第286話・愛しい君と歩み続ける
何気なく送っている日常は、ちょっとした事ですぐに変化してしまう。だが、そのちょっとした事で変わってしまうのが日常なら、俺達の送る人生はそのほとんどが非日常と言うべきかもしれない。現に俺も、今までの日常とはちょっと違った日常の中に居るからだ。
お互いの言いたい事を、お互いの思っていた事を言い合ったあの夜から十日が経った。あれから俺は告白の返事をするため、杏子の事を義妹としてではなく、一人の女の子として見ていた。そんな生活を送る中、俺は杏子という女の子がどういう子なのかを改めて見ていた。
普段は甘えん坊なところが目立つ杏子だが、それも俺への想いがあったからだと思えば尚更に可愛く思えるし、いつも明るくて元気な様子は見ていてとても愛らしい。
そしてそんな事を改めて思った時、俺は初めて杏子を異性として意識した時の事を思い出した。
あれは俺が小学五年生になってから迎えた、七夕祭りでの事だった。あの時の俺は、恒例になりつつあった杏子との七夕祭りデートへと出掛けていた。
そしてその時に、杏子にねだられて屋台で売っていた玩具の指輪を買ってあげたんだが、その小さな指輪を杏子にせがまれて左手の薬指につけてあげた時、杏子が満面の笑みを浮かべながら、『これでお兄ちゃんのお嫁さんは私だね』と言われた時に、思わずドキッとしたのを今でも覚えている。
おそらくあの瞬間が、俺が杏子を本当の意味で初めて異性として意識した瞬間だったと思える。
杏子が義妹として我が家へ来てから今まで、俺達はずっと一緒に居た。両親が仕事でほとんど家に居ない分、俺達はどこの兄妹よりも長く仲良く過ごして来たと思う。だからこそ杏子は俺に対しての想いを募らせ、俺も杏子に妹として接する一方、気づかない内に異性としての想いを小さくでも積み重ねていたのかもしれない。
そう、俺は誰よりも長い時間を杏子と過ごし、誰よりも多く杏子の色々な表情を見てきた。そしてこれからも、俺は杏子と長い時間を過ごし、杏子の色々な表情を見て行きたい。そんな思いが俺の心の中を満たしていた。
実妹じゃないとは言え、妹として受け入れた杏子の好意を兄の俺が受け入れてもいいのか――その好意を俺が受け入れたとして、先々で杏子が傷つく事があったりはしないだろうか――それで杏子が泣いたりする事はないだろうか――そんな凄まじい葛藤が俺にあったのは事実だ。
しかし杏子も杏子なりに考えただろうし、甘えん坊でお子様ところはまだまだあるけど、杏子は俺よりも賢くて理知的だから、俺が心配しているような事は既に想像しているだろう。
あとは俺が、厳しくなるかもしれない先々に対して覚悟を決めるだけだ。杏子はその覚悟を決めた上で俺に告白をしたのだろうから。
「……よしっ! 決めたっ!」
様々な葛藤を乗り越え、俺はやっと答えを出した。そしてこの想いを忘れない為に、俺はある物を準備しようと思った。それはきっと、俺の覚悟を杏子に伝えるには一番の手段だと思ったから。
迷いが晴れた俺の心は爽やかな青空のように澄み渡り、そこにはもう、杏子の想いに対する迷いは一切なかった。
× × × ×
杏子の想いにどう答えるのかを決めてから数日後、俺は杏子と二人で毎年恒例の七夕祭りへとやって来た。
杏子は去年も着ていた、薄紫色とピンク色の朝顔が描かれた綺麗な藍色の浴衣に身を包み、この日の為に新調したと言っていた紅色の下駄を履いて楽しそうな笑顔をべ、カランコロンと軽快な下駄の音を立てて歩いていた。
「ねえ、お兄ちゃん、まずはどこから見て回る?」
今日は告白の返事をする日だというのに、杏子には緊張している様子は見られない。ガチガチに緊張されるのも困るけど、こんな風にまったく緊張感がないのも考えものだ。
しかしまあ、いつもと変わらないそんな杏子の姿を見ていると、妙に緊張していた俺も少しは気が楽になる。
「そうだな、杏子の好きなところを回ってもいいけど、最初に金魚すくいとかはなしな」
「えー? どうして? せっかく去年みたいにお兄ちゃんと金魚すくい対決をしたかったのに」
「別に金魚すくいをするなとは言ってないだろ? やるのは構わんが、最初にやるのは止めとけと言ってるだけだ。金魚を持ちながらだと移動も大変だし、金魚だってこの暑さの中で持ち歩かれるなんて地獄だろうしな」
「なるほど、そういえばそうだね」
「ちなみにだが、俺としては金魚すくいをするのはお勧めしない」
「どうして? 私に負けるから?」
「おい、その言い草だと俺が負ける事が確定してるみたいじゃねえか」
「うん、お兄ちゃんが負けると思ってるもん」
――コイツ、どんだけ金魚すくいに自信があるんだ?
