第213話・身から出た錆

 いよいよ五月病を発症する人が増えてくるだろう、貴重なゴールデンウイーク明けの晴れやかな朝。俺は大きな欠伸あくびを何度も出しながら、通い慣れた通学路をのろのろと歩いていた。

 まとまった休みのあとは、学校へ行くのが特に気だるく感じる。この症状が学生の間だけの一時的なものならいいけど、これが大人になっても変わる事なく襲いかかって来ると言うのだから、五月病というのは本当に恐ろしい。

 もういっその事、毎日休みにならないかな――などと、至って駄目な思考におちいりつつも、それじゃ駄目だという相反する強迫観念にも似た思いが、いやおうでも足を前へと踏み出させる。


「お兄ちゃん、ちゃんと歩いてよ。このままじゃ遅刻しちゃうよ?」

「別に俺の事は気にしなくていいから、杏子は先に行ってもいいんだぞ?」

「やだよ。せっかくお兄ちゃんと一緒に登校してるのに、何で先に行かなきゃいけないの?」


 杏子はさも当然の様にそう言うけど、妹は兄と一緒に登校しなければいけない――みたいな決まりがあるわけじゃないんだから、のろのろと歩く俺なんか放っておいて、とっとと先に行けばいいのにと思ってしまう。


「いやいや。兄としては妹を道連れにするのは忍びないんで、構わず先に行ってくれてた方がいいわけだが」

「そう思うんだったら、お兄ちゃんがしっかりと歩いてくれればいいだけだよ。ほらっ!」


 不満そうに口をとがらせた杏子は、そう言いながら俺の右手をぎゅっと握ってきた。


「ちょっ!? 何やってんだよ!?」

「何って、お兄ちゃんがちゃんと歩かないから、私が引っ張って行こうと思って」

「どこの世界に高校生にもなって妹と手を繋いで登校する男子高校生が居るってんだよ!? 恥ずかしいから止めろ」

「やだよ。手を離したらお兄ちゃんも私も遅刻しちゃうもん」


 杏子はそう言いながら、無理やり俺の手を引っ張って歩かせる。


 ――何でこんな衆目の中で妹に手を引かれて歩かにゃならんのだ……これじゃあとんだ羞恥しゅうちプレイじゃないか。


「わ、分かった! 分かったからこの手を離してくれっ!」

「だーめっ! お兄ちゃんはこのまま連行しまーす♪」


 杏子は握っていた手を離すまいと更に強固に握り直し、人目をはばかる事なく通学路を進んで行く。

 そんな杏子の表情がちょっと楽しそうに見えたのは、きっと俺の気のせいではなかっただろう。相変らず妙なところでSっ気を出す妹だ。

 絶対に手を離してくれない妹の羞恥プレイによる周囲からの視線に耐え忍びつつ、学園までの道のりを手を引かれながら歩く。小さな頃は俺が杏子の手を引いて先を歩いていたけど、今はそれが逆になっている。月日の経つのは本当に早いものだと、そう感じた瞬間だった。


× × × ×


「おはようございます。龍之介さん。具合はどうですか?」


 教室に入って窓際後方二番目にある自分の席に座ると、一つ前の席の主である美月さんがこちらへと振り返り、心配そうな表情を浮かべてそう尋ねてきた。


「あ、ああ。今は大丈夫だよ。心配させてごめんね」

「いえ。龍之介さんが大丈夫ならいいんですけど、早めに治療して下さいね?」

「うん、ありがとう。今日にでも診察に行くよ」

「それなら良かったです」


 その返答に対し、美月さんはにっこりと本当に安心した様な笑顔を浮かべた。

 結局、桐生さんと話をしたあの日から、俺は何もしていない。その理由の大半は、美月さんが本当にみっちゃんだったらどうしよう――と、聞くのが怖かったからだ。

 だけど、もしも本当に美月さんがみっちゃんだったとしたら、その時の事を美月さんが口にしないのには、桐生さんの言っていた様に何かしらの理由があるからだと思える。そう考えると、俺が下手な行動を起こすべきではない――とも思えた。人間関係はどんな些細な事から良くも悪くも変化をしていくか分からないから。そうを考えれば、俺が現状維持を続けようと考えたのも至って普通の事だと思える。

 でもそれは俺の都合の良い言い訳で、そうでも思わなければ、自分の心にあるモヤモヤした気分に押し潰されそうだったから――というのが、本当の気持ちだったのかもしれない。


「龍之介君。どこか具合でも悪いの?」

「ああいや、別にそういう事じゃないから心配しなくていいよ」

「そうなの?」


 後ろの席からそう問い掛けてきたまひろに対し、俺は曖昧にそう答えた。そのせいかまひろは、心配そうな表情を更に心配そうにしている。これでは美月さんに心配をさせた時と同様に、まひろにも余計な心配をさせるかもしれない。


