第107話・伝えたかった言葉

 夏休みを迎えた三日目の午前九時半。

 俺は桜花おうか高校総合演劇科が舞台公演を行う劇場の中で、凄まじい緊張の波に包まれていた。

 開場まであと約十分。本番開始までは約三十分。

 周りに居る役者やスタッフも、皆一様に真剣な表情だ。そこには緊張も感じるけど、それでも気合に満ち溢れているその表情からは、プロの役者を目指しているという強い意思が感じられる。

 俺はと言うと既に足が緊張でガクガクしていて、今ならこの緊張のせいで倒れてしまいそうなくらいだ。

 舞台の総合演出家が最後に激励の言葉を述べると、スタッフと役者がそれぞれの果たすべき役割の為に散って行く。


「龍之介君」


 緊張でガチガチな俺の背後から、明るく弾んだ声で誰かが呼び掛けてくる。

 その声に震える足で後ろを振り向くと、そこにはいつもより明るい笑顔を浮かべた雪村さんの姿があり、その姿を見た俺は思わずその笑顔に釘付けになった。


「緊張してるみたいだけど、大丈夫?」

「…………」


 その笑顔に見惚れていた俺は、雪村さんの言葉に返答する事すらできなかった。

 すると雪村さんは何を思ったのか、俺の右手をそっと両手で握ってきた。


「龍之介君。最初は誰でも緊張するし、誰でも足が震えちゃう。誰でも失敗を恐がっちゃう。でも大丈夫。あなたがしてきた事は、こうしてこの日を迎える為の努力だったんだから。だから、自信を持って」


 その両手と言葉から伝わる温もりが、俺の足の震えを徐々に和らげ止めてくれる。


 ――そうだよな。緊張してるのは俺だけじゃないんだから、こっちも気合と根性を入れないと。


「ありがとう、雪村さん。ちょっと落ち着いた気がするよ」

「そう? 良かった」

「うん。今の言葉、胸に染み入ったよ」

「ふふっ。実はね、この言葉は中学時代にやった初舞台で、憂先輩に言われた言葉なの。あの時の私はもう酷いくらいに緊張してて、一歩も前に足を踏み出せないくらいだった。でもね、そんな時に憂先輩がこうして手を握ってそう言ってくれたの。私はそれでようやく落ち着く事ができた。もしあの時、憂先輩がそうしてくれなかったら、今の私はなかったかもしれない。だから今度は、私がこの言葉を龍之介君に伝えたかったの」


 普段の憂さんを見ていると意外に思えるけど、雪村さんの言っているその場面を想像すると、結構すんなりとそんな事をしている憂さんの姿が思い浮かぶから不思議だ。

 それに雪村さんがにこやかな笑顔で話しているのを見ていると、普段は困った事をよくしている人だけど、やはり憂さんの事を尊敬しているんだなと分かる。


「そうだったんだね。憂さんのちょっと意外な一面を知った感じがするよ」

「普段は変な事をする困った先輩だけど、基本的には良い人だから」


 そう言って苦笑いを浮かべる雪村さん。その表情を見る限り、普段は本当に困った先輩の比率が高いんだろうなと思えてしまう。

 まあ、傍から見ている分には微笑ましい感じに見えるけど、雪村さん本人からすれば大変だろう。

 そして二人でそんな会話を交わしていると、受付を担当するスタッフの開場一分前を伝えるアナウンスが聞こえてきた。


「あっ、そろそろ準備しないと。それじゃあ龍之介君、お互いに頑張りましょう!」

「ありがとう。雪村さんも頑張ってね!」

「うん!」


 右手の親指をグッと立てて前に突き出す雪村さん。その姿はとても頼もしい。

 そんな頼もしい雪村さんを見送りつつ、俺も与えられた仕事を遂行する為に持ち場へと向かう。

 そして舞台が下方の正面に見える二階の持ち場へと戻った俺は、持っている台本を見ながら最後の確認を始めた。

 その最中にチラリとホールの客席を見ると、既に演劇を見に来たお客さんがぞろぞろと入って来ていて、それぞれが自分の好きな位置の席に座り始めている。客席数が五百くらいの劇場だと雪村さんは言っていたけど、どれくらいの席が埋まるんだろうか。

 そんな事を考えながら持っていた台本を閉じ、下に見える客席を埋めていくお客さんの動きを見つめた。劇場にある開放された二つの出入口からは今も絶えずお客さんが入って来ていて、既に舞台前方にある席はほぼ埋まりかけている。

 さすがは今も活躍する役者を何人も出してきた有名演劇科だ。

 次々と埋まっていく客席を眺めていると、通路で辺りを見回す一人の女性に視線が向いた。


「あっ、昨日コンビニで会った人だ」


 辺りを見回していたその女性は、しばらくすると空いていた席に向かって歩き始め、先に座っている人達に頭を下げながら前を通り抜け、空いている席へと座った。


 ――せっかく娘さんの舞台を見に来たんだから、楽しんでくれるといいんだけどな。


 そんな事を思っていると、劇場内に舞台観賞時の注意事項アナウンスが流れ始める。そしてこのアナウンスが流れ始めたという事は、開演まであと十分を切ったと言う事だ。


「よし。最後にもう一度確認しておくか」


 劇場内が暗くなる前にもう一度パラパラと台本を捲り、自分が仕事を遂行する場面の確認をする。

 そして数分後。

 劇場内の照明が全て消え、いよいよ舞台本番の幕が上がろうとしていた。俺は緊張の面持ちでスポットライトを構え、静かに舞台の幕が上がるのを待つ。


「さて。いっちょ頑張るか」


 そう小さく呟き終わると同時に、劇場内に開演を告げるブザーが鳴り響く。

 そしてそれが鳴り終わると、舞台に下りていた緞帳どんちょうがゆっくりと上がって行き、いよいよ舞台の本番が始まった。

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