「……まあそれはともかくとしてだ、今は白雪姫を飼ってるんだから、金魚なんて連れて帰れんだろ?」
「あ、そっか、確かにそうだよね」
「理解してもらえたみたいで良かったよ」
「それじゃあ今年はヨーヨー釣り対決にしようよ。ほらっ、行こうお兄ちゃん」
「分かったわ分かった、行くからそんなに引っ張るなって」
杏子はテンション高めながら俺の手を握り、人混みの中へ分け入って行く。これじゃあいつもの七夕祭りと大して変わらない気がするけど、それでもどこか違った楽しさを感じていたのも事実だった。
こうして俺達はいつものように七夕祭りの会場の出店を色々と回り、祭りを楽しみ始めた。
ヨーヨー釣り対決で負けた俺にたこ焼きを奢らせ、そのたこ焼きを美味しそうに頬張りながら最後の一個を俺に食べさせてくれたり、違う味のかき氷を買ってお互いに食べさせあったりと、本当にこれでもかと言うくらいに祭りを満喫しまくった。
そして祭りも終盤に差し掛かった頃、俺達は祭りの会場を離れ、花火を見る為にいつもの場所へと向かい始めた。
「暗いから足下には気をつけろよ?」
「うん、大丈夫だよ、お兄ちゃんが手を握ってくれてるから」
「そ、そっか」
繋いでいる手の力を少し強め、そんな事を言う杏子。俺はそれにドキッとしてしまい、声が上擦ってしまった。
俺は杏子の歩調に合わせてゆっくりと神社の階段を上り、年々花火を見物する為にやって来る人が増えている神社の
「今年もまた見物客が増えてるな」
「お兄ちゃんと初めてここで花火を見た時は、まだこんなに人は多くなかったもんね」
「そうだな」
年月が経てば色々なものが変わる、それは物であれ人の心であれ同じだろう。普段はあまり気にもしないけど、こうして自分の見てきたものが変化していく様を見るのはどこか寂しい。
そんな事を思っている内に祭りの会場から花火が上がり始め、暗い夜空とその下に居る者達を明るく照らし始めた。
「あっ、花火が上がり始めよ!」
「今年のは派手ででかいな、これなら無理に前へ行かなくてもいいな」
「だね」
俺達は周りに居る人達と同じく、夜空に咲く光の花々に目を奪われた。
彩り鮮やかな花火が一つ上がる度に、あちらこちらから歓声が上がる。いつもなら杏子も周りの人達と同じように歓声を上げているところだが、杏子は一言も言葉を出さずにじっと花火が打ち上がるのを見ていた。
そして約三十分に渡る花火打ち上げが終わり、花火を見る為に来ていた人達がぞろぞろと神社を後にし始めても、杏子はその場で花火が上がっていた暗い夜空をじっと見つめたままだった。
「どうした杏子、大丈夫か?」
「えっ? 大丈夫って何が?」
「いや、花火が終わってもずっと空を見てたからさ」
「そっか、いつまでこうやってお兄ちゃんと花火を見られるのかなって考えてたから、ちょっとぼーっとしちゃってたみたい」
「そっか……ずっと立ってたから疲れてないか?」
「少しね」
「それじゃあ、あそこのベンチで少し休んで帰るか」
「うん、そうする」
人も
「今年も楽しかったね、お祭り」
「そうだな、暑いのと人が多いのを除けば良かったよ」
「お兄ちゃんは毎年同じ事を言ってるね。気持ちは分かるけど、祭りはこの人の多さも含めて楽しむものだと思うけどなあ」
「言ってる事は分かるが、それでも人混みは苦手だな」
「まあ、それはそうだね」
こんな調子でお祭りの感想を話したあと、誰も居なくなった境内に残された俺と杏子はお互いに沈黙してしまったが、その沈黙も長くは続かなかった。
「ねえお兄ちゃん、白雪姫の事だけど、家でずっと飼う事にしちゃ駄目かな?」
「それは白雪姫の事をちゃんと考えた上での事か?」
「うん、私は最期までちゃんと白雪姫の面倒を見るよ、絶対に」
「そっか、分かった、それならいいんじゃないか?」
