第288話・必要な存在

 早朝五時、高校生活最後の夏休みだというのに、その夏休みは小学生よりも早起きを強いられていた。それは急に女子バスケ部のマネージャーになったからってのもあるが、俺がこんな風に早起きをしなければいけない決定的な原因は、幼馴染の茜にあった。


「龍ちゃん! 次はバウンドパスね!」

「はいよっ!」


 早朝の体育館、俺はそこで茜の朝練を手伝っていた。いつもはここに沢山の部員が居るわけだが、今は俺と茜の二人しか居ない。

 茜がボールをドリブルする度に、ダムダムと大きな音が体育館内に響き渡る。そのリズムは時に激しくなり、練習に付き合っている俺の心までも熱くさせる。

 ボールを持った茜が腰を低く落としてゆっくりとしたドリブルをし、そこからリズムを変えて素早いドリブルを始めた。今の茜の眼前には、俺には見えない相手が居る。茜はその相手と対峙する事により、更なる高みへ向かおうとしているのだ。

 右へ左へボールを保持する手を変えながら、茜は俺には見えない相手を抜き去ろうとしている。そしてドリブルのリズムが再び変化した瞬間、茜は低いドリブルで鋭いドライブを決め、見事にレイアップシュートを決めた。


「ナイスだ茜!」

「ありがとう!」


 夏休みが始まってからも茜はこうして朝練に励んでいるわけだが、今日も気合は十分な様子だ。まあ去年は惜しいところでインターハイ出場を逃したわけだから、気合が入りまくるのも分かる。


「茜、気合いが入ってるのは分かるけど、あんまり飛ばしすぎるなよ? まだ部活の練習があるんだからな」

「分かってるって、本当に龍ちゃんは心配性だなあ」


 拾い上げたボールを持って笑顔でそう言う茜だが、茜は昔っから猪突猛進ちょとつもうしんなところがあるから、こちらとしてはそんな笑顔を見ていると不安でしょうがない。それに今はインターハイを間近に控えた大事な時期だから、あまり無茶をしてほしくはない。茜達が全国で優勝するのを、俺も楽しみにしているんだから。

 女子バスケ部の練習が始まるのは八時からで、今がちょうど六時だから、開始まではまだ二時間ほどある。だがその二時間を、まるまると茜の自主練に充てる訳にはいかない。どこかちょうど良いところで切り上げさせて、みんなとの練習に備えさせておかなければいけないのだ。

 ちなみにこれは女子バスケ部のキャプテンである新井さんから頼まれている事で、新井さんいわく、『茜は放っておくといつまでも練習し続けるから、鳴沢君が上手くコントロールしてあげてね』と言われているからだ。

 まあさすがにインターハイを間近にしてオーバーペースでバテたら笑い話にもならないし、そうなれば部の全員に迷惑をかける事になる。だから俺に課せられた使命はわりと重要なのだ。


「――よし茜、今日の朝練はこれくらいにしておこう」

「えっ? 私はまだまだ大丈夫だよ?」

「昨日も言ったろ? 練習は必要だけど、バスケはチームプレイなんだから、一人で躍起になって練習してるだけじゃ駄目なんだよ。だからみんなとの練習までに体力を回復させとけ」

「なんだか龍ちゃん、マネージャーじゃなくてコーチみたいだね」

「そんなつもりは毛頭ないが、お前に関して言えばコーチでもいいくらいだ。こうして練習にも付き合ってるわけだしな」

「あははっ、それじゃあコーチの言葉には従わないとだね」

「そういう事だ」

「「はははっ」」


 お互いに顔を見合わせて笑い合う。よくよく考えてみれば、茜とこうして長い時間を一緒に過ごすのは久しぶりだ。こんな風に二人で一緒に何かをしているのは、とても幼い時だった気がする。

 懐かしく感じる昔を少し思い出しながら、俺は部活が始まるまでの間を茜とお喋りをしながら過ごした。


「――おはよう鳴沢君、今日の朝練もお疲れ様」

「おはよう新井さん。まあ朝練もこれで四日目だし、ぼちぼち慣れてきてる感じだよ」

「そっかそっか、インターハイまであと二週間だから、その間は茜の事をお願いね?」

「そうピンポイントで頼まれると、女子バスケ部のマネージャーと言うより、茜のマネージャーって感じにならない?」

「あははっ、確かにそうかもだけど、鳴沢君はしっかりと女子バスケ部のマネージャーをしてくれてるよ? それに茜は我がバスケ部の要とも言える得点源スコアラーだから、できるだけインターハイまでに気持ちも調子も上げててほしいの。まあそういう点で言えば、私としては鳴沢君が茜専属のマネージャーって事で全然構わないんだけどね」

