恋というもの *
──少しだけ、時間を遡る。
エルフィが二人の友人と、賑やかな聖竜たちと共に暮らすようになって。
「一年」がすぎた頃の話だ。
まだ暗い過去の記憶が強く残っていたが、エルフィは見違えるほど明るくなっていた。
積極的に家事を手伝い、自分の意見もよく言うようになってきたエルフィ。
彼女はニールに懐き、慕い、後を追いかけてはどうにかして関わろうと必死だった。
だって生きて来て初めて、こんなにも心が弾む相手に出会ったのだ。
エルフィはニールと話してみたいし、触れてみたい、離れ離れになると悲しいし、ニールが邪竜との戦いに向かった後は、怪我をしていないかいつも心配になる。
言葉に一喜一憂して、褒められると嬉しくて、横にいてもいいかと問いかけたとき、黙って頷いてくれるところが好きだ。
そう、好きなのだ。
エルフィは、ニールのことが好きだ。
「貴方の横にいられるだけで幸せです。
わたしはニールさんのことが大好きです」
気持ちを真っ直ぐにぶつけてみるのは勇気が要るって初めて分かった。
恥ずかしくて、ちょっとだけ怖く思いながら告げたエルフィの言葉に、ニールは暫く黙っていた。
そして、ニールがエルフィに告げた言葉が、事の発端になる。
「君は愛を知らない。
そこに至るための恋も知らない」
ニールが言った言葉の真意が、その頃のエルフィにはまだ、分からず。
ただ呆然としてしまって、彼女はニールの前から逃げ出した。
***
「恋とはなんなのでしょうか」
人間の女同士ということもあり、事あるごとにエルフィはシャーナに相談していた。
どちらかの部屋でお喋りすることも多い二人は、色んな情報を共有している。
そこにはエルフィがニールを好いていることも当然、含まれていた。
シャーナはエルフィの言葉にきょとんとしてから問い返す。
「なぁに、詩かなにか?」
「違います、本当に分からないの。
分からなくなって、しまったのです」
エルフィは服の袖を握り、シャーナに一生懸命に訴える。
最近やっと笑うようになった顔が沈んでいる、何とかしてあげたくてシャーナは真面目な顔で話の続きを待った。
「シャーナさんは、ヴァンさんと恋仲なんですよね?」
「えっ?……うん、そうよ」
エルフィから言われた言葉に、シャーナは少し動揺する。
普通の人間は竜と恋仲になんかなる訳ないのに、当たり前みたいにこの娘は言った。
それが少し嬉しかったりもするから、シャーナはエルフィに優しくしてあげたい。
「エルフィはあんまり気にしないのね。
人とか竜とか、そういうの」
「だって、好きになってしまったのだもの、仕方ないじゃないですか」
理屈じゃない、本能だ。
頭ではなく胸の奥の方がそう言うんだからそうなのだ、とエルフィは言う。
シャーナはますます不思議になって彼女に問いかけた。
「そこまで言葉に出来るなら、エルフィは恋を分かっていると思うけど?」
エルフィは俯いたまま、首を横に振る。
いつもなら喜んで飛びつくお菓子が、テーブルの上で寂しそうに並んでいた。
シャーナはエルフィが話し出せるように促してやる。
「どうして、分からないなんて思ったの?」
「……ニールさんが」
エルフィの口から聞き慣れた名前が飛び出した。
毎日、彼女が呼ばない日は無い名前だ。
少し前に風邪で熱を出して寝込んだ時にすら、夢うつつに呼んでいた名前である。
シャーナは長い付き合いになる銀翼を思い出しながら、エルフィにうんと頷いた。
「ニールさんが――君は愛を知らないって、恋も知らないって言うので」
だから分からなくなったんです、と。
まるでこの世の終わりのように落ち込みながらエルフィが話す経緯を、シャーナは聞いた。
はあ、と、シャーナは結構深めなため息を吐いた。
目の前には少し落ちついてきたのか、紅茶に口をつけ始めたエルフィがいる。
もう冷めてしまっただろうから淹れなおそうかと言えば、彼女は首を横に振ってこのままで良いと言った。
──信頼はしてくれていても、遠慮はまだまだされている。
シャーナは前置きとして、まずと声に出した。
「代わりに謝るわ、本当にごめんなさい」
「……なんでシャーナさんが?」
エルフィは謝罪の言葉を受け止めきれない様子で、目を丸くしながら首を傾げている。
シャーナはやれやれと額に手を当てながら言った。
「いや、なんか。友人として謝らずにいられないと言うか。
……ぜーんぶニールが悪いから、エルフィは気にしなくていいわよ」
「そうなんですか?