「いやまあ、別に大した事じゃないんだけど、ちょっとゴールデンウイーク前から奥歯が痛みだしててさ。それで早く歯医者さんに行かなきゃいけないって話をしてんたんだよ」

「ああ。そういう事だったんだね。それなら早く歯医者さんに行って治さないといけないね」


 まひろは少し安心した様な表情を見せると、いつものにこやかな笑顔を見せてくれた。これでとりあえず、まひろに余計な心配をかける事はないだろう。

 ちなみに俺の言った『奥歯が痛む』というのは大嘘だ。ではなぜこんな大嘘をつく必要があるのかと言えば、桐生さんが美月さんに対して、『鳴沢君が悩んでいる様に見えたのは、歯の痛みが気になってたかららしいよ』と、そう話したからだ。話のオチとしてはしょうもない理由だが、余計な心配をさせない為に話を合せてこうなった。

 それにしても、ゴールデンウイークが明ける前日に、美月さんが腕の良いと評判の歯医者さんの場所が載ったコピー用紙を持って来たのは、とんだ誤算だったと言える。なぜなら美月さんのこの善意により、俺は本当に歯医者さんへ行く羽目になったんだから。まあ、ちょっとした口腔ケアをしに行くと思えば、悪い事ではないんだけど。


「なーに? 龍ちゃん虫歯があるの? ちゃんと毎日歯を磨いてる?」

「失礼な事を言うんじゃないよ。渡と一緒にするなっての」

「コラコラッ! それじゃあ俺が歯を磨いてないみたいじゃないかっ!」


 つい比較対象として選んでしまったまひろの右隣の席に居る渡が、席から立ち上がって抗議して来た。


「えっ!? お前、ちゃんと歯磨きしてるのか?」

「その驚愕に満ちた表情は何だ!? マジなら相当驚きなんだが」

「あ、いや、普通に驚いただけだ。すまん」

「たくっ、ちゃんと二日に一回は歯磨きしてるってんだよ……」

「はっ?」


 ――コイツは今何と言った? 『二日に一回は歯磨きしてる』と言ったか?


 周りに居る茜やまひろ、美月さんに今の渡の呟きが聞こえたかは分からないけど、その内容は非常に危険なものだ。

 どう危険かと言えば、物理的にも精神的にも危険だ。なにせ歯磨きをおこたる事による歯周病は様々な病気の発生リスクを上げると聞くし、口臭の原因にもなる。加えてとても忌々しい事に、今の渡には秋野鈴音あきのずずねという幼馴染の恋人も居るわけだから、これが原因になって嫌われ、別れる――なんて事が無いとは言い切れない。

 普段なら恋人持ちリア充の心配などしないが、秋野さんが一生懸命頑張って付き合い始めた経緯を知っているだけに、このまま黙っておくというのは気が咎める。


「……渡君、ちょっと俺について来たまえ」

「へっ? 何で?」

「いいから黙ってついて来たまえ。君がこれからの人生において後悔をしたくないなら」

「後悔!? お前は俺のアカシックレコードを知っているとでも言うのか!?」


 ――なーにがアカシックレコードだ。そんな中二病的単語を出さなくても、誰だって容易にお前の行く末の想像ができるってんだよ。でもまあ、ここは話を合わせておくか。面倒だから。


「ああ。実は俺には、お前の未来が見えてるんだよ。陰惨で悲惨な未来がな……」

「マ、マジかよ……」


 普通ならこんな言葉を信じる奴は居ないと思うけど、渡の今のマジ顔を見れば、その言葉を信じた事は容易に分かる。

 こうして俺はマジ顔の渡を連れて廊下へ出たあと、渡の歯磨きに対する考え方と問題点、それに起因して訪れるかもしれない悲惨な未来の話をしてやった。その結果、渡は青ざめた表情で『俺はどうすればいいんだ!?』と泣きついて来た。

 しかしどうするもこうするも、それを解消する方法は一つしかない。それは、歯医者さんへ行ってしっかりと治療やケアをしてもらう事だ。

 こうして不本意ではあるものの、俺は渡と一緒に放課後に歯医者さんへと出向く事になった。そして美月さんが教えてくれた歯医者さんでてもらった結果、俺には虫歯の一本も無かったが、ちょうど良い機会だから数回ほど通って口腔ケアをしてもらう事にした。そうでもしないと、一回の治療で終わったら美月さんに怪しまれてしまうから。

 ちなみに隣で診てもらっていた渡は何本か虫歯があったらしく、しばらくは歯医者に通うように言われていた。まあ、『歯って二日に一回磨いておけばいいんじゃないのか!?』とか言ってたくらいだから、その結果には特に驚きもない。むしろ、虫歯が数本程度だった事の方が驚きだ。

 幼い頃に親などからしっかりと歯磨きについて教えてもらっていたとは思うんだが、きっと渡の事だから、ちゃんとその話を聞いてなかったんだろう。せいぜいこれを機会にちゃんとした歯磨きの知識を詰め込んで、秋野さんを悲しませる事がない様にしてほしいもんだ。

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