第108話・目指す道を行く為に

 演劇が始まってから三十分。

 今この劇場の中は、世界中のどこよりも静寂に包まれていると思う。

 いや、正確に言えば音は聞こえる。だがそれは、役者が舞台上を歩く音やセリフを発する声、その息遣いだ。それ以外の音、つまり観客側からは絹擦れの音一つ聞こえない。

 ここに来ている人達は皆、目の前にある舞台上の世界にトリップし、この舞台を心から楽しんでいるんだろう。

 俺もついつい舞台上で繰り広げられている世界に惹き込まれそうになるが、今回はお客さんとしてではなく、桜花おうか高校総合演劇科の一員としてお手伝いに来ている訳だから、自分の役目をしっかりと果たさなければいけない。

 横にあるスポットライトのスイッチに手を伸ばし、再び自分のやるべき役割へと戻る。

 舞台上を一つの世界として物語を繰り広げていく役者達。

 その役者達の演技を演出し、観客へ最高の舞台を見せるのが裏方の役目。なんとも誇らしい仕事だと思う。

 迫真の演技を見せる役者達により演劇は順調に進んで行き、約二時間に及ぶ第一回目の舞台上では、今まさに劇のラストシーンが演じられている。

 舞台上では主人公の男が雪村さんのやっている役の告白を断っているシーンが展開されていて、俺の仕事もいよいよクライマックスを迎えようとしていた。

 俺は告白を断られて泣き崩れる雪村さんに向かってスポットライトを当て、徐々に光源を弱めながら範囲を小さく絞っていく。

 そして最後に細い線の様に当たっていた光が消えると、ホールの中は暗闇に包まれる。これで俺がやる第一回目の仕事は終了だ。

 こうして無事に舞台は終了し、舞台上では出演した役者達によるカーテンコールが行われている。

 この瞬間は俺も仕事の重責から解放され、カーテンコールをしている役者達に向かってお客さんと共に惜しみない拍手を送った。


「――お疲れ様です!」


 午後十二時二十分。

 第一回目の公演が終了したあと、俺は劇場に届いていたお弁当とお茶を他のスタッフと一緒に役者達へ配り歩いていた。


「雪村さん。お疲れ様」

「あっ、お疲れ様、龍之介君。お弁当ありがとう」


 にこやかな笑顔で俺が差し出したお弁当とペットボトルのお茶を受け取る雪村さん。


「いやー、凄い迫力だったよ。まるで役である人物が本当にそこに存在している感じだった」

「本当? そう言ってくれると嬉しいな」


 にこやかな笑顔をもっと明るくし、雪村さんは更に嬉しそうに微笑んだ。

 こういった雪村さんを見るのも、やはり俺にとっては初めての事。雪村さんの知らなかった一面をこうして垣間見るというのは、俺にとってはとても新鮮であり、ある種の優越すら感じる。

 この場合で言うところの優越感というのが誰に対してかと言われれば返答に困るけど、こうしてにこやかな笑顔を向けてくれる雪村さんを見ていると、それが俺だけに向けられた特別な笑顔の様に感じてしまう。だが、それが俺の単なる思い過ごしなのは重々承知だ。でも、少しくらいそんな幻想に浸っても罰は当たらないだろう。


「本当に凄かったよ。雪村さんの演技を見るのは初めてだけど、本当に圧倒されちゃったよ」

「ふふっ。ありがとう、龍之介君。でもね、私が龍之介君に演技を見せるのは、これが初めてじゃないんだよ?」


 ――俺に演技を見せるのが初めてじゃない? ……ああ。もしかして、水族館に行った時の仮想デートの事を言ってるのかな?


「それってあの仮想デートの時だよね? あれも演技だったとか凄いよ。俺もすっかりその気になってたから」

「えっ!?」


 誰にも聞かれない様に雪村さんの耳元でそう言うと、ちょっと驚いた表情でこちらを見てきた。


 ――あれっ? もしかして違ったのかな。でも、あの時以外で演技している様な場面は無かったと思うしなあ……。


「あっ、いけねっ! まだお弁当を配り終えてないからもう行くねっ! 二回目の公演も期待してるから」


 部屋の中にある時計にふと目が行った俺は、自分のしていた仕事を思い出して我に返った。


「あっ、うん……任せておいて!」


 なんとなく残念そうな表情をしていた雪村さんだったが、俺の言葉に右手の拳を握り締めてガッツポーズをつくり、頼もしい返答をしてくれた。そんな雪村さんを見ているだけで、俺も頑張ろうと思える。

 俺は雪村さんに軽く手を振ると、その控え室に居る役者全員に弁当を渡して回り、俺も昼食を摂る為に裏方の人達が詰めて居るスタッフルームへと向かった。

 そしてスタッフルームへと向かう途中、通りかかったロビーの一角で見覚えのある後ろ姿を見つけた俺は、その人物に聞きたい事があったので方向を変えてその人物が居る方へと歩き始めた。


「こんにちは」


 ロビーにあるソファーに座っていたその女性に話し掛けると、俺の方を見てから立ち上がり、ペコリと頭を下げてきた。


「こんにちは」

「舞台はどうでしたか?」

「とても良かったです」


 その問い掛けに対し、女性はにこにことした笑顔で答えてくれた。

 こうして満足げな表情を浮かべてくれると、裏方とは言え俺も嬉しくなる。


「そう言ってもらえると、関係者としても嬉しいです」

「あの、第二回公演は十四時からでしたよね?」

「はい、そうです。二回目の公演も見て行かれるんですか?」

「ええ。今日ある三回の公演、全てを見て行こうと思っているんです」

「随分と熱心なんですね。やっぱり娘さんが出てるからですか?」

「そう……ですね」


 いまいち歯切れの悪い言葉に、俺は少し疑問を抱いた。

 しかし前に聞いた複雑そうな家庭事情を考えれば、そんな歯切れの悪い答え方になったとしても不思議ではない。

 どうも俺は込み入った事情に踏み入ってしまうところがあるから、もう少し色々と考えないといけないと思う。


「ご休憩中にすみませんでした。残りの舞台、楽しんで下さいね」

「はい。ありがとうございます」


 そう言うとその女性は、先程までのちょっと悲しそうな表情を笑顔に変えてそう言ってくれた。

 俺はその女性にペコリと頭を下げ、スタッフルームへと向かう。

 それから休憩を終えた俺達は、二回目の公演を行う為の準備をしてから本番へと臨んだ。そして二回目の公演も一回目同様に沢山のお客さんが見に訪れ、そのお客さん達は皆一様に眼前にある舞台へと釘付けになっていた。


× × × ×


 十六時十五分。

 二回目の舞台は一回目同様にスムーズに進み、何のトラブルも無く無事に終わりを迎える事ができた。


「えっ? 本当にいいんですか?」


 二回目の公演を終えたあと、俺は同じ照明スタッフの女性からもたらされた話を聞いて驚いた。


「ええ、大丈夫よ。こういった事はよくあるから」

「分かりました。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」


 そう言うと女性スタッフさんは、『ごめんね』と謝りながらスタッフルームへと戻って行った。

 突如もたらされたその話は俺としては願ってもない事だったから、十分に楽しませてもらうとしよう。

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