第159話・意識する瞬間

「まひろ、大丈夫か?」

「うん。大丈夫だよ」


 早朝の花嵐恋からんこえ学園の教室。

 その教室の横にある廊下から中に居るまひるちゃんに向かってそう問い掛けると、涼やかで明るい声音の返事が聞こえてきた。

 教室にあるB班メンバーの机の上には、渡が昨日用意していた今日の為の衣装が入った袋が置かれている。

 そして教室の中ではまひろにふんしたまひるちゃんが一人で着替えをしていて、俺はその着替えが終わるのを廊下で待っている状態だ。

 普段ならまだ登校して来る学生などほとんど居ない時間帯だが、文化祭が行われている期間は早くやって来る生徒はそれなりに多い。実際に登校途中も学園が近くなるまでは学生の姿すら見なかったのに、通学路を半分も過ぎる頃にはちらほらと学園の生徒の姿があったから。

 というわけで、着替えの最中はまひろとまひるちゃんが入れ替わっている事がばれてしまいかねない最も無防備な状態だから、こうして教室の外でクラスメイト達がやって来ないかを監視しているわけだ。


「慌てなくていいからな?」

「うん、ありがとう。龍之介」


 今回の件におけるまひるちゃんのまひろ役の完成度は、ほぼ完璧と言えるレベルに達している。それはまひろの親友である俺でさえ、本物のまひろと錯覚してしまうほどだから間違い無い。

 こう言えばまさに太鼓判を押せる状態だと言えるかもしれないけど、俺には一つだけ不安な事があった。それは、ふとした拍子にまひるちゃんが素に戻ってしまう瞬間がある事だ。

 どうもまひるちゃんは楽しさやテンションが一定量まで上がると、一瞬であっても素の自分が出てしまうみたいで、それが今回の入れ替わりにおける最大の不安要素だと俺は思っている。

 俺と二人だけの時なら全然いいんだけど、周りに人が居る状態でそんな事になると、この計画自体が破綻する切っ掛けになりかねない。


「お待たせ」


 まひるちゃんが教室へ入ってから約十分。

 俺が思っていたよりも早くまひるちゃんは教室から出て来た。


「あれっ? 渡が用意してた和服ってそれだったの?」

「うん。おかげでそんなに時間がかからなくて済んだよ」


 にこやかな笑顔で涼やかにそう言うまひるちゃん。

 本当にまひろと入れ替わっているのだろうかと、疑問すら浮かんでくるほどにまひるちゃんの言動はどこまでもまひろのそれと一緒だ。


「俺はてっきり昨日着てた感じの和服が入ってると思ってたんだけどな」


 まひるちゃんが着ている和服は、おそらく一般的にみんなが想像する様な和服とは違うと思う。

 俺は和服について詳しいわけではないが、まひるちゃんが着ている和服はどう見てもはかまにしか見えない。よくテレビドラマとかで、明治時代とか大正時代の女学生が着ているあれだ。

 まあ、袴だって立派な和服なんだから何の問題も無いだろうけど、渡は何を思ってまひるちゃんに袴をチョイスしたんだろうか。


「僕もちょっと意外だったけど、結構可愛いよね」


 まひるちゃんはそう言いながら、その場でくるりと回転して見せた。

 紫と黒のグラデーションをした袴の下部分、上は紫と白を基調としていて、ピンクと白のグラデーションで描かれたつつじの花をモチーフとした絵がえがかれている。

 確か袴って、ズボンタイプが一般的だったと昔テレビ番組で聞いた気がするけど、こうしてスカートタイプを選んでいるのは渡の個人的趣味かもしれない。

 それにしても、まひるちゃんの袴姿は素晴らしく似合っている。個人的にはとても萌えるので、このチョイスには何の文句も問題も無い。

 まあ、それよりも問題なのは、俺の机の上に置かれている袋の中には、いったいどんな衣装が入っているのかという事だ。

 もしもまひるちゃんと同じ様な和服が入っていたとすれば、ちょっと困った事になる。なぜなら俺は、和服の着付けの仕方などまったく知らないからだ。


「それじゃあ今度は俺が着替えて来るから」

「うん。待ってるね」


 まひるちゃんと入れ替わりで教室へ入り、校庭側にある自分の席へと歩いて行く。


「さてと、何が入っているのやら……」


 俺は机の上に置いてある白色の巾着袋に手を伸ばし、その口を開けてから中身を取り出して机の上へと置いた。


「…………」


 予想通りと言うか何と言うか、巾着袋から取り出した中身は、ものの見事に男用の袴だった。

 そしてその中にはご丁寧に男用の袴の着付け方を記した説明書まで入っていて、ついでにその説明書の下の空欄には、『涼風さんとペア着にしてやったから、俺に感謝しろよなっ!』と、渡からのいらない一言がえられていた。