「新井さんはそれでいいかもだけど、他のみんなはそうはいかないでしょ?」

「それがそうでもないんだなあ、みんな茜の気持ちは知ってるし」

「は? 茜の気持ち?」

「あっ、今のは無し。それじゃあ今日もよろしくね、マネージャーさん」


 新井さんは意味深な言葉と謎だけを残し、体育館の女子更衣室へそそくさと入って行った。


「――もっと腕を上げなさい! それじゃあ簡単に上のパスを通されるよ!」


 部員も集まり八時を迎え、いよいよ練習が始まった。そして女子バスケ部のコーチがトレーニングを始めた部員に対し、さっそくげきを飛ばす。

 部活が始まって最初の一時間は基礎体力トレーニングになるんだけど、これがかなりキツそうだ。なにせ見ているだけの俺でも、思わず部員達を見て汗が滲んでくるくらいだから。

 しかし俺も女子バスケ部のマネージャーとして、のんびりとその光景を見ているわけにはいかない。なにせ女子バスケ部は一時間毎に十五分の休憩を挟むから、みんなの分の飲み物やタオル、ちょっとした栄養補給であるスライスレモンの蜂蜜漬けなどを、丁度いい感じで用意しなければいけないからだ。


 ――そろそろ準備を始めるか。


 基礎体力トレーニングが始まってから四十分、俺は体育館にある大きなデジタル時計を見て準備を開始した。まず俺が用意するのは、スポーツドリンクやお茶などの飲料だ。これはそれぞれに好みの温度があるから、準備にも気を遣う。しかし基本的には冷え過ぎた飲み物を飲ませないようにする為に、こうして早めに準備を始める必要がある。

 練習をしている部員達はキンキンに冷えた飲み物を飲みたいだろうけど、冷え過ぎた飲み物は身体に良くないし、温まっている身体を急激に冷やすのもよくない。だから女子バスケ部では、それなりに冷たさがあるくらいの飲み物を提供しなければいけないのだ。

 夏場は外気温によって温まり方も早まるので、備え付けの冷蔵庫から取り出すタイミングはなかなかに難しい。いくら冷た過ぎるのが駄目とはいえ、適度な冷たさは保っておかなければいけないからだ。


「よーし! それじゃあ休憩!」


 コーチの声と共に部員達が一斉にコート外に居る俺の所へ向かって来る。俺はそんなみんなに対し、素早く飲み物とタオルを配って行く。


「はい、坂田さんはスポーツドリンクね」

「ありがとう」

「桑原さんはお茶ね」

「ありがとう」


 俺はそれぞれの好みに合わせて用意したドリンクを素早く配り歩く。


「新井さんは薄めにしたスポーツドリンクね」

「ありがとう。それにしても、もうみんなの好みを覚えたの?」

「ここのマネージャーが旅立つ前に、ご丁寧にマネージャーノートを渡してくれてたからね。人数が多いから名前と顔と好みを一致させるのは大変だったけど、テスト勉強に比べたら楽なもんだよ」

「なるほど、鳴沢君は優秀なマネージャーになりそうだね。どお? インターハイが終わってもマネージャーを続けてみない?」

「それは遠慮しておくよ、俺は怠惰たいだな日常が好きなんだ」

「あははっ、それは残念。でもありがとね、マネージャーを引き受けてくれて」

「いや、引き受けたと言うか、単に俺がマヌケだっただけと言うか……」

「理由は何でもいいよ、この調子なら万全の状態でインターハイを迎えられそうだから」

「それなら良かったよ」

「龍ちゃーん! 私だけまだ飲み物が届いてないんですけどー?」

「いけねっ!」


 俺は慌てて飲み物を用意し、茜の所まで持って行った。


「ちょっと龍ちゃん、私のだけ忘れるってどういう事?」

「悪かったよ、はい、これ」

「あのね龍ちゃん、私がいつも飲んでるのはお茶じゃなくて、スポーツドリンクなんですけど?」

「あれっ? 茜はお茶じゃなかったっけ?」

「どうしてみんなのはちゃんと覚えてるのに、私のだけ覚えてないの!?」

「わ、わりいわりい、すぐに用意するからさ」

「あははっ、これじゃあ鳴沢君のマネージャー業もまだまだって事かな?」

「「「「「あははははははっ」」」」」


 キャプテンの新井さんの言葉に、部員から大きな笑い声が上がる。俺としてはとんだ晒し者になって恥ずかしいが、これが厳しい練習中の一服の清涼剤となるなら、それはそれでいいだろう。

 こうして少しの休憩を終えたあと、部員達はまた厳しい練習へと戻った。

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