わたし、外のこと知らないから間違っちゃったのかなって思って……」
シャーナは不安げなエルフィの言葉に全力で間違ってないと答えた。
その気持ちは恋だ、ちゃんと形のある気持ちだ、しかしシャーナにはニールが考えている事も何となく分かる。
「これはニールに直接聞いた訳じゃ無いから、話半分で聞いてほしいんだけどね。
あいつ、エルフィが懐いてくれるのは自分が命を助けたからだと思っているのよ」
「それは、確かにそうですけど。
……あくまできっかけですよ」
シャーナはエルフィの返答にうんうんと頷く、エルフィが彼を好きになっていく過程を一番近くで見てきたのはシャーナである。
最初は親鳥を追いかける雛のようだったのに、感情を取り戻し生活に慣れていく中で、エルフィは想い人の帰りを待つ女の子に変わっていった。
「むしろ分かっていないのはニールの方ね。
未だにエルフィが塞ぎ込んでるだけの女の子だと思っているんだわ」
「それは心外です」
シャーナの考察に、エルフィが珍しく拗ねた顔で呟いた。
そうねぇとシャーナは苦笑いをしながらも頷く、可愛らしい友人達はどうやら本当に些細な事で躓いたらしい。
エルフィは落ち込んでいるだけの女の子ではない。
その証拠に、彼女は紅茶を飲み干して、よしと言った。
「ちゃんと、わたしが恋をしていると分かってもらう為にはどうしたらいいでしょう」
「……そうね、ちょっと私からニールに話をしてみてもいい?」
気合十分、そんな顔付きのエルフィにシャーナが言うと、彼女は素直に頷いた。
少し遅れて、まだぎこちないながらも笑顔を浮かべてシャーナに言う。
「ありがとうございます、シャーナさん」
「いつでも助けるわよ、だって私はエルフィのこと、妹みたいに思ってるんだから」
片目を瞑って任せなさいと軽く胸を叩けば、エルフィはほっとしたように息を吐く。
取り残されていたお菓子は無事に、彼女のお腹へと収まった。
***
シャーナがしたことは至って単純だ。
エルフィに走り去られて茫然自失としていたニールに、ありのまま全て話しただけ。
エルフィが話した全てをだ。
ニールは自分がしていた思い違いを自覚して、家から離れた森で落ち込んでいた。
小川で跳ねる魚を見ながら、ひたすら自己嫌悪、猛省に次ぐ猛省。
数万年ぶりに体感するそれらに混乱して、彼の内心は荒れ狂っていた。
(うわあぁあ……)
木を頭を押し付ける、がつんと音がして小動物が逃げていく。
竜の体で喋るのは少し難しい、だからニールは、いつも口数が少ない。
けれど実を言えば、ニールは思ったことをそのまま口に出してしまう性格でもあった。
素はお喋りな方なのだ、それを知っているのは本当に一部の身内だけだが。
竜の体では言葉が足りない、いつも。
威厳があるように見せかけて、中身はただの青年なのがニールという聖竜だ。
(何をしているのだろう、俺は)
出会ってから一年、されど一年。
季節の巡りを同じ屋根の下で過ごした。
死んだような顔をしていた子が笑えるようになり、共に暮らす者達を信頼し始めた。
毎日食事を美味そうに食べて、明日を楽しみに眠る。
あの炎の夜に拾って来た死にかけの少女が、平穏に生き始める様を見て来た。
最初は観察するだけでよかったのだ、見ているだけで多くの発見があったから。
だけれど彼女は、ニールの後をついてきて、関わってくれた。
言葉数の少ない竜の声を、辛抱強く待ち続けてくれた。
らしくなく執着して、傍で生きて欲しいと願う様になってしまった己は罪深い。
人間の真似事だと思われるかもしれないが、人の営みを見守って来たニールには、自分が彼女に対して抱いている感情の名前が分かってしまう。
出会った頃とは違う、エルフィへの想い。
──恋っていうのはね、自分で決めるものよ、自分で気持ちにそう名付けるの。
かつてニールにそうやって、恋を教えてくれた人間は、もう生きてはいないが。
感謝せねばならないだろう、この教えが無ければ分からなかったことだから。
人間に興味を抱き理解する事に努め続けた魂の数万年間は、この心を理解する為にあったのだとニールは思う。
竜も竜士も傍らに置いた事のない変わり者、孤独を嫌いながら独りで生きる。
強さだけしか持っていない、哀れな獣だと言われたこともある。