 どうしてペア着にされた事を感謝をしなければいけないのか理解に苦しむが、とりあえず着替えを始めるとしよう。


「えっと、まずはどうすんだ?」


 とりあえず入っていた説明書に目を通しながら袴の着付けを始めたけど、着付けの経験が無い俺にとって今の状況は、説明書を失ったプラモデルを無謀にも組んでいくのと同じ様なもの。まさにちんぷんかんぷんと言った感じだ。


「くそっ。なかなか上手くいかないな」

「お兄ちゃん。やり方が違ってますよ」


 いつの間にかすぐ近くに来ていたまひるちゃんに声を掛けられ、俺は驚きのあまり身体がビクッと跳ねてしまった。


「ほら、お兄ちゃん。後ろを向いて下さい」

「う、うん」


 素に戻っているまひるちゃんに言われるまま背を向けると、まひるちゃんは俺が持っていた帯を丁寧かつ器用に巻き始めた。

 お母さんに着付けを習っていたと言うだけあって、その手際の良さは素人の俺から見ても流石だと思えるほど綺麗で早い。

 こんな事なら最初っからまひるちゃんに着付けをお願いしておけば良かったと、そんな事を思いながらまひるちゃんが一生懸命に着付けをしてくれる様を見つめる。


「今度は正面を向いて下さい」


 俺はまひるちゃんの言葉に素直に従って正面を向いた。

 少し腰を落とした状態で着付けをしてくれるまひるちゃんから、ほのかに爽やかで甘いフルーティーな匂いがしてくる。

 その香りは俺にとって激しく女の子を意識させる甘美な香りで、思わずそのまま夢見心地な気分でほうけてしまった。


「――ちゃん。お兄ちゃん?」

「えっ!?」


 惚けている俺が我に返ると、目の前に居るまひるちゃんが小首を傾げていた。


「着付け終わりましたよ?」

「あ、ああっ! ありがとう!」


 まひるちゃんにそう言われて自分の姿を見ると、綺麗に着付けられた袴が目に映った。


「似合ってるかな?」

「はいっ♪ とってもよく似合ってますよ」

「そっかそっか。良かったよ」

「あの、お兄ちゃん。私はどうですか? どこかおかしい所はありませんか?」


 俺の質問に答えると、まひるちゃんは少し不安げな感じでそんな事を聞いてきた。


「大丈夫だよ。凄く似合ってて可愛いから」

「あ、ありがとうございます……お兄ちゃんの袴姿も格好いいですよ」

「そうかな? ありがとうね」

「い、いえ。どういたしまして……」


 俺がお礼を言うと、まひるちゃんは顔を真っ赤に染めてから恥ずかしげに俯いた。

 そしてそんなまひるちゃんの姿を見た俺も何だか急に恥ずかしくなり、同じ様に顔を俯かせてしまった。


「「あっ……」」


 まひるちゃんと同じ様に俯かせていた顔を上げると、同じく顔を上げたまひるちゃんと視線が合い、そのまま見つめ合う形になってしまった。


「あ、あの……私お兄ちゃんに――」

「ういーっす。おっ! 二人共早いな!」


 見つめ合う状態になってからまひるちゃんが小さく口を開いて何かを言おうとした瞬間、教室の出入口のドアが勢い良くガラッと開き、そこから渡の呑気で陽気な声が聞こえてきた。

 そしてその事に驚いたまひるちゃんは、焦った様子で俺からササッと距離を取った。


「二人揃って早速衣装を着たんだな。それにしても、涼風さんは流石の着こなしだね! 滅茶苦茶良く似合ってるよ!」

「あ、ありがとう、渡君」

「龍之介はまあ、孫にも衣装だな」

「お前さ、その言葉の意味判って使ってるのか?」

「おいおい。そんなの知ってて当たり前だろ?」

「だったらどんな意味か言ってみろよ」

「それはほら、あれだよ。どんな孫でも良い衣装を着ると映える――みたいな意味だろうが」

「…………」


 コイツは馬子にも衣装の『馬子』の部分を、単純に『孫』と勘違いしているみたいだ。

 無知の知ったか振りがここまで恥ずかしいものなんだという事を、俺は改めて渡に教えてもらった気がする。


「渡。とりあえずこれを貸してやるから、隅から隅まで読んでおけ。お前の為にな」


 俺は渡に哀れみの視線を向けつつ、机の中にある故事ことわざ辞典を取り出してからそれを渡に手渡した。


「へっ? 何で?」

「さあ。俺達は喫茶店の準備に行こうぜ」

「う、うん」


 そう聞いてくる渡をスルーしつつ、俺はまひるちゃんと一緒に喫茶店へ移動を始める。

 そしてそんな俺達の後ろから、渡の『これってどう言う意味だよー!』という声が聞こえてきていた。

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