「本当?」
「ああ、杏子がそこまで言うなら信用するさ。それに家で飼うなら、俺も杏子と一緒にずっと面倒を見れるしな」
「えっ? 今、ずっと一緒って言った?」
「ああ」
杏子の問い掛けに短く返事をし、俺はズボンの後ろポケットに詰め込んでいた小さなアクセサリー箱を取り出して蓋を開いた。その中には簡素なシルバーリングが一つ入っていて、俺はそれをそっと取り出した。
そして空いている方の手で杏子の左手を握ってから優しく引き寄せ、その左手の薬指に持っていたシルバーリングをはめ込んだ。
「お兄ちゃん、これって……」
「これが杏子の告白に対する俺の答えだよ。これから色々と大変だろうけど、ずっと一緒に居よう、杏子」
「本当にいいの?」
「本当にいいも何も、ずっと一緒に居ようって言ったろ? その指輪の意味、解らないわけじゃないだろ?」
「当たり前だよ、だって小さな頃からずっと夢見て来たんだもん、解らないわけないよ……」
「まあ学生の身分じゃそんな指輪しか渡せないけどさ」
「ううん、これでいいんだよ、ありがとう、お兄ちゃん」
杏子はそう言いながら瞳から涙を零していた。そんな杏子を見て強い愛おしさを感じた俺は、杏子の頭にそっと手を乗せて優しく撫でた。
思えば小さな頃からこうして杏子の頭を撫でて来たけど、ずっとこうしていたいと思った事は今までになかった。
「しかし杏子よ、これからが本当に大変だぞ? 義理とは言え俺達は兄妹なんだから、風当たりは厳しくなると思うし、時には嫌な事を言われるかもしれないぞ?」
「うん、分かってる。でも私は大丈夫だよ、お兄ちゃんがずっと一緒に居てくれるなら」
「そっか、それじゃあ一緒に頑張るか」
「うんっ!」
「そんじゃまあ、手始めとして母さんと父さんを説得しなきゃな」
「それなら大丈夫だよ」
「どうしてだ?」
「だってお兄ちゃんが入院して目を覚ました日に、お母さんとお父さんには私がお兄ちゃんに告白をする事は話をしてたから」
「えっ!? そうなのか? それで二人は何て言ってた? 反対されたんじゃないか?」
「それがね、二人揃って『いずれどっちかがそんな事を言い出すんじゃないかと思ってた』って言ってたよ。しかも私の話を聞いて反対するどころか、逆に『頑張れっ!』って応援されちゃったし」
「ははっ、なんてノリの軽い両親だ」
「だねっ」
本当なら親の軽さに呆れ返るところだろうけど、今回ばかりはその軽さに感謝したい。それに杏子の手回しの良さにも感服した。
「まあ何はともあれ、そろそろ家に帰りますか、白雪姫も待ってるだろうし」
「うん、そうだね」
「よしっ、それじゃあ帰ろう、我が家へ」
「うん、帰ろう」
そう言ってベンチから立ち上がると、杏子は俺の左腕に両手を絡め、ぎゅっと抱き包んできた。
「杏子さん、それだと俺が歩きにくいんですが?」
「大丈夫大丈夫、お兄ちゃんならこれくらいの困難は乗り越えてくれるから」
「やれやれ、俺はとんだ甘えん坊さんを選んだのかもしれないな」
「今更後悔しても遅いからね? お兄ちゃんはずっと私の側に居るって決まったんだから」
そう言うと杏子は満面の笑みを見せながら、俺が左手の薬指にはめたシルバーリングを見せつけた。
「分かってるよ、後悔なんてしてないし、これからも俺は杏子と一緒だ」
「うん、ずっと一緒に居てね、お兄ちゃん」
今まで見た中でも文句なく一番だと思える笑顔を見せる杏子。そんな杏子の笑顔を見ながら、ずっとこの愛しい笑顔を守って行きたいと、そう思いながら杏子と一緒に手を繋いで白雪姫の待つ自宅へと帰った。
アナザーエンディング・鳴沢杏子編~Fin~
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