けれどいつだってニールが恐れているのは、離別だ。
失くなってしまうのなら、最初から持たなければ誰も傷付かないのだと、人を慈しみながら遠ざけ生きてきた先で。
見捨てられずに拾った女の子に、心の深くまで入り込まれて、それを許してしまう自分がいた。
傷つけないようにと目を逸らしていた隙に彼女は大人になって、気付かないうちに。
ニールの目を見て、あんな風に強く自分の気持ちを伝えられるようになっていた。
(愛も恋も知らないのは、俺の方だろう。
知ったふりして怖がって、遠ざけてきたものなのだから)
ニールがエルフィにああ言ったのは、自分に対して言い聞かせる為でもあったのだ。
この子は自分を頼らざるを得ないから懐いてくれているだけで、その信頼に愛や恋など見出してはいけないと、自分に言い聞かせなければ今にも勘違いしそうだったからだ。
この子は心底から、俺を欲してくれているのではないか、と。
俺がこの子を欲するのと同じように。
擦り寄る愛しい子を前にして、ニールは己の獣性を抑えるのに必死だった。
人間に対して理解があっても、竜は竜。
獣である自分が欲に塗れて彼女を壊すかもしれないのが怖いから、触れるなんて出来るわけがなかった。
嫌われたくない、恐れられたくない。
お願いだから、こわがらないでと。
ニールはずっと思ってきた。
それがまさか、勘違いしても良かっただなんて。
シャーナによる、「エルフィって普通に恋愛対象としてあんたの事好きらしいわよ」
という言葉が無ければ分からなかった。
(うわぁああ)
ニールが頭を揺らせば木も揺れる。
竜の恋煩いを見て鳥達が勘弁してくれと飛び立つ。
普段ならあり得ないが外界の事よりも思考の方に意識が集中してしまって、彼は近付いてくる小さな足音を聞き逃した。
「きゃっ!」
慣れない森を歩く中で転び、悲鳴が上がったことで、ニールはようやく背後の存在に気付いた。
「ニールさん、やっと見つけた……」
服に付いた土を払いながら彼女は──エルフィは起き上がる。
その姿を見て、ニールは声を発した。
「一人で来てはいけない」
「……ニールさんが帰ってこないから」
ニールの意識的に出した冷静な声音に、エルフィは泣きそうな顔で返してくる。
ニールは大きな顎をグググと閉じた。
今まで何回も、エルフィに同じことを言われてきたのを思い出す。
邪竜との戦いから戻った時。帰りが遅くなった時、いつも彼女は庭に出て、空を見上げて待ち続けてくれていた。
シャーナに彼女の気持ちを聞かされてから聞くと、言葉の中にこもった愛情がどれだけのものか嫌でも分かる。
何度となく同じ言葉を掛けられてきたのに、ニールはそれに初めて気付いたのだ。
恐れて目を逸らし続けて、だというのに彼女は大切にその気持ちを育ててくれていた。
(最強が……この様とはな)
自身に対する嫌悪を通り越して呆れ始めた彼の内心なぞ知らず、エルフィはニールに近寄ってくる。
なんて純粋な瞳で見上げてくるのだろう、こんな生き物は他に見た事がない。
「ニールさん、わたしのこと嫌いですか?」
「そんなことあるわけがっ……無い」
彼女がニールを見上げて、不安そうに言った言葉に、ニールは反射で返した。
勢いで声を出したから突っかかる、声に出して伝えたいことが山ほどあるのに、今が一番、竜の体が鬱陶しい。
もっと上手く話したい、もっと近い目線に立ちたい。
見守り続けてきた人々と同じように、憧れ続けているものと同じように、自分も──。
「じゃあわたしのこと、好きですか?」
エルフィが、ニールの白銀の鱗に手を触れさせた。
血に塗れることは当たり前で、剣だろうが魔法だろうが弾き飛ばす鱗は、どうしても彼女の掌を感じられない。
彼女のことを想うなら、否定しなければならない好意だと理性は言う。
受け入れてはならない感情を前に、ニールは己が押し負けるのを感じた。
藍色の瞳がニールを見ている、その色が欲しくて欲しくて堪らない。
ニールは喉が唸るのを自覚しながら、エルフィに告げた。
「いや、それは違う」
目を見開いて呆然とする彼女に対して、重ねてニールは言う。
「好きや嫌いの言葉では、軽すぎる」
「それって……」
藍色の瞳を見開いて、エルフィはニールを見上げたまま立ち尽くして待つ、辛抱強く。
ニールは黒い瞳を逸らさず彼女に言った。
