することなく即座に行動に移っていた。

 当然のように軽装なルルンが先頭を切り、続けて大股なゼオールができるだけ身を低くしながら班長の背を追いかける。

 ルルンは時折、支障となり得る蔓草や小枝を長剣ロング・ソードで切り払い、仲間が追いやすい状況を作りながら連携して行動する。

 自慢ではないが、公都でも名高い『銀の五翼』という『探索班パーティ』の一員だ。並の『探索者』では真似できない速さで森を駆け抜け、悲鳴の上がったであろう地点へ的確に距離を詰めていく。


「――――マジかよっ」


 偶然か必然か、忽然と森の中に広場が生まれ、そこにはぐれた仲間達がいたことさえ目に入らず、ルルンはただ、呟き絶句する。


「あれは――『深緑の巨人フォレスト・ジャイアント』? なんでこんなところに」


 背後で震え喘ぐゼオールの疑念にルルンは「知るかっ」と内心吐き捨てる。

 一体誰が答えられるというのか。

深淵を這いずるモノディープ・クロウラー』においても、巨人族は別格の存在だ。例え種族下位に位置する“深緑系”であろうと、その力は十分に強力――確か『協会ギルド』における怪物版格付けでは10段階のうちレベル7の『中層ミドル』級。

 当然、並の装備では軍隊規模でも抑え込むことすらできない戦力――名のある“遺跡”の奥深くでもない限り、決して出遭うことのない存在なのだ。それがまさか――


「これが“魔境”だと……?」


 ようようと洩らすルルンの言葉は冷え切っていた。それほどに顔から血の気が引き、熱を失っていたのだ。

 本来、『探索班パーティ』レベルが9段階のうちレベル7と上級ハイクラスに位置する自分達であれば、『中層』クラスの『怪物』といえども討伐することは可能な話しだ。しかし今は仲間と離れて、強力な後方支援が期待できる精霊術士もこの場にいない。

 まさに片翼をもがれた鳥が空へ舞い上がることができぬように、高レベルパーティとしての力が発揮でないのだ。

 だが、彼らに呆然と立ち尽くしている時間など与えられるはずもない。

 岩と粘土で象られた巨像に植物が自生し絡みついたような巨人が、大きな腕を振り上げ、地上にいる数個の人影へ向けて叩きつけていたからだ。

 そこでようやく、ルルンは保護すべき依頼者の姿に気付いたが、今の位置からは為す術もない。

 ズシリ、と離れた位置にいるルルンの足下まで地響きが伝わってきて、思わず唇を噛みしめる。


「何やってる?! さっさと逃げろっ」


 大岩のごとき拳が振り落ちる前、立ちすくむ依頼者――小柄な少女に誰かが体当たりして、間一髪難を逃れたのをルルンはしっかと目にしていた。

 だからこそ、巨人が別の腕を振り上げたのに気付いて腹の底から叫んだのだ。

 二撃目が来る。

 だが、一度地べたに這いつくばった二人が起き上がるには多少の時間がかかる。


「くっ――」


 間に合わぬくとも、駆け出そうとするルルン。

 あの娘は、自分にとってただの依頼者ではない・・・・・・・・・・


(何としてもっ――)


 そこへいつの間に走り抜けていたのか。

 気付けばゼオールの背がルルンより何歩も先に見えており、しかも、あれだけの重量物を担ぎながら1メートル近くも跳び上がっていた。

 だが、巨人までの距離はまだ10メートル先――一見して場違いな悪ふざけとしか思えぬ行為には、確かな意味があった。



 覚醒斧技スキル『地雷震』――



 数多くの修羅場を潜り抜けてきた『探索者』達だからこそ、その技倆も精神も磨き抜かれ、ついには神々が使役する“真の術理”をなぞることが許される。

 それこそが“戦技スキル”と呼ばれる技の総称であり、正しく術理に添った軌跡をなぞらえれば、その武器には必殺の威力が与えられ、さらには神憑りな事象まで発現する。

 『探索者』としては一流も一流のゼオールが行使したのは、斧系統の戦技スキルであり、しかも極限まで極めた者にしか身に付けられぬ、掛け値無しの最上級戦技スキル――『覚醒』位階の一撃であった。



 ――――――!!!!



 誰もいぬ地面に、凄まじい威力の斧撃が叩きつけられたとき、誰もが予想する打撃音どころか、わずかな音も響くことはなかった。

 不発か?

 いや、それだとしても重量物を叩きつけた結果として無音という事象はおかしすぎる。枯れ枝や草が捩れ、小石か砂利がほじられる物音さえ聞こえないなど決してあり得ない。

 だが、まるで世界から物音が削り取られたような一瞬の後、斧が叩きつけられた地点を中心として、雷鳴に似て非なる地鳴りが波紋のごとく扇状に一気に広がった。




 ズッ……ァアアアァアァアァアン!!!!




 仲間であろう人影達をも呑み込んで、襲い掛かる猛烈な地揺れにさすがの巨人もバランスを崩され、攻撃もできずに片膝付く。

 その中にあって、ただひとり、不動の姿勢を保つ者がスラリと剣を抜き放った。

 まるでその足下だけスキルの影響がなかったのかと目を剥かせる超絶的なバランス感覚――戦闘職でも剣の技倆に特化した『剣士職』であり、その実力を目の当たりにするのはルルン達にとっても今が初となる壮年剣士。


「エンセイ殿――」


 呟くルルンの視線の先で、剣士が軽く腰を屈めた時には、宙に描かれた金色の軌跡が、地面に手を突く巨人の腕を断ち斬っていた。


「おおっ」


 ルルンが思わず感嘆の声を発する。

 同じ戦士系の軽戦士フェンサーでさえ体現できぬ剣の冴え。

 支えを失った巨人が前のめりに倒れ込む。

 今が千載一遇の好機。


「――さすがだ、ゼオール!!」


 ルルンが勝機と直感して、夢中で駆け出す。その覇気に、一度は倒れた者達も同調し、慌てて起き上がろうと奮闘する。


「どけぇっ」


 吼えるルルンが、仲間を蹴り飛ばす勢いで脇を駆け抜けて。

 身に付けた『力の指輪パワー・リング』の力を解放し、持ち得る『魔導具』マジック・アイテムと『魔術工芸品アーティファクト』をすべて駆使して己の攻撃力を最大限に上昇させた。

 そうしなければ、巨人族の種族的特徴である物理耐性の高さで、生半な攻撃など軽くシャットアウトされてしまう。だからこそ、手加減抜きの一撃を食らわしてやる必要があるのだ。



「うぉあああああああ!!」



 渾身の一撃を放つルルンは、だが、本当の戦いがこれから始まるのだとは気付いていなかった。

 巨人にばかり気を取られ、この広場にもうひとつの敵がいることを知るのはこのすぐ後になる。むしろ、自分達こそがこの場では新手であり・・・・・、第三の勢力であったなど、思いもよらず。

 そして激戦の末、自らの目指した道が断たれることになるなど、この時のルルンに予想できるはずもなかった――。

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