「愛している、きみを」
恋というのは落ちるものらしい。
正解は気持ちの数だけあり、己がそう名付けるからこそ意味が伴う。
ならば、心を壊しそうなほど大きなこの想いを、ニールは何と呼ぶのか。
好きだ、と言って表せるほど可愛げのあるものではない、熱された鉄のようでこのままでは、とてもじゃないが彼女に渡せない。
火傷しそうな感情にすら、人は自分で名前をつける。
なんて複雑で、素晴らしい生き物なのだろう。
間違えていると分かっているのに、彼女が欲しいと制御出来ない己の感情。
それを愛と呼ぼうと、ニールは決めた。
エルフィは言葉の意味を飲み込むのに、時間が掛かったようで、瞬きを繰り返す。
その後、心の底から安心した様に笑った。
「ほんとうですか?」
「嘘をつく必要が無い」
「わたしの気持ちは……」
「今はその顔だけでいい」
嬉しさと安堵によって潤んだ瞳を黒い瞳が愛しげに見つめた。
ニールは顔を伏せてエルフィに謝る。
「すまなかった」
ニールの謝罪を受けてエルフィは首を横に振って、泣きそうになりながら笑う。
大切な宝物を守るように、包みこんでくれる翼の中ではニールのことしか感じない。
ニールは思案げに唸った、発声が得意でない彼が言葉を選ぶのをエルフィは待つ。
「今の命が尽きるまでは、共に在ろう」
「守り愛すると誓おう」
エルフィはニールの言葉を聞き逃すまいと真剣な顔で彼を見上げ続ける。
ニールは細切れにして、誓いの言葉を降らせ続けた。
「今の、命?」
首を傾げたエルフィに、ニールは答える。
「聖竜は転生を繰り返す。
この命もいつかは終わって転生する」
「俺はこの命を受けて二千年も経たない」
「竜は五千年を生きるもの。
きみを一人きりにはしない」
言い終わって見下ろすと、エルフィの表情は曇っていた。
その理由が、ニールには分からない。
しかしそれは一瞬で、エルフィは幸せそうな笑顔を浮かべる。
「わたしは死ぬまで……貴方の隣にいれるんですね」
「ああ、他ならぬ俺がそれを望もう」
頷いて、エルフィは背伸びをする。
それに応えるようにニールは頭を下ろした、エルフィの額に顎を押し付ける。
精一杯の愛情表現だ。
「一緒にいさせてくださいね、ニールさん」
「……それが気に食わない」
「え?」
ニールの不機嫌そうな言葉に、エルフィは首を傾げた。
寄って来かけていた小動物たちが、またしても一斉に逃げ出す。
「その他人行儀な呼び方が気に食わない」
「ああ……なら」
エルフィはニールに言われたことを理解し、クスッと笑った。
──こんなに大きいのに、可愛らしいことで拗ねるのね。
「わかりました。ニール」
「それがいい」
ニールは上機嫌に喉を鳴らし、エルフィの頬に顎をすり寄せた。
***
それから二年後の、現在。
「仲睦まじいを通り越していないか、あれ」
「そうねぇ」
庭に伏せて眠るニールの体によりかかってうたた寝しているエルフィの姿を見て、呟いたルドーに対して頷き、シャーナは言った。
「エルフィが幸せなのはいいんだけど。なんかニールが許せないわ」
「分かるけどさぁ、そう言ってやるなよ、数万年生きてきた奴の初恋だぜ?」
ルドーが笑いながらシャーナの方を見ると、彼女は膨れっ面だ、妹分を独占されて寂しいのだろう。
シャーナとしては、エルフィは別に良いとして(可愛いから)、ニールに関しては一度蹴っても許される様な気がしていた。
「君たちもふたりのことあまり言えないと思うけどね、俺は」
「なあに、文句でもあるのかしら?
私とヴァンは永遠に恋人よ」
「はいはい、良かったねぇ、羨ましいな幸せになれよちくしょう」
哀れみと呆れをないまぜにした表情で見てくるシャーナから、ルドーは笑顔のまま目を逸らした。
「お日様があたたかいのー」
「のー」
視線の先では周りのことなどお構い無しに、双子の姉妹竜が微睡みながら庭を転がっている。
ルドーの癒しはここ百年と少し彼女たちだけ、不満はないけどちょっとね、うん。
ちなみにヴァンはといえば。
(大きい獲物がとれた。シャーナ喜ぶかな)
今日もシャーナに褒めてもらうため、上機嫌に空を飛んでいたのだった。
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